もう一人の獅子の獣人1
『はっ……はっ……』
息が口から外へ短く切れながら漏れていく。頬を伝う涙もいつの間にか止まり、風を受けて頬を乾かす。体温が高まり全身が暑い。心臓の鼓動が耳に鮮明に響いてくる。
このように一心不乱に逃げたのは、初めて獣人たちに見つかった森以来だった。
アーリアは裸足のまま研究室を逃げ出し、そのまま廊下や階段を闇雲に駆けた。
残して来た兄弟子の事が少しだけ気になったが、『兄さまなら絶対に大丈夫だ』とアーリアには変な確信があった。兄弟子は自分なんかとは比べられないほど器用だ。それに頭の回転も速い。しかも彼は本人自身で準備万端だと言っていたのだ。
石畳みの廊下に出る。廊下には灯りがポツポツついているが、全体的に薄暗い。
T字路に差し掛かって、アーリアは一旦足を止めた。額の汗を拭って、視線を右へ左へと何度も向けて思案する。左右どちらにも同じような廊下が続いているのだ。
『右、左……どちらに行けば……?』
アーリアには自分のカンに従った。頼りないカンだ。当たらないカンだ。
だがアーリアは、えいっ!と勢いをつけて左へ曲がった。そのまま小走りに廊下を抜けると左手には木製の扉、右手には上に向かう階段、そして正面には鉄製の扉が現れた。
ここは当然上へと考え壁に手をかけると、左手にある木製の扉から獣のような呻き声が耳をかすめる。
(えっ……獣人?)
リュゼだろうか、それとも他の獣人たちだろうか。アーリアは一息分だけ考えを巡らした後、好奇心に負けて木製扉の上部にある鉄格子の嵌った小窓へ顔を近づけると、背伸びをして中を覗いた。
爪先立ちで見える範囲は限りなく少なく、中は廊下より暗くてよく見えない。アーリアは扉に両手を突いて首を伸ばして覗いていると、いきなり扉が内側に向かって開いた。
『わぁっ!』
アーリアは急に開いた扉から部屋の中へと転がり込んだ。脚がつんのめりあわや転ぶという時、目の前に太く逞しい腕が差し出されて転倒を免れた。
背後の扉が急いで閉められる。
早くも捕まってしまったのかとアーリアは戦々恐々とした気分で、自分の身体を受け止めた人物を恐る恐る見上げた。
『あ、あなたは……』
「よぉ〜!元気、ではないか?お前ひっどい格好だな……」
そこに居たのは以前森の中で出会った虎の獣人だった。彼は獰猛な顔つきからは似合わぬ程の軽い調子でアーリアに声をかけてきた。
虎の獣人はアーリアの身体を上から下まで見ると露骨に眉をしかめた。
「あのヤロォ、ひでー事しやがる……。まぁ、お前を捕らえて何もしねぇワケねーわな……」
虎の獣人はアーリアをしっから立たせると、アーリアの服についた埃を払った。
アーリアは外目から見ると酷い状態だった。髪はバサバサに乱れ、服には埃と土と血で汚れていた。頬や腕、膝などにはかすり傷や打撲が見て取れた。青く晴れている箇所まである。おまけに裸足だ。
アーリアは逃げることに必死で己の容姿の事など二の次三の次だったので、虎の獣人にその事を指摘されて初めて気づいた。
『な、な!?大丈夫です。すみません!』
アーリアは虎の獣人に手を振ってその行為を遮った。そのような事に気を遣っている時間も暇もない。
虎の獣人はアーリアの様子に苦笑するのみ。
「まだ声も戻ってねーし。あいつマジでクソだな?まあ、ここまで連れて来た俺たちも同罪なんだが……すまねぇな……」
虎の獣人は本当に済まなそうにアーリアの頭を撫でた。その態度にアーリアは目を見開く。
『な、んで、謝るの……?』
彼ら獣人たちもバルドの被害者。アーリアを捕まえろと《隷属》の呪いまで受けたなら、その命令に逆らえる筈などなかったのだ。そこに彼らの意思など関係ないのだから。
アーリアとて捕まるのも殺されるのも嫌だったので、結果、彼らから逃げる選択はしたが、だからといって彼ら獣人全てを恨む気持ちにはなれなかったのだ。
だからアーリアはこの獣人が自分に謝る筋合いはないと思った。彼らはアーリアを捕まるのが仕事だったのだから。そこに善悪などない。
例え自分が害される事になってもアーリアは彼らの非を訴える事などしなかっただろう。
言葉は通じないが、虎の獣人はアーリアのそのキョトンとした表情に少し呆れを滲ませた。
