【見えない切れない繋がった糸】
私、歪は高校に入学した。入学して一年を過ぎようとしているが、中学時代と変わったことなどない。不定期な土曜の遠足は未だに続き、貴調と顔を合わせるたびにそれは私の癒しとなっていた。強いて言うなら、父の態度が少し落ち着いてきた。時の流れだろうか、父さんの面影がちらちらと見えていて、以前に比べて酷くなくなった気がする。
ただ、それは強いて言うならの話。別に日常は今まで通り充実している。朝五時に起床して朝ご飯を作る。父とともに食卓を交わし、父が出ていく八時になると、私は家事に追われる。以前よりかは距離が近くなった高校。それでも私の遅刻は後を止まない。
部活も当然入らなかった。学校が終われば帰りにスーパーにより、食材を揃える。家に帰って洗濯物を取り込んで畳み、元の場所へと戻す。夕飯の用意をする。風呂掃除をして沸かしておく。残った時間は、課題に取り組むかテレビをつけてぼーっと惰性で眺めているだけ。
父が帰ってくれば、キッチンにラップをしてあった皿を食卓に並べ、あとはじっと机の上で待つのみ。待っている間も表情は和やかでいなければならない。もし少しでも父の気に触れてしまえば、あとは幾度となく感じてきた衝撃を待つのみ。
というのは中学を卒業する辺りで変化した。最近は、父が食事中でも私も食事することを許されていた。
いつ頃だろうか、中学二年だったか。あまり覚えていないが、父との雑談が増えたのだ。「学校どうだ」とか、家を出る前に、「行って来る」という言葉を聞くようになった。それだけでも私の心は、少しではあるが感情の高ぶりを感じたのだ。あの無口にだった父が、私に向かって言葉をかけているというだけで目頭が潤みだすくらいで。また明日もその声が聴けるかな、と寝る前に枕元で何度か囁いた。
それからも怒られたり、殴られたり、煙草を拝借することもあった。それでも私の生活は以前より鮮やかなものになったと思う。
「ひーずみくーん」
振り返ると、制服を着た女子生徒がこちらを窺っていた。
「明日強歩大会だね。歪くんは誰かと走るの?」
「いや、一人で走ってさっさと家に帰るかな」
「ああーそうだよねー。体育の授業とかでも歪くん速いよね。部活やってないのになんでそんなに速いの?」
彼女の目の付け所は、一人、ではなく、さっさと家に帰る、の方だった。
「それは……」
それは、よく知りもしない地に落とされて歩いたり走りまわったりしているから、なんて言えるはずがなかった。今思うと、毎回毎回家に帰ってこられるのが不思議なくらいだ。父も見越してそういう場所に捨てるのだろうか。
「まあ、気づいたら速かった……から?」
「かっこいいー」
そう言って彼女は、私の机の上に腰掛けてきた。
「なんでそんなにクールなの? 学校来る意味ある?」
どういう意味だ。
「んーーああーーあれだ。学校に来れてない奴のためかな」
「ふーん」
彼女は私の座る目の前に背を向けていた。スカートのひだが綺麗に並んでいる。それがふわっと浮いた。軽く跳ねながら飛び降りて、こちらを向いてしゃがんだ。正面の机の端に両手をひっかけて、その間に顎を乗せて。
「明日一緒に歩いてくれないかなーって思ってたのになー」
「池津がいるじゃん」
「ああー。あんなのいつも話してるからいいのよ。歪くんと少ししか話したことないし」
彼女は机に顎をつけるのをやめ、両肘を机に乗せて前かがみになった。カーディガンの首元の流れに沿って、ワイシャツの襟も少し開けていた。
「ブラ見えるけど」
「やーねー。見せてるのよ」
そんなことを言う彼女が、自分より何歳も上の、経験豊富な大人に思えた。
「いいバイト紹介してあげようか?」
「え、なになに」
「病気になったら評価がひっくり返るところ」
「ああー。あそこには戻りたくないな」
ほら、やっぱり大人。
「じゃあ胸元を閉めろ」
「なんで?」
「見るに堪えない」
「うそー。結構大きいんだけどな」
そう言って自分の胸元を確認する辺りが、こいつの長所でもあるのだろう。
名前も知らないようなその女は、少しはましな人間だった。何かに追われていて、何かを追っていそうで追っていないように見せる人。こういう人間は一番扱いづらい。反して、臆病なその心を開くための鍵は、意外と簡単な言葉であったりする。その鍵を、私の分厚い辞書から探し出すのはとても苦難を強いられることだった。
「ねえ、家来ない?」
「やだ」
「ええーなんでー。行こうよー。ちょっとぐらいだったらやらしいことだって、」
「なんとなくわかるんだよ。お前みたいな愛に飢えてる奴のこと。相手の下心を考えてる余裕がないくらい切羽詰まってる自分の心を殺そうとしてる奴」
私は自分の鞄に課題を詰め込み、席を立った。なんだ今の自分の態度は。クラスメイトに投げるような言葉か? 友達のいない私をおちょくってるとしか思えない。舐められたもんだ。舐められるように生きているのは私だ。置かれた机の隙間を縫って後ろの扉まで行ったとき、彼女が何か言った。
「私の欲しいものって何だかわかる?」
振り返って言う。
「さあな。俺は他人の感情なんてわかんねえよ。それも自身が自身の感情を隠していたり、気づいてないんだったら尚更だ」
「じゃあ教えてあげようか」
「やめておくよ」
私は背を向けた。
「愛なんか欲しくないのよ。一瞬でいいの。セックスのときだけ私のことを考えてくれれば」
背中でその言葉を聞いたとき、世の中はつくづく広いなと思った。自分が想像もしないようなことを考えている人がいる、返事が返ってくる。おまけにそれを、親しくもない私に堂々と伝えられるその度胸。
やっぱり切羽詰まっている。
私は笑みを零したと思う。
傍から見たら、そういうところが舐められる理由なんだ、と自覚もある。
まあ真意はどうだっていい。いい人そうだが、こいつの遊びに付き合っている暇などない。これからスーパーに行って料理の支度をして、と私にはどこまでも繰り返される有意義な日常が待っているのだ。こんなところで突然コースに乱入してきたじゃじゃ馬に日常のリズムを崩されてはならない。
俺のために生きろ。どこまでも。




