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8

 登っていく峠の道中、休憩所がいくつか用意されていた。水を配る女学生。私は受け取って全て飲み干した。

「全部飲むなんてすごいね」

「ダメなの?」

「俺はそんなに飲むと腹がたぷんたぷん言って走れなくなるから」


 私のクラスの教室にいた人物なのは覚えがある。名前は思い出せない。


「あ、俺、幸四郎(こうしろう)って言うんだ。多分小笠原は知らなかったでしょ?」


 ぐうの音も出なかった。だからと言って自分を変えてやれるほどお人よしでもなかった。


 しばらく私は一人で走っていた。峠は急な上り坂に差しかかった。もはや歩いているに過ぎない速さで、爪先を立ててアスファルトを蹴っていた。道路脇の森林に目をくれてやる暇はなかったが、進んだ先に見えた蒼さを放つ湖とやらには、目を向けることができた。


「おおー。去年も見たけど、マラソンって我慢だけじゃなくてこういう楽しみ方もあるんだよね」


 視界に入れていなかったが、隣を並走していた幸四郎はそんなことを呟いた。私に言っているのだろうか。いや私しかいない。


 無言の時間は続いた。ただの用水の溜池にすぎない湖は、海にも負けじと蒼く光を放っていた。おそらく、私だけでなく他の走者にもそう見えたことだろう。


 そんな湖は過ぎてしまった。黙々と連ねる木々の間に、人間様はアスファルトという画期的な道理を作った。太陽を吸収し、熱を吸収させ、灰色の黒さを放って陽炎と化す。真夏は酷いものだった。


 森林はどうだ。二酸化炭素という悪を吸収し、風を感じて樹々を揺らめかせるその動きは、人間を癒す他ない。自ら一酸化炭素とヘモグロビンを結合させようとする人々との対比。


 人間の平凡な日常はそんな自然を奪いながらできている。見えずとも誰もが承知しているはずだ。森で暮らす生命体に罪悪を感じないために目を背けている、若しくは、森で生きる動物を見下している。


 急勾配は、平たんな道へと変わっていた。


「あ、あそこ折り返し地点じゃない?」


 幸四郎の指さす先を見る。簡素な長机付近に、見慣れた運動着を着た学生が数名見える。見慣れていない服を着ているのは教員だろう。


 行くと、点呼を取られた。たいしたものだ。誰かが失踪することも想定して、どこで誰がいなくなったかを把握できるよう治安を維持している。そんな関所で、知らない誰かに「頑張ってください」という言葉を受け、我々は登ってきた道を(くだ)ろうとしていた。


「下りって楽しいよな。自分が早く走れてるのを直に体験できるっていうか。風を切ってるのがわかるから楽しくて足が止まらないんだよね」


 幸四郎は私の前を颯爽と駆けていた。私も負けじと追いかける。


「でも、下りって登り以上に脚を使うんだって知ってた? だからあんまり飛ばしすぎて跳ねちゃいけないんだよ。心臓の音が聞こえなくなったからって調子乗って飛ばしてたら、下りきった後の学校までの平たんな道が、死ぬほど苦しくなるからね」


 後ろを振り向きながら幸四郎は私に忠告したようだったが、それは私も身をもって体感している。


 


 早く家に帰りたい。そう思って走った昨年(さくねん)の強歩大会のことだ。山の急勾配を駆け下り、下りが緩やかになる地点に差し掛かったとき、驚くことに私の心臓は全く響いていなかった。もうすでに二十キロ近く走っているのに、だ。私は天狗にでもなった気持ちで、残りの学校までの距離を駆け続けた。

 倦怠感は突然訪れた。今の今まで動いていた脚が動かないのだ。太腿で走ろうとしても膝が上がらない。足裏の感覚も消えてきて、指の付け根で走っているような感覚だった。足の指先が一体化しているように思えた。


 焦りと先を急ぐ気持ちが同化して私を急かす。急かすのに、ゴールまでの距離は思った以上に縮まっていなかった。最後の給水地点に差し掛かったとき、学校まであと五キロあると知った。スタートから二十キロ走ってきた残りの五キロ。簡単だと思った。折り返し地点からここまでの七キロ近く。私は一瞬のことのように思えていたのだ。


