契約1
風を受けてフードが背中へ飛ばされ、髪が舞う。耳元で風が強く唸る。
口から悲鳴が出るが、声にはならずに空中で霧散した。
屋敷の裏口から出ると木々を抜けて山へと入った。なるべく音を立てずに屋敷から離れ、十分離れた所で男は歩みを速めていく。徐々に助走を付け、左腕にアーリアを持ったまま、物凄いスピードで走り出した。時には木の上を枝を、時には大きな岩を足場にして跳ぶように山の中を駆ける。
アーリアは荷物のように肩に担がれたまま運ばれているので、男の身体が跳ぶように走ると身体が激しく上下した。落とされないように男の肩や首もとを必死に掴む。
景色が後方に流れていく。
突然、男は思いっきり足を踏みしめ跳んだ。すると一瞬身体が浮いて、そのまま自由落下しだしたのだ。
男は右手をアーリアの頭を庇い、左腕の力を込めてアーリアの身体をその厚い胸に抱き込んだ。
『ひぃぇぇえぇ〜〜〜‼︎』
落下するスピードが上がるのがわかるが荷物の身としてはどうする事も出来ない。
身体に浮遊感を感じる。内臓が上下してひっくり返るようだ。
高い場所からの落下の割に、トンという軽い足取りで地面に着地し、そのまま男は走り出す。どのように体重移動しているのか、身体にかかる圧を受け流しているのか、など全く解らない。
アーリアは誰にも聞こえない悲鳴をあげながら男にしがみ付くしかなかった。辛うじてできた事は、乱れ流れる髪を押さえることだけだった。
男は夜中、止まる事なく山の中や森の中を走り抜けた。
ようやく男が足を止め、身体を降ろされた時には足腰がフラフラになっていて、崩れるように地面にしゃがみ込んだ。自分が走った訳でもないのに、夜中走り抜けた男より体力を消耗しているように見える。男は、疲れた様子も見せずに川岸に膝をつき、手で水を掬って飲んでいる。
アーリアも川岸まで這うように行くと、両手に水を掬って口に含んだ。冷たい水は疲れた身体を少しだけ癒した。アーリアは思い立ってカバンから円筒状の水筒を取り出すと、中を川の水で洗ってから、水筒の中一杯に水を入れる。水筒の蓋を閉めると、水筒の真ん中に嵌め込まれている水色の石に魔力を込める。そして、その水筒をカバンへとしまった。
その様子に気にすることなく横目で見ていた男は、アーリアの側まで来ると、座っているアーリアに手を差し伸べた。
その手にアーリアは手を重ねると、男は軽く手を引いて立ち上がらせた。そして、アーリアに問うこともなく、再びアーリアを抱き上げた。
このように男に持ち上げられたり、抱き上げられたりしたことがこれまでなかったので、実は初めのうちは緊張したのだが、彼の態度が一貫して作業的で、荷物運びをしている様なものなので、途中からドキドキしなくなった。
男はそれまでと同じように少し走り、崖沿いを行くと、崖の窪みのような所へ入った。窪みの奥は洞窟になっていた。
まだ夜明けには早く辺りは暗い。夜の暗闇から更に暗がりへ入ったので、アーリアには奥がどうなっているのかさっぱり見えなかった。
水音が聞こえ下を見ると、洞窟内にどこかから水が流れ込んでいるようで、地面の一部が小川になっていた。
外とは違い、洞窟の中の空気は少しひんやりとしている。
暫く進むと奥まった岩の、一見すると分からない場所に階段が隠されていた。男は暗がりを光もつけないまま進む。足元も見えない場所を進む足取りに危なげな所は全くない。
この暗闇の中でも、彼の目にははっきり見えているのではないだろうか、とアーリアは男の顔を見た。男の目は昼間とは違い黄色く光り、瞳孔が大きく開いていた。まるで、獣のようだ。
チラリと目が合う。心臓がドキリと鳴った。彼は気にすることなく合わせた目を外して階段の右手に手をかけた。
ガコンと壁の一部が凹む。天井の岩が移動し、穴が生まれる。その穴へ入って行く。
穴の先は石畳みの小さな部屋だった。
部屋には樽や木箱が沢山積まれている。
(……ここは?)
床の穴を元に戻し、倉庫のような部屋から扉を開けて移動する。
廊下の壁はぼんやりと発光している。壁に何かを塗り込んでいるのかもしれない。石畳みの廊下を抜けると突き当たりの扉まで進んで、その扉を男は躊躇なく開けて中へ入った。
中はあの牢屋より広く、奥にベッド、壁際に面して大きな本棚、入って左手に大きめのソファ、真ん中に丸いテーブルと椅子が二脚あった。本棚の隣にもう一つ扉が見える。ベッドの奥の壁の上部に四角い窓があり、ステンドグラスが嵌められていた。
アーリアは入って左手にあるソファに降ろされた。
男はテーブルの上のランタンに火をつけ、本棚の下の扉付きの棚から小さな箱を取り出た。その箱を持ってアーリアの前まで来ると、そこにしゃがみ込んだ。
アーリアの左足をそっと触る。
やはり魔宝具は何も反応しない。彼にアーリアを傷つける意思がないのだ。
アーリアは少し驚いたが何も抵抗せず、男のされるままになった。男はアーリアの左足の靴を脱がせると、足首を右や左に少し曲げながら状態を確認する。
「……悪いが、俺には回復呪文は使えない。これで我慢してくれ」
男は箱から小さな瓶を取り出して蓋を開けると、中のクリーム色の軟膏を右手の人差し指で掬って、それをアーリアの左足首に塗り込んだ。そしてその上から包帯を固く固定するように巻いてくれた。
その行為はとても丁寧で、あまりにも紳士的で、アーリアはじっとして受け入れた。
男は箱を元の場所へ片付けると、アーリアの前に椅子を持ってきて、アーリアと向かい合うように座った。
『ありがとうございます』
聞こえないはずだが、お礼を言って頭を下げる。
「……いや、いいんだ。気にするな」
男はそれを手で制した。そして、真面目な表情で話し始めた。
「……さて、説明の続きを話そう。お前を逃した理由だ。いや、その前に俺の名を名乗ろう。名も名乗らない者の話など、信じるに値しないだろう。俺の名はジークフリード」
アーリアは慌ててカバンの中からノートとペンを取り出した。そこに字を書く。
『私の名前はアーリア。声が出ないので筆談で話します』
「お前……アーリアと呼んでも?アーリアの事情は知っている。気にしなくていい。俺が話す内容に質問があれば何でも聞いてくれて構わない」
アーリアは頷いた。
「俺がアーリアを逃したことは、それが俺に利益があるからだ」
屋敷から逃げる前にも聞いていたことだった。アーリアはこの話を聞いて、ただの親切や正義感で逃がされるより、打算や計算、お互いの利益で逃がされる方がより信頼できると思った。
今までののんびりした生活の中では、人を信じることは簡単だったのに、この何日間かで随分、人を疑うようになってしまったと思う。
アーリアは口を挟まずに、彼の話に耳を傾けた。
「……俺は、ある呪いをかけられている。その呪いを解く手伝いをして欲しい」




