7
どれくらい走り続けただろうか。最初の休憩地点は通り過ぎた。時間にして一時間弱と言ったところだろう。軽く息が上がって来たものの、まだ余裕を見せられる程度には走っていられる。そんなときに見つけた梓。一つ縛りの髪型なんてこの大会ではごまんといるだろうに、後姿と歩き方でわかった。
俯きがちなのは元からなのだろうかと訝れるくらい目線は下。癖なのだろうかと思えるくらいには、前を向いている。背筋をもっと伸ばせば、貴調と同じくらい美人に見えるだろうに。
彼女は遊郭にいたのではなかったか。そう思うが、どこの遊郭もきちっとしたしきたりがある訳でもなかろう。若しくは、自分が馴染めなくて、馴染もうとしなくて、追い出されたのか。どちらにしても、後姿で梓だということはわかった。
とぼとぼ歩く、と言うのがふさわしいに値する彼女の後姿。大きくなる背中。目の前に来て私の右手は彼女の肩へと吸い込まれた。
「わあ」なんて言葉も白々しい。そう思えるくらいに彼女の反応は見え透いていたと言おうか。でも、そんなことを無意識にやっている梓がいたとしたら、それはそれで誰かは受け入れることができるだろう。仕草が「可愛い」だなんて、そんな陳腐なものだ。それを美化させるのはいつも自分の捉え方。綾なされた美徳に私は寂びを感じる。時代も変わってしまったなと。こんな口調で、こんな仕草で、昔の花魁たちが集る男衆に媚びていたのだなんて到底思えない。
かといって私にもそんな時代の心はない。単純な振り向きざまの瞼の動き、声の性質、言葉遣い。その程度で私の心は現代に即したものだとわかる。
「やっぱ一緒に歩こうよ。俺が励ましてやらないと梓はゴールできないんじゃないか?」
「はあー? 馬鹿にしなさんなー。去年だってちゃんとゴールしたんだからねー。ドンケツに近くて先生と一緒だったけど」
「ギャルの典型だな。いい具合にぐれてる奴は先生と歩いてる気がする。ほんとにぐれてる奴はさぼるんだろうけど」
「え、私ってギャルに見えるの?」
自分がギャルだとは夢にも思っていないだろう反応に思えた。素直に聞き返してくるあたりも白々しい。と思っている私も白々しい。見え透いた真似はよせ。自分をコントロールしているのは自分だけだけだろうが。
ギャルだなんて言葉が私の口から以前に出たことがあると思うか? 初めて口にしたよ。それもこれも全部梓のせい。簡易的なくそでっち上げストーリーを即興で創作して口にしただけ。本当にギャルだと思っている訳ではない。
でも、それさえも彼女は本当の事のように思っているのだろう。そういう純粋さを目の当たりにすると、自分の心は洗われる。社会全体で見ればそれほど穢れているはずではないだろうに、彼女の方が穢れているはずなのに、私は自分のことが彼女より醜いと思えてしまうのだ。
「今度一緒にどっか行こうよー」
「それ、父にも言われた」
「え、あのお父さんが? なんてー?」
「こんな家じゃなくてもっといいところに連れてってやれだって。不憫で可哀想でならないって」
「え、マジ? 私って可哀想に見えてんの?」
「アホ。俺んちに来たからそう見えただけだろ。普通に見たらただの女子高生にしか見えないって」
「へえー。私は女子高生なのかー」
梓は私の方に近寄ってくる。
「寄るな、暑い」
そう言って寄せてきた肘を弾いた。
「歪くんってクールな人だと思ってたけど、全然違うねー」
「それはお前と話してるからだろ」
「褒め言葉?」
何事もポジティブに捉えることができる。悲しいときに趣のある表情になって、泣きたいときにはしっかり泣くのに顔は見られまいと手で隠す。私が手を下ろせと言えば素直に下ろす。潤んだ瞳を露にして、手を摩りながら私がいいというまで私が言わなくても待っていられる人。
純粋すぎる。そしてどこまでも根が深い。蓮のように地上では綺麗な花びらを咲かせているが、根は蓮根という名のいつかは誰かに食われる食材。こいつの蓮根は誰かのためにある。こいつの奥深しさは、誰かのために伸びている。
私とは正反対だった。
そんな梓に嫉妬するのも、自分が恨めしく思えてしまうのも、好意を抱かせるのも、全部潔白な麗しさを漂わせる花弁のせいだ。真っ白な純白の先には、仄かな淡紅色。桜のような見る者の心を優しく穏やかにさせる力を持っている。
そんな気がした。
「ねえ、やっぱり走って来ていい?」
「うん、いいよ」
「いや、少しは止めなさいよ」
その言葉に彼女は、「だって走りたいなら走ればいいじゃん。私はいくらでも待つよ」と言った。
待つのは梓じゃなくて俺のはずなのに。
どこまでもいい女だった。去り際の、「歪くんは無賃客じゃないはずだから」という呟き。それがすべてを物語っていた。
私は梓を一人置いて、走り出した。