 だが違った。ゴールは遠かった。思うように足が回らなかった。身体は早くゴールについて教室で寝転がりたいと言っている。でも脚は進まない。呼吸も苦しくなってきた。心臓の形が意識できるほどの鼓動を聞いていた。


 結果、ゴールしたのは十四番目だった。意外と速かったはずなのに、身体から込み上げる疲れは否めなかった。ゴールの裏門を通り過ぎて止まったときの、身体から湧き上がる熱気。


 そのとき知ったのだ。楽をして走っている訳ではないのだと。プロのマラソンランナーだってきついのだと知った。楽そうに走っているからそう見えるだけで、実際は違った。


「え、この人すごい。最初の休憩地点で五十番だったのに、十四番でゴールしてる」


 各休憩地点では点呼を取るとともにそこでの通過順位も書かれていたみたいだった。事前に各自に配布された紙があって、それを休憩地点で係の生徒に差し出していた。


 その紙の数字を気にも留めていなかったが、今ゴールしてその数字を見ると、いくらか達成感があった。





 そんなことを並走している幸四郎に話してやると、「同じ同じ! 俺も去年そんな感じだった!」と興奮気味だった。


 折り返しをして下っていると、当然この坂を上ってくる生徒と顔を合わせることになる。彼らは皆、私と幸四郎に決まって声をかけるのだ。「頑張れ」と。見るからに野球部だとわかる丸刈りの集団は、その応援にのみ熱を注いでいるようだった。ほうれい線に沿って手をハの字にする者、どこかのハリウッド芸人のように脱臼しそうな勢いで腕を回す者。それを集団でやっているのだ。


 最初こそ羞恥を感じていた。そんな声援にも慣れ始めた頃、梓の姿を見つけた。梓は見慣れない女子生徒と一緒に歩いていた。こっちに手を振ってくれた。私にも幸四郎にも「頑張れー」と。横切る際。距離にして一・二メートル。その距離は限りなく近かった。


 梓だけではなかった。顔見知り、もはや顔も知らない誰かから応援されているのだ。そのことが何だかやけに鼓動を冷えさせ、胸の奥を熱くするのだ。昨年の私は何を見ていたのだろうと考えたとき、ただひたすらに家に帰ろうとしていた、もしくは自分の苦痛に耐えるのに必死で周りに目が行かなかった、ということだろう。


「なんか嬉しいよね。知らない人から応援されてるって。プロの人はこんなの毎日受けてるんだから、ほんと羨ましいよね」

「プロはそういうの慣れちゃってて、この嬉しさなんてもう感じてないよ。麻痺しちゃってる、かも? いやそんなことないか。そんな人がいいタイム残せるわけないよね」



 今年の私がゴールの裏門に駆け込んだのは、二十五番目だった。幸四郎は二十三番。最後の直線で私と離れた後、誰かを抜かしたのだ。


「明日絶対筋肉痛だよ」


 ゴールして待っていてくれた幸四郎と教室までの道のりの中、そんな彼の声を聞いて思い出した。私はそのことを忘れていた。筋肉痛になって、疲労感がとめどなく全身にのしかかっていて、次の日の自分がどうなったか。


 五時に起きられるはずもなく、父に叩き起こされ、眠い眼を開かせるように髪を鷲掴みにされ、酷い目にあった。唯一の救いは、その日が休校だったということ。それを知らずに登校した私は、同じ筋肉痛の中、校庭で肉体に鞭を打っていた部活動の生徒によって知ることとなった。



 幸四郎とともに教室に戻ると、部屋には誰もいなかった。私のクラスでは帰ってくるのが早い方なのだろう。共に砂埃の付いた床に背を向けて転がった。


「疲れたな」

「ああ、疲れたよ幸四郎」


 こんなに疲れたのは初めてだったのだ。見知らぬ他人からの声援を浴びても尚、身体は、疲れたのだ。


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