前編 ラベル「ボレロ」
三重陽子
芸術選択授業「音楽1」の授業1回目の自己紹介の時だった。その女子生徒は前の方の席にいた。立ち上がって後ろの方へ向くときれいに肩までのばした髪の毛、強い目線できれいな子。そんな事を思っていたら、その子は開口一番こう言ってみんなを驚かせた。
「古城ミフユ、A組です。私は独唱だと音程がおかしい時があります。音感がないんだと思うんですがそれを追求したくて選択しました。皆さんに迷惑を掛けるかもしれませんがよろしくお願いします」
確かにその子は独唱だと音程の外れ方が目立った。でも周りにその事を嘲笑させないだけの何かを持っていた。そして正しくある事への激しさを内に秘めた子だった事をある事から私は知る事になった。
冬ちゃんこと古城ミフユさんとは縦笛演奏で同じグループになった事が友人関係の始まりになった。
私はE組、あの子はA組でクラスはバラバラ。2年目の文理選択で私は文系に、あの子は理系に進んだ。なので芸術選択科目で一緒にならなかったら知り合う事すらなかったかもしれない。
私が芸術選択科目で音楽を選んだのは歌ったりするのは嫌いじゃないって事はあるんだけど、もともと絵のデッサンは得意じゃないし、書道も好きじゃないからという消去法で残った結果だった。
それにしても冬ちゃんが音楽を選択したのは今からすると驚き。あの子もなんでも出来る子と見られがちだけど、こと音楽、歌唱だけは例外だと自身でも認めていた。そういう自分をなんとかしたかったのか、敢えて選んだという挑戦だったのかも知れない。
1年A組とE組の芸術選択授業は週2回月曜日4限目と木曜日5限目にあった。休み時間にそれぞれの特別教室に移動して授業を受ける事になる。音楽1は2クラスで20人ほどの男女生徒が受講していた。
5月に入って連休明けからの音楽の授業は縦笛合奏の練習になった。A、E組シャッフルで男女混合のグループが作られてソプラノリコーダーとアルトリコーダーの練習をして授業時間最後に各グループで選んだ曲を演奏するというような感じ。
月曜日3限目の終礼のチャイムがなるとカバンから縦笛ケースと教科書を出した。音楽で同じグループの子も行く用意をしていたので声を掛けた。
「川上さん、もう行く?」
「あ、委員長。行けるよ、行こう!」
確かに私はE組の委員長だけど名前で呼んで欲しいんだけどな、なんて事を思いながら川上さんと連れ立って音楽教室へ向かった。一度は川上さんに言ったんだけど「委員長って言える友達って今まで居なくて憧れてたの!」と朗らかに言われると止められない。諦めた。
川上さんは身長160センチぐらいで栗色の髪の毛をポニーテールにまとめた元気系女子で放送委員会に入っている。音楽が好きでDJ番組やるんだと言っていたけどクラシックの方が好きらしくとっても詳しい。こういう子が音楽を選択するのはよく分かる。
他のクラスの子達が休憩時間中の話に盛り上がっている中を私達は突っ切って後者中央にある渡り廊下へ行くと向こう側からもA組の子達がそれぞれの選択科目の教室へ向かってやって来ていた。道々、川上さんとは取り止めのない話をした。
「なんで両端のクラスを組み合わせるのかなあ。委員長、理由分かる?」
んー。
「知らないけど他の芸術選択科目もいろいろシャッフルされてるとか言うから両端の私達の交流とか考えてるのかな」
「確かにそれはありそう!」
そんな話を川上さんとしながら音楽教室へ入った。チャイムが鳴る前にはA、E組の音楽1受講者20名は揃っていた。
チャイムと共に準備室の扉から教室に入ってきた音楽の先生はさっと私たちを見回した。
