天空の山城
高梁の豊かな川が流れる備中地方の、小さな猫の額ほどの領地の北の外れに、四つの山が連なる険しい山があった。
備北や美作の地に近い狭い領地では、峡谷が削られてできた川のほとりのわずかばかりの平地に城を構えるような、そんな呑気なことはしていられなかった。
この地を最初に任された有漢郷の地頭、秋庭重信は、狭い領地の北側の山、何時間も急な坂を登った先にある臥牛山の天頂に城を建てることにした。
城といっても姫路城や岡山城にみられるような大勢の人たちが暮らす大きなものではない。
その殿様が辛うじて築いたのは、山賊の拠点かと見間違えるような戦いに即した小さな山城であった。
この城は、鎌倉から戦国時代を経て太平の世の中になった後、天和三年に水谷勝宗によって天守閣などが建て直されている。
標高430m、日本で一番高い所に現存する唯一の山城と言われ、現代では国の重要文化財にもなっているこの『備中松山城』は、「雲海に浮かぶ天空の山城」として、国の内外に名前が知れ渡っているのである。
さて時は遡り、まだ普段着が着物だった時代。
臥牛山の麓にある河内村というところに、15歳になる娘が住んでいた。
この「おきぬ」と呼ばれている娘は、先日、村の鎮守様で大人になったお祝いの会をしてもらったばかりだ。
同い年ばかり男女合わせて九人で、一緒に神主さんの祈禱を受けたのだが、その時たまたま山を下りてこの神社を訪ねてきていた宝力様という城の重鎮の目にとまった。どうやらおきぬのしっかりとした受け答えが、宝力様の心証にふれたらしい。
当時、お寺さんで勉強をみてもらえるのは12歳前後までで、その後15歳までは親や奉公先の大人について仕事を見習いとして教えてもらう。15歳を過ぎて成人すると、みんな一人前の働き手として仕事に励むことになっていた。
「お前さんは、しゃんとしているね。山本さんに聞いてみたが、おきぬは杉田源兵衛の次女だそうだね」
「はい」
山本さんというのは、この神社の神主さんのことだ。
自分一人だけが別室に呼ばれて、見たこともないような高そうな着物を着た人の前に座らされたのだ、まだ世慣れないおきぬの心臓は縮み上がっていた。
そのためいつもの元気はなく、聞かれた質問にやっと短く受け答えしていた。
「そうかい、それなら今までは父さんを手伝って農作業をしていたんだね」
「ええっと、はい。家の仕事もしていましたが、私の叔母が繕い物の仕事をしているので、そちらの手伝いも、その……していました」
おきぬがそう答えると、目の前の宝力というお侍様の目がキラリと光った。
「ほうほう、それはいい。これは美園にいい手土産ができた」
「え?」
「おきぬ、明日使いの者をやるので、お前はお城に奉公なさい」
「……はぁ」
この時の宝力のちょっとした思い付きで、おきぬの人生は180度変わってしまうことになる。
屋号が「樋ノ口」というおきぬの実家、杉田の家では、代々村の取水口である樋の守役をしてきた。
そのため村での信用も厚く、良い縁談も舞い込むため、おきぬは自分が姉の縁談に差し障る、年増の小姑になる前にそうそうに嫁に出されるものと覚悟を決めていた。おきぬは二人姉妹なので、姉はこれから婿養子をもらうことになる。
それが成人して間もなく、城に奉公に行くことになってしまった。
「これが和尚さんのおっしゃっていた青天の霹靂なのね」
村の子ども達を教えていた和尚さんは若い頃、京の都に住んでいたせいか、難しい言葉をたくさん知っている。
おきぬはこの慈照和尚になついていて、他の子ども達が知らないような勉強もよく教えてもらっていたのだ。
しかしその修練の結果、一人家を離れて、知らない人がいっぱいの寂しい山上の城で暮らすことになろうとは思ってもみなかった。
両親や親戚の人たちは、おきぬのことを「家の誉れ」だと喜んでくれた。
けれど姉のお加代だけは、おきぬの不安な気持ちをわかってくれた。
「おきぬ、お城で邪魔にされたら、家に帰ってきていいんよ」
「加代姉ちゃん……」
この一言を口に出すのには勇気がいっただろう。
お加代の顔は真剣で、目の中におびえたものも見える。
お城がどんなところでも、逃げかえるようなことはできはしない。それは今後一族郎党に不名誉な烙印を押すことになるからだ。
おきぬの腹は決まった。
「ううん、私、頑張ってみる。盆や正月には帰ってくるから、その時はよろしくね」
「……わかった。身体に気をつけて、しっかり奉公してらっしゃい」
「ありがと」
こうしておきぬは城に登ることになった。
おきぬは裁縫の腕をかわれて、後にお殿様や奥方様の着物を縫う「縫い方」の長にまで出世することになる。
しかしおきぬの一番の楽しみは、夕暮れ時に金色に染まる四方の山々や麓の村を山城の回廊から眺めることだった。
「綺麗ねぇ……」
おきぬの心には、村で暮らしていた頃の、のんびりとした日々だけが光り輝いていた。
嫁に行くことも子どもを産むこともなかったおきぬの魂に、その欠乏した飢餓感だけはしっかりと刻まれることになったのだが。
これはいずれイギリスの侯爵の嫁となる、エミリーという女の子の前世の一人、おきぬさんが若かった頃のお話です。
拙作「めんどくさがりのプリンセス」の主人公の前世のお話です。