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や、でも、そんな。

 薄い雲が青を通し、晴天の遠くに浮かぶ有明の頃、小鳥がよく鳴きしきる早朝に、私は起こされた。いや、起こされただけならまだよかった。ゆっくりと朝食を食す暇もなく、あまつさえ顔に水を掛けてスッキリする余裕すらも与えられず、私はまどろむ頭を左右に揺らしながら、ヴァリア森林へと赴いていた。


「お姉ちゃん、見てこれ」

「うん?」


 ソフィアが膝を着いて触れるそれは、獣の足跡だった。まるで“生きた証をこの世に残す”とでも言わんばかりに、他にも葉に絡んだ羽毛や、茎を折られて項垂れる白い花などが見受けられる。恐らく獲物は、後ろ脚に軸を置いて移動する小動物だ。


「兎の足跡かな」

「ウサギっ?」


 身の丈ほどの弓矢を携えたソフィアが、目を大きく輝かせながら声を張る。

 そう。なぜ私が、こんな朝っぱらから鬱蒼とした森林に身を投じているのかというと、それは狩りの為だった。昨日の夜のこと、『明日狩りへ行こう』と私がソフィアを誘ったばかりに、それに気を良くした彼女は今朝、月が落ちるのと同時に私のベッドへダイブしてきたのである。


「ソフィはウサギが好きだもんね」

「うん。絶対に獲るっ」


 そう意気込んで弓に矢をつがえるソフィアは、さながらウサギのように辺りを見渡しながら、その影を探す。けれどまあ、先ほど彼女が森林に声を通したお陰で、今頃それらは遥か遠くへ逃げた事だろう。


「マチルダさん、これは何というお花でしょうか?」


 そして今回の狩りには、貴族であり軍人であるクラリスも同行していた。とはいっても、雪色の花弁に好奇心を注いでいる様子を見るに、最早狩りをしに来たと言う意気は持ち合わせていないようだ。クラリスの方から誘ってきたのに…………。


「それはホーラっていう花です」

「ホーラ、ですか。ふむ」

「“愛しきあなた”っていう花言葉があるんですよ」

「へーえ、素敵な花ですね」

 

 目が眩むほど美しい白い花、ホーラは、遥か昔、というよりも神話の様な時代の頃、ある神様が花の女神である妻を探して森に入り、妻と見間違えて声を掛けたのがこの花なのだそうだ。そして花畑の中で眠る妻を見つけた神様は、その魂を見送った後、花に妻の名前を与えたのだという――――。それがこの地に伝わる伝説であり、毎年秋が来ると、この花を大切な人に贈る催しもあるほどだ。


「マチルダさんは花にも詳しいのですね」


 ホーラのおとぎ話を彼女に聞かせてやると、まるで少女の様な笑みを以って、クラリスはそう言った。けれど、私の興味は花でなく、その物語にあると言った方が正しい。幼少の頃に聞いたそれは、死とか愛だとかをまだ知らない心には衝撃的だったのだ。でも、この話をいつ誰に聞いたのかは忘れてしまった。


「いえ。私が詳しいのは、この花だけです」

「この花が、好きなんですか?」

「そうですね。執心するほどではないですけど」

「なるほど。けど、そういった心は、大切にすべきです」


 そう言う彼女の目元は――普段からそうではあるが――どこか寂し気な気色が含まれているように見えた。まるで何と言うか、私とは全く逆の人生を歩んでいるように思える。私とは違って器量のある人の筈なのに、何かが足りていないのだ。とはいっても、まだ知り合って日も浅いので、そこまで深く踏み込むことも出来ない。


「ところで、ソフィアさんはどこへ行ったのでしょうか」

「え?」


 彼女の言葉に気が付き、先ほどまでソフィアが居たはずの場所に目を移す。だが、そこに彼女の姿は無かった。


「あれ、ソフィア?」


 ものの数秒だった。私がクラリスの方に意識を向け、ソフィアから目を離したのは。恐らくウサギの足跡を追っていったのだろうが、かといって森の中で独りにするのは不味いので、私はすぐさま彼女の痕跡を探した。


