闇の中の灯火
鉄の匂いがする。傷が塞がる前にまた新たな傷ができるほど壮絶な訓練で、その夜の食事では味がしなくなるほど鼻に染み付いた、生臭い剣の匂い。それは口の中に広がり、舌の付け根にぬるっと絡みつく。血液の味。
「う…………あ」
舌がうまく回らない。回す舌が無い。前歯の裏に舌を付ける発音が出来ない。届かない。魔力による回復は、心臓の修復にすべてのリソースを回しているため叶わない。確か、捕虜に拷問を施す訓練の際に学んだっけ。魔術師は舌が命だから、まず最初に切り落とすことだって。ペンチでつまんで引っ張り出して、切れ味の良いナイフで――あるいは鋏で――断ち切るのだと。
「くあいす、あま」
クラリス様は、騎士団の皆はどうなった。メーベの古城でヴァリス騎士団の影狩り部隊の襲撃に遭い、自団の人間が、まるで踏み荒らされた蟻のように散り散りになったことは覚えている。私は心臓を貫かれ、気を失った。あのクラリス様が、何もできず拘束された姿を終わりに見て。
ともかく今は、この状況から脱せねば。私はあたりを見回したが、けれども血の匂いで充満する部屋の中には一切の灯火が無く、果たして私一人だけなのか、それとも他にも誰かいるのか分からない。一つ分かるのは、私の両手は鉄枷によって封じられ、天井から吊られて常に膝立ちの状態にさせられているということ。そして心臓に、杭を打たれていること。そのせいでいつまで経っても心臓の修復が完結せず、他の部位の回復に魔力が回らないのだ。
暗闇に目を慣らせようと暫く一点を凝視し続けるものの、一向になんのシルエットも浮かんでこない。まるで目をくり抜かれたようだ。いや、目から涙が流れ続けている様子から、どうやら本当に目玉が無いらしい。あるいは潰されているのか。激しく痛む眼孔に、ようやく気付いた。
また、どうやら聴覚は失っていないことにも気づく。耳をすませば、聞こえてくるのは冬の寒空のような静寂のみ。この部屋には独りしかいないようだ。唇を巻き込むように口を閉じ、空気を押し出すように口を開けば、小さな破裂音が反響する。僅かな反響音も逃さないように聞いてみれば、部屋の大きさはそれほど大きくないことも分かった。私だけの個室のようだ。
誰か来る。廊下を歩いているようだ。心地の良い足音からして、踵の高い、高価なブーツを履いていることが分かる。歩幅は大柄な男のものだが、その歩き方は婦女子そのものだ。どうやら私の尋問を担当するのは、彼あるいは彼女らしい。
「お久しぶり、マチルダちゃん。こんな形で再会するのは喜ばしいことではないけれど、事情が事情だから堪忍してちょうだいね」
まるでこの部屋の壁に染み付いた血の様に、 耳に居残るねっとりとした話し方。生クリームでコーティングしたケーキを、さらに溶かしたチョコレートで覆ったような、胃もたれのするくどさ。外国からは狂人として恐れられ、ウラシアナ人からは監査人として敬遠される拷問狂。私に拷問のイロハを指導した人間。男爵トルニアだ。
「クラリスちゃんが裏切り者だということはまだハッキリ分かっていない故、貴女を尋問にかける必要は未だないのだけど、貴女の魔術は非常に危険だから、そうするほか無かったの」
すべてが仕様の無いことだと言わんばかりに、彼あるいは彼女は私にそう言い繕った。この人が如何様な人物であるかは知っている。表面では善い人の仮面をかぶり、頑なに拷問のことを“痛みの伴う尋問”と称すが、実際は愉悦と情欲を満たす手段としてソレを執り行っている。1年余りの訓練で垣間見た、この男の異常性。私が唯一、敵に回したくなかった人物。
「ちょっと失礼するわね」
眼、口腔、胸部、手首、足首、トルニアは、私の身体の隅々を調べ上げる。私が扱う未知の魔術を恐れてか、革手袋を身に着け、決して素手で触れようとはしなかった。
「すごいわね。ごく僅かだけど、胸に打ち付けた杭が、外に押し出されている。安易に抜けないよう、“返し”を付けているのに」
そのおかげで、余計に心臓に食い込んでしまったが。本当、嫌な設計をしている。メーベの古城で私を貫いた剣も、おおかたトルニアが考案したのだろう。
「あなたの魔術は、まだまだ未知の領域が多いわね。穹窿を司る魔術が多いこの国でも類を見ない魔術だわ。確か、うちゅう、といったかしら。アナタはこの魔術をどこで修得したのか、あるいは誰から学んだのか、詳しく教えてくれる?」
