北の塔の魔女4
ポタポタと前髪から水滴が彼女の頬に落ちていく。
重ねた柔らかなその感触に、己の理性が本能に支配されそうになる。貪りたくなるような滑らかで甘美な唇の感触。意識のない彼女の唇を奪うその行為に、少しの背徳感を覚えた。
だがこれは不覚の事態だ。
それを喜ぶべきか哀しむべきか、今は判断がつかない。
己の心が重ねた唇から支配されていく様に、ぞくりと背に震えがはしった。
囚われているのは己か、それとも彼女か……
※※※※※※※※
リュゼはアーリアの唇を己の唇で塞ぎ、ふうっと息を肺へと送り込んだ。幾度か同じ行為を繰り返した後、彼女は咳き込みながら口から水を吐き出した。
「ゲホッ……ゴホッ……」
それでもアーリアには意識が戻らないものの、自らの力でヒュッと息を吸い込んだ姿に安堵し、リュゼは胸を撫で下ろした。
リュゼはアーリアを横抱きにするように頭を持ち上げ、自分の膝と胸にの間にアーリアの頭を凭れかすように置いた。そして自分の足と身体に挟み込むように包み込んだ。
「……どうせなら愛を囁きながら君の唇に触れたかったよ……」
命を救う為とはいえ、決して人工呼吸などで唇を奪う行為はしたくはなかった。
けれど息の止まったままのアーリアをそのまま放っておくことなど、リュゼにはできなかった。
生活魔法《脱水》と《乾燥》でアーリアと自分の身体を乾かすと、リュゼはアーリアに回復魔術を施した。
リュゼは魔術を専門に扱う魔術士でも、まして魔導士でもない。リュゼが扱える回復魔術《癒しの光》は見える範囲の怪我の回復のみが可能な術だ。内部に溜まる水で窒息死しかかっている者を起死回生させる事はできない。また死に関わるような大きな怪我にも対応できない。
それでも水面に叩きつけられた時の身体の痛みくらいなら、取ってやる事ができるだろう。
リュゼは無造作に乾いたアーリアの髪を指で丁寧に梳る。触れる体温は低い。
流水は氷水の中のように冷たく、二人の体温を急激に奪っていった。もう少し岸へ上がる時間が遅かったなら、リュゼは力尽きていただろう。
濁流に飲まれるように『北の塔』を囲む湖から川へと流されたリュゼは、何とか岸へと辿り着くことができた。
辿り着いたそこは洞窟のように岩に覆われた場所だった。『北の塔』を囲む湖から流れ出る川は3本。そのどれに流されたかは判断がつかないが、リュゼはここが大山方面のどこかではないかと考えていた。
アーリアを助け出せたは良いが、リュゼには今すぐ『北の塔』へ帰還できる程の体力は残っていなかった。
水の中で意識のない人間一人を運びながら移動するのには思った以上の苦労があったのだ。しかも水の温度は秋とは思えぬ程の冷たさで、川辺には薄く氷の幕まで張ってあった程だった。
そのような湖や川に入水するなど、本来ならば自殺行為だ。いや、シルヴィアにはそれを承知の上で突き落としたに違いない。アーリアに対して十分すぎる殺意があったと見ていいだろう。
「『北の塔』の魔女ーーシルヴィアとか言ったっけ?あれは相当な悪女じゃないの〜?」
リュゼは『北の塔』の魔女シルヴィアの事を思い出していた。
見た目は極上の美女だった。自分の美貌と脚線美を意識した優美な所作は、流石公爵令嬢。王家とも血の連なりを持つ公爵家が排出した姫魔導士は見た目こそ最上だが、その瞳の奥にあるのは野心。
リュゼは一目シルヴィアを見た時から警戒していた。
表面上は穏やかに微笑む魔女からは、公爵令嬢に似つかぬ雰囲気を纏っていたからだ。
初めそれを『塔』の魔女としての矜持ーー国への忠誠心から来るものかと思った。しかしシルヴィアがナイトハルト殿下に向ける熱い視線に、リュゼは震撼した。
ー執愛ー
それは『恋』と呼ぶには重く、『愛』と呼ぶには醜い『想い』。
相手を恋い焦がれる可愛らしさなど、シルヴィアからは感じられなかった。それよりも相手を己の手中に収め捕らえておきたい、誰の目にも触れさせぬ所に囲んでおきたいという執着心の方が優って見えたのだ。
リュゼがそれに気づいたのには訳がある。似たような人物を知っているからだ。
それはアーリアの創造主たる魔導士ーーバルドだった。彼は愛しいステラの為に外道に落ち、邪悪な禁呪にも手に染めたのだから。己の『想い』の為ならば、幾人の人間を巻き込みその人生をどれだけ狂わせようが、良心の呵責など思う事はなかった。そもそも良心がないのだ。気にする必要がないのだろう。