「みんな、揃っている?……じゃあ、グループごとに囲んで前回決めた曲の練習して下さい。後半で各グループで演奏をしてもらうからね」
すぐ椅子を囲んで雑談の合間に縦笛を鳴らして練習を始めた。私達のグループはA組の古城さん、會川くんと萩生くん、E組の川上さんと私という5名編成。A組女子は古城さんだけだったのでほどなく打ち解けて話す関係になっていた。
會川くんは生真面目。きちんと練習をする。萩生くんはどちらかというとサボりたがる。無駄話したがる。それを相手にしない女子三人って感じだ。
川上さん、萩生くんとは同中で知り合いらしく容赦なくツッコミを入れている。
「こら、萩生。會川くん見習ってちゃんとしろって」
ちょっと怒っている体の川上さん。
「次の授業で応援してくれたらそうしても良いよ」
萩生くんは馬耳東風。
「って何?私E組だからA組の次の授業なんて知らない」
あーという感じで右手でポリポリと頭を書く萩生くん。
「あ、川上ちんは知らないか。うちの月曜5限目、体育なんだわ。我がバレーボール部の宿敵バスケ部の多賀を倒す勇者に俺はなる」
Vサインする萩生くんはおどけていた。
「はい、はい。うちは英語だから教室で万が一にもうっかり思い出してしまったら生暖かい目で勝利をお祈りしとく」
呆れ顔の川上さん。真に受けた風の萩生くんがはしゃいだ。
「おー。それはうれしいな」
気を取り直した川上さんは萩生くんの言っている事が気になったらしく質問を発した。
「で、何やるの?」
「バレーボール」
川上さん、先ほどの数倍にはなりそうな呆れ顔になった。
「……ってあんたさあ。バレーボール部なのにバスケ部員相手にバレーボールで宿敵扱いしてるの?」
萩生くんは自分の「本業」で負けていてもあっけらかんとしていていい人だなと思う。
「ははは。あいつ球技に限らず大抵いける奴なんだよ。ダメなのは整理整頓ぐらいか。スクールバッグなんか大してモノ入れてないくせにグチャグチャ王子なんだけど、それでも女子には人気高くてなんか腹が立つんだよな。だから俺が止める」
「よし、意気込みは買おう。で、あんた、過去の結果は?」
「2試合とも負けた」
お手上げのポーズを決める萩生くん。呆れて深いため息をつく川上さん。
「あー、それは頑張ってね。……じゃあ、今はキリキリっと練習しろ、萩生。そうすれば勝てるように祈ってあげるわ」
私と古城さん、會川くんはこんな二人の夫婦漫才を微笑ましく眺めていた。
演奏する曲は教科書に載っているものから自由に選ぶ事ができた。私達のグループでは演奏する曲としてラベルのボレロを選んでいた。選曲時に女子三人は私を皮切りに
「ラベルのボレロってあの繰り返しがいい。ボレロでダンサーが踊る作品読んで思わず検索して音楽聞いちゃったし」
「そういえばちょっと古いけどボレロを主題にした映画も良かったよ」
「あ、古城さん、あの映画見てるんだ」と川上さん。
こんな風に意見が一致。會川くんも映画も漫画も良かったよねと私たちに同意してくれた。
萩生くんは彼が大好きだとかいうゲーム音楽の曲を推していて熱くアピールして来たけど却下になった。悪くはないと思うけど、ここはやっぱりボレロでしょう、って流れは動かなかった。
各グループの演奏が一通り終わり先生の指導が入った所でちょうど終業のチャイムが鳴った。先生が何やら手元のノートに書きつけつつ言った。
「じゃあ、これで授業を終わります。また木曜日も縦笛合奏をやるから忘れず持ってくるように」
4限目が終わり解散になるとランチタイムだ。男子学食組が「音楽教室から学食のある体育館棟が遠いからライチは不利。目指せ!スペシャル定食一番乗り!」とか叫びながらダッシュで飛び出して行く。