「いわあい」――――言わない
「そう、いい回答ね。アナタのその答えは、たった今、私に大義を与えた」
今から私は、この男の玩具にされるのだろう。こいつの欲望を満たすための、ただのはけ口に。どんな非道いことをされるのか、簡単に想像できる。それでも私は、屈さない道を選んだ。いくら体を穢されようと、この魂だけは、遥かな高みに置いておきたくて。
トルニアによる拷問は、体感ではあるが半日ほどにまで及んだ。自分でも想像し難いほど、自身の身体がどのように変形したのか分かりかねる。もし拷問の分野で世界大会が開催されたのなら、トルニアは反則退場になるだろう。彼の仕事における手順および手段は依然として人道から外れるものであり、おかげで瞬間的な痛みには慣れてしまったが、けれどその後にくる鈍い痛みは、どうにも慣れそうになかった。
トルニアが退室してからは、後始末を任された人たちがやって来て、彼が付けた傷の手当てをしてゆく。その中には、私の身体を見て嘔吐する者もおり、女として、最も心の痛んだ瞬間であることに違いは無かった。けれど、それも続けば慣れるもので、私の手当てを行う者たちも、おいおい事務的な手際でこなすようになった。毎日毎日、その繰り返し。だが悪いことばかりでもなかった。この一連が日常になり果てた結果、私は男性に対する接触恐怖症を克服したのだ。一方的に触れられることに限り。
「それじゃあ、あとはよろしくねー」
「は」
本日の拷問メニューを堪能したトルニアが、いつも通り後始末担当にバトンタッチをする。まるで嫌がらせかの様に、今日まで男の医者が続いたが、珍しいことに、今回の担当は女性らしい。
「ようマチルダ。久しぶりだな」
この声は。
「まさかお前のこんな姿を見る羽目になるとは、なんとも胸糞わりいもんだ。怪我はどうだ、痛むか? 良く診せてみろ」
あぁ、いつぶりだろうか。こんな様の私を見ても、刺々しい喋り方が変わらないことには驚きだが、けれどいつもより丸っこい口調に、私の目からは血とも涙とも知れない液体があふれてきた。そして久しぶりに感じる温度に、嗚咽も一層激しくなる。まさか他人の体温にここまで安堵する日が来るとは思わなかった。
「きーあう」――――キーパル
「喋るな。いま治してやっから」
そう言って彼女は、私に回復魔法をかけた。初めは口腔、つづいて胴体、それから手足の腱など、目につく傷を、彼女は片っ端から癒してくれた。その際、彼女は心臓に食いついた杭も抜こうとしたが、けれど抉られるような痛みに私が喘いだせいで、それが叶わないことを理解した。つぶれた眼球を最後に回したのは、彼女なりの気遣いなのだろうか、けれどそれが一層嬉しかった。――――しかし、なぜキーパルがここに。クラリスの騎士団が裏切者と周知されているはずの今、彼女も国内を自由に歩き回れる身分に無いはず。
「悪い、胸の杭は抜けそうにねえわ」
「…………キーパル卿、なぜ、ここに」
「その話は後だ。今はとにかく、ここから出るぞ」
彼女は、どこで手に入れたのかも知り得ない鍵束を選り分け、そのうちの一つで、私を拘束していた枷を外した。そしてその瞬間、私の身分が脱獄囚となったことを悟り、まるで大海に独り、巨大な魚から泳いで逃げているかのような、ひどい焦燥感が全身を駆け巡った。
「は、はやく逃げましょう」
「分かってる。逸る気持ちも分かるが、静かに行動してくれよ」
キーパルは、羽織っていた、医療従事者に支給されるフード付きの黒い外套を私に手渡しながら、蒼眼が映えるいつもの丸っこい目を、今はぐっと険しいものにしてそう言った。当然私も、1年間訓練を耐え凌いだ軍人であるが故、すぐさま冷静さを取り戻し、彼女の言葉に頷いて見せた。そうすればキーパルはニッと笑みを浮かべ、私の頭に手を置いてくれた。
そうして私は、先に外の安全を確かめたキーパルの手の合図に従い、ようやくこの牢獄から出ることになるのだが、血やら排泄物やらで塗れたレンガ造りの一室を改めて目の当たりにして、自分がもう、1年前とは違う存在になったのだと自覚した。果たして私は、かつての笑顔を用いて、村の皆を安心させることができるのだろうか。
「おい、何やってんだ、早くいくぞ」
「すいません、只今」
今は何も考えないでおこう。幸い、私の魂は尚も、あの頃のままなのだから。