「全ての者が存在する意に語りかけんと、その御心を彷徨えし巫女に賜え、慈しむものに祝福を与えん。我、御主の神霊に添って奏上す」


 地に残された幾つかの足跡を見定めていると、クラリスの詠唱が耳の奥に染み渡った――――。さながら大地が燃ゆるかの様な赫々たる煌めき。次第に形作られる万象。まともに陽も射さない山林でのそれは、この目に超越的な美しさを見せつける。


「【奇蹟の子らよイファ・ドゥミラキ発現せよレヴェレーション】」


 そうして彼女が魔術を唱えると、オオカミやシカ、果てはリスやウサギなど、大小様々な動物を模った光が、その姿を足元から実現させた。なんと安らかで可愛らしい魔術なのだろう。なんだか少しだけ羨ましい…………。


「【行けソロ】」


 光から生み出された動物たちにクラリスが命令を下すと、まるで本物の生物であるかのように、それらは元々からそうだったと思うほど自然な挙動で、森の薄暗さへ姿を消してしまった。


「今の魔法は?」

「いつもは索敵に使っているのですが、本来は人探しの魔法なので、役立つかと思いまして」

「へー。便利なものもあるんですね」

「そうですね。でも、これが魔法の在るべき姿だとも思っています」

「なるほど」


 彼女の言う通りだと思った。本来、魔法とは暮らしを助けるすべであり、遥か古代から、人々は魔法を使って生活を豊かにしていた。という記述を、イワンダさんから借りた書物で見たことがあった。戦争によってそのイメージは淀んでいたが、彼女が使用した魔法を改めて目にして、それが払拭されたのを感じた。


「すいません。せっかくのお休みなのに」


 彼女と森を歩いている最中、私は苦笑いとともにお詫びの言葉を入れた。本当なら羽を伸ばすために私を狩りに誘ったのだろうが、しかし迷子のソフィアを探すという結末になってしまった事が申し訳なくて。けれどクラリスは、どこか嬉しそうな表情を浮かべ、煙を払うような仕草をして見せる。


「いえいえ。もともと狩りは好きじゃないですし。こっちの方がよっぽど和やかじゃないですか?」

「え。じゃあ、なぜ私を狩りに誘ったんですか?」


 するとクラリスは、依然として辺りを見回しながらではあるものの、まるで答えを用意していたかのように、何の恥ずかしげもなくこう言ってくる。


「私、マチルダさんの事、もっとよく知りたいんです」

「へっ?」


 彼女の言葉に気が抜けたからか、それともぬ地面がぬかるんでいるから、まるで誰かに足を引かれたかのように、私はバランスを崩し、不様にも正面から転んでしまった。


「ど、どうされましたっ?」


 踵を返し、私を起こそうとこちらへ駆けてくるクラリスだが、しかしその言葉は私のセリフだ。


「わ、私の事を知りたいって、どういう意味ですか?」


 するとクラリスは私の手を引きながらこう答える。「恥ずかしながら、あなたに興味があるんです」と。…………当然、そんなことを言われてしまえば脈が速くなるもので、誰かに口説かれたことが無かった私は――村に男が少なかったのも理由の一つに挙げたいが――まるで内側から燃えているかのように体が熱くなった。


「それって、私の事を…………」


 好きなの? 私の事が好きなのですか? でも私、女だよ。――――ああ、頭がぐるぐるする。でも、今の言葉の意味って、そう言う事だよね。


 このときマチルダは、クラリスが放った言葉の真意を理解しきれていなかった。クラリスは彼女が持つ宇宙の魔術についてその好奇心を注いでいたのだが、しかしそういった事に疎いマチルダは、彼女の言葉が孕んだ内容を違う方向に解きほぐしてしまい、そして誤った理解のまま心得てしまった。故に彼女はこう返す。


「わた、私も、クラリスさんに…………興味があります」

「本当ですかっ? となると、こういう時はどういえばいいんでしょうか。相思相愛?」

「そッ、相思相愛!?」

「あ、違いますよね。うーん。ぴったりな言葉が見つかりません」


 こうして、追い打ちかけるかのようにクラリスが言い違えた事によって、マチルダの勘違いは一層激しくなり、もはや言葉の組み立と、それを伝える事すら難しくなるほどに、マチルダの知能指数は馬鹿になってしまった。

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