そんな中でA組の男子生徒二人の間で何かやっていた。一人は會川くんだ。
「會川、ちょっと持って帰って仕舞っておいてくれたらいいんだよ。どうぜお前は弁当だろ。ぼっちで学食なんか来ないだろ。じゃ、頼むぜ」
そういって相手は彼に縦笛ケースを押し付けた。
「だって、お前のロッカーってあんなのどこにこれが入るんだよ」
會川くんはそう言い返したが相手はとっくに教室を飛び出していていなかった。彼は頭を横に振ると諦めたのか縦笛ケース2個持って音楽教室を出て行った。
どうやらA組はいじめがあるみたい。そう思うと私は嫌な気分になった。古城さんは會川くんが教室を出るとすぐ彼女も音楽教室を小走りで出て行った。
川上さんが私の顔を覗き込むように寄って来た。
「委員長、教室戻るよね?一緒にお昼にしよ」
毎週月曜日音楽の授業の後は川上さんと何人かでお弁当を囲んでいた。私は川上さんと渡り廊下を通って中央校舎の教室へ帰った。そしてこの日の事は忘れてしまっていた。
次の木曜日の授業前、いつものように川上さんと一緒に音楽教室に行くと室内は騒然としていた。A組の男子生徒の一人が教室に飛び込んでくると會川君の前に走り寄って怒鳴ったのだ。よくよく見たら月曜日に何か言い争っていた二人だった。
どこからかラヴェルのボレロ管弦楽版が聞こえてくる。準備室で先生が授業で聞かせる曲を聞いているらしくかなり楽器が演奏に加わっての合奏へと入り始めた。そのせいか先生は教室の騒動には気付いていないみたいだった。
「お前が月曜日に隠したんだろう。どこだよ、言えよ、會川」
「俺は言われた通り教室に縦笛を戻したよ。その後の事なんか知らないよ」
もう一人の子は會川くんに殴り掛からんばかりになっていた。
そこに古城さんが入ってきた。何故かボレロのダンスシーンが思い浮かんだ。踊っているのは古城さんだ。
彼女は私の耳元で囁いた。
「あの二人、どうかした?」
「月曜日に會川くんに怒鳴っている子の縦笛がなくなったとか言ってる」
「ありがと、三重さん」
そう言ったかと思うと古城さんはスッと二人の間に割って入った。
「怒鳴って何も解決しないよ。多賀くん」
「古城、お前が出てくる話じゃないぞ」
相手の子は多賀くんというらしい。古城さんは和かに言い返した。
「だって、多賀くん。君の怒っている事は君の探し方が悪いだけだろうし」
多賀くんは呆気にとられた。
「なんだって。古城、お前は俺が何を探しているのか分かってるのか?」
腕組みを解いて人差し指を立てた古城さん。
「縦笛。月曜日に會川くんにパシリさせて教室に戻させていた奴、でしょ?」
ここまでは特段不思議はないやりとりだった。
「でも君は自分のスクールバッグの中は見てないでしょう?」
シンバルが鳴り響く。管弦楽が怒涛の音楽を鳴らしている。もうすぐフィナーレ。私の脳裏にある舞台中央、スポットライトの中でダンサーの古城さんが激しく踊っている。
あっという顔をした多賀くんはすぐ教室を飛び出した。會川くんも驚いた顔をしていた。そして古城さんが會川くんに何か小声で言うと彼はホッとした顔で席に着いた。
そして準備室から聞こえていたラヴェルのボレロの演奏も終わった。
チャイムが鳴り終わって音楽の先生が準備室のドアを開けて入って来た。その時、多賀くんが縦笛ケースを片手に駆け込んで来た。
先生はドライに「チャイムは鳴りおわっているから遅刻だね」と宣告した。多賀くんは何か言い訳しそうだったけど古城さんの方を見た。彼女は動じずに見返したところ、多賀くんは何も言わずに席に着いた。
私が古城さんって面白い人かも知れないと興味を持つようになったのはこの瞬間からだった。