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 どれくらい走り続けただろうか。最初の休憩地点は通り過ぎた。時間にして一時間弱と言ったところだろう。軽く息が上がって来たものの、まだ余裕を見せられる程度には走っていられる。そんなときに見つけた梓。一つ縛りの髪型なんてこの大会ではごまんといるだろうに、後姿と歩き方でわかった。


 俯きがちなのは元からなのだろうかと訝れるくらい目線は下。癖なのだろうかと思えるくらいには、前を向いている。背筋をもっと伸ばせば、貴調と同じくらい美人に見えるだろうに。


 彼女は遊郭にいたのではなかったか。そう思うが、どこの遊郭もきちっとしたしきたりがある訳でもなかろう。若しくは、自分が馴染めなくて、馴染もうとしなくて、追い出されたのか。どちらにしても、後姿で梓だということはわかった。


 とぼとぼ歩く、と言うのがふさわしいに値する彼女の後姿。大きくなる背中。目の前に来て私の右手は彼女の肩へと吸い込まれた。


「わあ」なんて言葉も白々しい。そう思えるくらいに彼女の反応は見え透いていたと言おうか。でも、そんなことを無意識にやっている梓がいたとしたら、それはそれで誰かは受け入れることができるだろう。仕草が「可愛い」だなんて、そんな陳腐なものだ。それを美化させるのはいつも自分の捉え方。綾なされた美徳に私は寂びを感じる。時代も変わってしまったなと。こんな口調で、こんな仕草で、昔の花魁たちが集る男衆に媚びていたのだなんて到底思えない。


 かといって私にもそんな時代の心はない。単純な振り向きざまの瞼の動き、声の性質、言葉遣い。その程度で私の心は現代に即したものだとわかる。


「やっぱ一緒に歩こうよ。俺が励ましてやらないと梓はゴールできないんじゃないか?」

「はあー? 馬鹿にしなさんなー。去年だってちゃんとゴールしたんだからねー。ドンケツに近くて先生と一緒だったけど」

「ギャルの典型だな。いい具合にぐれてる奴は先生と歩いてる気がする。ほんとにぐれてる奴はさぼるんだろうけど」

「え、私ってギャルに見えるの?」


 自分がギャルだとは夢にも思っていないだろう反応に思えた。素直に聞き返してくるあたりも白々しい。と思っている私も白々しい。見え透いた真似はよせ。自分をコントロールしているのは自分だけだけだろうが。


 ギャルだなんて言葉が私の口から以前に出たことがあると思うか? 初めて口にしたよ。それもこれも全部梓のせい。簡易的なくそでっち上げストーリーを即興で創作して口にしただけ。本当にギャルだと思っている訳ではない。


 でも、それさえも彼女は本当の事のように思っているのだろう。そういう純粋さを目の当たりにすると、自分の心は洗われる。社会全体で見ればそれほど穢れているはずではないだろうに、彼女の方が穢れているはずなのに、私は自分のことが彼女より醜いと思えてしまうのだ。


「今度一緒にどっか行こうよー」

「それ、父にも言われた」

「え、あのお父さんが? なんてー?」

「こんな家じゃなくてもっといいところに連れてってやれだって。不憫で可哀想でならないって」

「え、マジ? 私って可哀想に見えてんの?」

「アホ。俺んちに来たからそう見えただけだろ。普通に見たらただの女子高生にしか見えないって」

「へえー。私は女子高生なのかー」


 梓は私の方に近寄ってくる。


「寄るな、暑い」


 そう言って寄せてきた肘を弾いた。


「歪くんってクールな人だと思ってたけど、全然違うねー」

「それはお前と話してるからだろ」

「褒め言葉?」


 何事もポジティブに捉えることができる。悲しいときに趣のある表情になって、泣きたいときにはしっかり泣くのに顔は見られまいと手で隠す。私が手を下ろせと言えば素直に下ろす。潤んだ瞳を露にして、手を(さす)りながら私がいいというまで私が言わなくても待っていられる人。


 純粋すぎる。そしてどこまでも根が深い。(はす)のように地上では綺麗な花びらを咲かせているが、根は蓮根という名のいつかは誰かに食われる食材。こいつの蓮根は誰かのためにある。こいつの奥深しさは、誰かのために伸びている。


 私とは正反対だった。


 そんな梓に嫉妬するのも、自分が恨めしく思えてしまうのも、好意を抱かせるのも、全部潔白な麗しさを漂わせる花弁のせいだ。真っ白な純白の先には、仄かな淡紅色。桜のような見る者の心を優しく穏やかにさせる力を持っている。


 そんな気がした。


「ねえ、やっぱり走って来ていい?」

「うん、いいよ」

「いや、少しは止めなさいよ」


 その言葉に彼女は、「だって走りたいなら走ればいいじゃん。私はいくらでも待つよ」と言った。

 待つのは梓じゃなくて俺のはずなのに。


 どこまでもいい女だった。去り際の、「歪くんは無賃客じゃないはずだから」という呟き。それがすべてを物語っていた。


私は梓を一人置いて、走り出した。


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