リュゼもバルドの野望に巻き込まれた人間の一人。長い時を獣人とされ、彼の野望の片棒を担がされてきた。
狂ったバルドを近くでーーその強い『想い』を見続けてきたから、シルヴィアの歪さに気づけたと言ってもいいだろう。
実に不快な事実だ。
シルヴィアをいくら不審に思っても理由にはアーリアをすぐに引き離す事はできなかった。シルヴィアは『北の塔の魔女』なのだから。シルヴィアの中に轟く闇に気づいただけの段階で、行動など起こせる筈はない。
疑惑を持ったままシルヴィアと話すアーリアを見守るしかできなかった。
今思えばあの時アーリアのすぐ側についていれば良かった、とリュゼは今更ながらに後悔した。
リュゼはアーリアを胸に抱きながら、力の入らぬ手足と震える身体に舌打ちした。低体温症になりかけているのかもしれない。それは同じく水の中に浸かっていたアーリアも同様だった。アーリアはガタガタと身体を震わせている。その白く透き通る肌は白さを通り越して青い。唇は寒さに紫色に染まっている。
リュゼはアーリアのマントを二人で被って、そのマントに仕込まれた魔宝具《冷暖房完備》に魔力を流して発動させる。暫くすると、マントがやんわりと温かくなり始めた。そしてリュゼはアーリアと肌を密着させてお互いの体温を温めあった。
「子猫ちゃん……」
本当に運のないと言うか、鈍臭いと言うか。リュゼはアーリアの災難を思うと苦笑しかできなかった。
前回はサリアン公爵による暗殺とバルドによる拉致監禁、殺人未遂。
今回は『北の塔』の魔女シルヴィアによる殺人未遂。
つくづくその命を弄ばれやすい体質をしている。体質と言うよりは環境が悪いと言えた。アーリアを取り巻く環境ーー周囲の人間の対応と対策が不味すぎるのだ。
アーリアの価値をしっかりと認識されてさえいれば、これほど蔑ろにされたりはしない。国を守る『東の塔』が軍事の要、最も重要な拠点の一つだと言うのなら、その『塔』を守る魔導士に安易に危害が加えられるような隙のある警護の仕方をしてはならないだろう。
専門家でないリュゼから見ても「舐めてんのか、お前ら!」と言うしかない状況なのだ。守り方が中途半端すぎる。
リュゼがもしアーリアの命を狙うような依頼を受けたならば、その任務遂行は一日も掛からず果たされるだろう。それほどまでに防御力がスカスカなのだ。
国王陛下、王太子、その他王族たち、貴族官僚等々。全ての者の思惑がバラバラなのだろう。
今まで良くも悪くも国が巧く廻ってきたのは、ひょっとしたらサリアン公爵の功績が大きかったのではないだろうか。
サリアン公爵は己の欲望のため王座の簒奪を目論んだが、それ以外の部分では能吏と言って差し支えなかったのだろう。個人の本性はともあれ、その性格や本質は国を第一に想う大貴族だったのではないだろうか。サリアン公爵の野望も国を巧く廻す為の力の根源だと言われた方がしっくりくる。
その彼がいなくなった現在の王宮では、王宮内の意識の統一性のなさが浮き彫りになったに違いない。
一度崩れた組織をまた一から組み立てるには時間と労力が必要だ。新しく宰相となったアルヴァンド公爵にはまだ荷が重く、現在、途方も無い労力がその双肩にかかっているに違いない。
「早く何とかしてよ〜〜宰相サン!」
アーリアの守護がリュゼだけでは間に合わない。リュゼが表立った護衛とされた裏で幾人かの騎士がアーリアの守護の任に就いたそうだが、このような事件の前には何の役にも立たない。
リュゼはアーリアの冷えた手を取って息を吹きかけたり、擦り合わせたりして何とか体温を上げようとするが、一旦下がった体温はなかなか上がってこない。
ナイトハルト殿下がアーリアを突き落としたシルヴィアに対し、どのような対応をしたかは分からないが、国防上、『塔』の《結界》を維持する事を優先するだろう。今すぐにシルヴィアを処断し鋼鉄する事は出来ない筈だ。シンシアが犯罪者であれ、《結界》維持の為にはその代わりとなる魔導士が派遣されてこなければならないのだから。
「なんで子猫ちゃんは『東の塔』に《結界》を張ったの……?」
リュゼはアーリアの腕をさすりながら、胸の中のアーリアを見下ろした。
