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私は父のワゴン車に乗るといつも思うことがある。この小さな車体の中が、自宅よりも広々としていること。
窓が開く。硬くないシートがある。背もたれが下がる。
父と私が家にいると、どことなく歪な感触を覚える。それは、そんな名を与えられた私の生き様が反映されているからだと思う。もし私がいなくて、父だけがあの家に住んでいたとしたら。きっともっと穢れることのない整った家のままだったはずだろう、と耽る。穏やかで、毛並みが逆立たたず、殺伐とした刺激を感じない憩いの場。仕事から帰ってテレビのスイッチを入れる。突然芸者の笑い声が聞こえる。きっともっと違う家だった。
どちらかというと、私が生まれたおかげで均衡が取れていたのだ。私は歪んでいるのだ。歪な人間が家に来れば、穏やかだった人間のなり様は下がる。その代わり歪な人間のなり様は上がる。ように見える。
私も父と同じくらいの人間。父は私に合わせてバランスを取った。
興味がないというのは無知とは全く異なる。最近こそ多少考えるようにもなったが、未だに父の感情には無関心だった。手をあげる父の感情は、元から読み取っていなかったことのように思える。蹴られれば蹴られた部分が悲鳴を上げる。そこで完結してしまう。
父が無口なのもその一つだと思う。何もしゃべらないから探り様がないのだ。それを知った私は、無意識にそれを体現していた。元からそうだったのかもしれない。それはよくわからない。
車窓から見えるのは、田園と奥に見える山並み。窓からは、車の速さが作った風が吹き込んでくる。頬で感じながら見て取れる景色は、地平線とは程遠く、波うった線が何だか重く感じた。土曜になるといつもこの風景を見ていたというのに、今日はいつもと同じ景色に見えなかった。
「なあ歪」
父はハンドルを右手で握りながら、左手の指先に煙草を挟んでいた。それを一回灰皿にトンっと叩き、今度は口に咥えて両手でハンドルを握った。車は大きく右に曲がる。
「土曜日は楽しいか?」
そう聞かれ、「癒しではあったと思う」と答えた。
「そうか」
父は感情の変化を見せないような無頓着な顔をしていた。すまし顔、とはまたちょっと違った、フロントガラスの奥を見つめる目。
ルームミラー越しに一瞬目が合った。
「お前はさ、もし兄弟がいたとしたらどんな生活になっていたと思う?」
「どうだろう。あまり変わらない気はしなくもないけど、まあ、兄弟とはよく傷を舐め合ったりしたかもしれない」
フロントガラスの奥を見つめた父の目は、変わらずその先を見ていた。
あれだけ狂気になったかと思えばこんな一面も持ち得ている。なのに、無頓着。ご乱心な父は、表情一つ変えない。
もしかしたらいつもそうだったのかもしれない。私が意識していなかったからかもしれない。父の表情なんて気にしていなかったのだろう。まあそれもそのはずだ。すべてを認めて殴られるときに、父の表情なんて窺っている余裕はないだろう。もっと目を背けて、自分のことで精一杯だ。
「なあ、歪。貴調のことどう思ってる」
「どうって?」
聞き返した私の言葉に返事はなかった。貴調のことをどう思うと言われても、どうもこうもない。いきなり連れていかれ、土曜の朝から晩まで一緒に過ごして、素性も教えられていなかった女性。会う日を重ねるごとに、彼女の仕事や彼女自身のことも知り始めたが、それでもまだ間柄は軽薄という他ない。だからそういう意味で言うなら、
「どこにでもいる友達? かな」
その言葉に一寸置いて、「友達か……」と言った。
「お前何歳になった?」
「そんなの数えてないよ」
煙草を口元に持って行った。
「もうお前も十八になる」
私も知らないことを、父は知っていた。
「俺は決してお前のことを愛していない訳じゃない」
知っている。
「手をあげる理由を愛しているからだと片付ける訳にもいかない」
うん。
「貴調はさ、お前の姉だ」
そこからだ。目的地に着くまでの間、父が自分のことを話し始めたのは。お前の母親は遊び人だった。でも父はそいつのことが好きだった。自分を救ってくれた人だから。
DVを愛の表現の仕方だと思ったことはあるか? 歪んだ愛を共有できる人間を欲したことはあるか?
そんなよくわからない父の持論を、私はただ聞かされた。私はそれをただ聞き流していた。父を真似たような無頓着になった自分のことが、明確に理解された。右耳と左耳を繋ぐ一本の筒の中を、右から入った言葉がただ左から抜けていく。それをわかっている上で私は思う。
「歪」という名はぴったりだった。
いつの日か乞うことを無くしていた。今更になってそんなことをカミングアウトされても私にどうしろというのだ。これからもお前を殴るかもしれない? 出ていきたいなら出てってもいい? この間の女のところに行きたいなら行け? 結婚するならサインはちゃんとしてやる? 貴調と一緒にどっかで暮らせだ?
じゃあ今そのハンドルを握っている人間は誰なのだ。どこをどう見たって一緒に一つ屋根の下で暮らしてきた父親ではないか。まるで苦しんできたのは父の方で、暴力を振るわれ続けてきた私の方ではないみたいじゃないか。
「ごめんな、歪」
車内には煙が漂っていた。この煙は家の香りと違う。きっと父は銘柄を変えたのだろう。
二人して車を降りると、父が呼びに行くまでもなく貴調は屋敷の縁側に座っていた。
「遊んでやってくれ」
毎回聞く言葉は、私に向けられた言葉なのか貴調に向けられた言葉なのか。
父は運転席へと戻っていった。背中でいつも聞いていた音が聞こえる。バタッとドアを閉め、ドゥルンとエンジンを響かせ、砂利にとられタイヤを空回りさせながら引き返していく音。もう父は迎えに来ないのではないか、そんな気さえした。
私が貴調の元へ歩み寄ると、彼女も立ち上がって草履を擦って歩く音を響かせた。正面に来て目が合った瞬間、鼓動がうなりをあげた。
今更どうしろというのだ。一緒に暮らしてこなかった彼女。血縁関係だと知らないで会っていた貴調のこと。
この人が、私の姉弟?