アーリアの行動理念をリュゼは理解できなかった。アーリアの行動は矛盾だらけで、その心は更に複雑に入り組んでいる。
「子猫ちゃんにとって人間なんて、ホントはどーでもイイんでしょ?」
自分と同じように、アーリアは己と己を取り巻く親しいヒトたちにしか興味がない。それはリュゼがアーリアに親近感を抱く理由の一つだった。
アーリアは初めからリュゼの『個人』としての意思を尊重してきた。『生きる』事も『死ぬ』事も、どちらを選ぶかは全て己の責任。己以外には決められぬ事だと、アーリアの瞳はリュゼに語っていた。
その上でアーリアはリュゼに『死んでほしくはない』と言ったのだ。
『生きてほしい』とは言わなかった。
それには『生も死も自分が決める事だから他人の自分にそれを口出しなど出来ない』と言う風に聞こえた。
アーリアがリュゼを《隷属》から守る為、強制的にリュゼの精神世界に侵入してきた時、お互いの精神が一時的に繋がってしまった。その時リュゼとアーリアは、お互いの芯の部分が『似ている』と感じたのかもしれない。
お互いに少しだけ距離を置いていてあまり多くは語らないけれど、リュゼはその微妙な距離感を心地よいと思った事がこれまでに一度や二度ではない。
これまでこれほど執着した女ーーいや人間などいなかっただろう。
一定の場所に留まる事を嫌い、獣人であった時も群れず靡かず生きてきた自分が、アーリアの護衛を自ら引き受けるなど、少し前の自分ならあり得ないことだっただろうとリュゼは苦笑する。
自ら枷に嵌りに行くなど愚かな事だ、と……。
自ら選択した上での行動なのに不可解この上ない。しかしそれにリュゼは後悔などしていなかった。
「まぁ、僕もヒトのコト言えないよね〜?宰相サンにはホンッとやられたよ……」
アルヴァンド公爵の見た目はジークフリードを若くした感じなのだが、その中身は正反対かもしれない。一見、国を想う熱血漢のようで、内実は熱を持ちつつも人の感情の裏を読む事に長けた冷徹な能吏だ。その能吏に、リュゼのアーリアを想う気持ちにどのような感情が混じっているのかを見透かされたのかもしれない。そう思うと苦いものが舌を這うのだった。
アルヴァンド公爵の顔を思い出したリュゼは、舌を出して顔をしかめた。
「あーヤダヤダ!今度会ったら絶対、とっときの酒を奢ってもらうからね!」
それくらいないと割に合わない。いや、自分の気が済まない!とリュゼは独り言を呟いた。
だんだんと手足の硬直も溶けてきた頃、リュゼとアーリアのいる洞窟の奥から水音に混じり、人の声がボソボソと聞こえてきた。また薄ぼんやりとした灯りと共に複数の足音も近づいて来たのだ。
「……こちらの方から人の気配が……」
「……情報は確かなのか……」
「……いや、しかしそのような……」
「……かの国の魔女が裏切るなど……」
「……だが確かに目撃したと通達があり……」
「……しかし殿下が……」
「……お前はあの方に逆らうのか……」
音質の異なる様々な声は洞窟内の壁に反響し、ぼんやりとした輪郭を持ってリュゼの耳へと届けられた。リュゼはその会話の内容から、即座に味方の可能性は低いと判断した。もし味方ならばアーリアを心配する言葉の一つくらいは上がるはずだ。
リュゼはアーリアを片腕に抱くと、震える脚に力を込めて立ち上がった。そして片手には腰から抜いた短剣を持って身構える。
するとそこへサッと眩い光が射した。
「ーーおい!そこに誰かいるのか⁉︎ 」
暗がりに慣れた目に刺さる光の眩しさに目を細めながら、リュゼは油断なく武器を構える。
「やはり居たではないか……⁉︎ 」
複数の足音の主は分厚いコートを羽織った騎士姿の男たち。その先頭にいる男が持っていた灯りでリュゼとアーリアの存在を捉えると、背後の同じ服装の男たちに声をかけた。
「あの者たちを捕らえよ!あの方への手土産とする‼︎ 」
その命令を合図に騎士たちはそれぞれの武器を構えて、アーリアを腕に抱くリュゼへと突進して来たのだった。
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リュゼの苦悩と思考の変化。
アーリアの想いの行方は?
見知らぬ騎士たちは誰の差し金か?
そしていよいよあの人が動き出す!?
次話もどうぞご覧ください!