「お前は俺たちを恨まないのか?」
迷いなく頷くアーリアに、虎の獣人は盛大なため息をついた。「お前の方が俺たちよりよっぽどオトナじゃねーか」と呟いてアーリアの肩に手を置いた。
「お前は俺たちのせいで捕らえられて、あの外道魔導士の道具になってるんだぜ?現に、もうそんなにぼろぼろじゃねーか?俺だったら……クソッ!」
虎の獣人は独付くとアーリアの瞳から目を逸らした。
「俺だったら絶対許せねぇ……」
アーリアだってそうだ。
獣人たちを恨んでないが、バルドに対しては憤っている。
バルドのやっている事は身勝手極まりない。自分の愛する者を甦らす為に数々の危険な魔術や禁呪にまで手を染め、アーリアたち複製人間を造り出すだけに留まらず、無関係な人間を支配し、多くの者の人生を狂わせ続けている。
アーリアたちはその欲望の過程で生まれた産物だ。だからどんな不当な扱いを受けてもバルドを恨む事は出来ないのだ。
何故ならバルドがいなければ、自分という存在は今ここに存在しなかったのだから……。
虎の獣人の憤り、恨みは当たり前なのだ。彼らはバルドの真の被害者とも言えるのだ。
虎の獣人の恨みや悔しさを受け止めると、アーリアは彼を正面から見据え深く頷いた。そして深々と頭を下げた。
『ごめんなさい。貴方のバルドに対する恨みを、私も受け取ります』
虎の獣人はアーリアの謝罪に慌てた。
「なんでお前が謝る!?お前も奴の被害者だろ?」
アーリアはバルドの被害者とは言い切れない。アーリアの行動は生み出した創造者に対しての反抗。叛逆。自由への足掻き。
寧ろ『当事者』なのだから。
虎の獣人はアーリアの事情を知っているのだろう。当の本人より傷ついた表情をしている。
(あぁ……彼を助けて良かった……)
あの時、ガルグイユの餌になる所を助けた事は無駄ではなかった。
アーリアは自分のカンも捨てたものではないな、と感心した。
アーリアは虎の獣人に向けて笑顔で返した。
『ありがとう。私の為に怒ってくれて……』
虎の獣人はアーリアの笑顔を受けて、更に驚いた表情でアーリアを見つめ返した。
その時、
ートン、トントントンー
扉の外からノック。
虎の獣人は慌ててアーリアをその大きな背に隠した。
「ーーなんだ?」
「ゼルか?あの娘が逃げた。捜索に加われ」
「ああ、分かった。だが、俺はこのオッサンの見張りを命じられているんだが、それはどうする?」
「自力でどうにかできる力はそいつにはない。一旦その任から外れても構わないだろう。お前の事は俺からあのお方に伝えておいてやる」
「そうか。よろしく頼む」
「じゃあそういう事だから、早く捜索に加われよ」
扉の向こうの獣人は虎の獣人と話し終えると、その場から去って行った。
虎の獣人は一つ舌打ちすると、アーリアへと向き直った。
「お前、とりあえずココに隠れていろ。アイツと一緒にいれば人間の匂いも紛れる」
虎の獣人は部屋の奥を親指でサッと示すと、「俺は行かなきゃなんねーからな。中から鍵掛けとけ」と言ってアーリアの頭をポンと一つ叩くと部屋から出ていった。
アーリアは虎の獣人の言う通りに部屋の中から鍵をかけると、部屋の奥へと歩みを進めた。
部屋の奥には簡易なベッドと小さなテーブルと椅子がある。その椅子の背もたれの向こうにフサフサの毛に覆われた獣人の背が見えた。
獣人はアーリアの気配を感じて椅子から立ち上がり、アーリアの方にに向き直るとのっそりとした歩みで近づいてくる。
暗闇にあっても輝く黄金の鬣。威厳ある金の瞳。一見猫を思わせる容姿。暗がりの中に浮かぶそのシルエットにアーリアは目を見開いた。
ー獅子の獣人ー
『ジーク……?』
※※※※※※※※※※
(バルド視点)
生命維持装置を嵌め直し、ステラの身体を『生命の水』を一杯に張った水槽の中に寝かた後、俺はその姿を静かに眺めていた。
『私は本当に嬉しかったの。彼らからの愛情を、欲しかった『祝福の鍵』を貰えたのだもの……』
7のーーステラの記憶の中の言葉に、太陽のように明るい彼女の笑顔が脳内に現れた。
ステラは18歳の成人の儀式を本当に楽しみにしていた。『祝福の鍵』を両親から受け取り、成人として認めてもらえることを。そして一人前の大人として世の中に羽ばたくことを夢見いた。それを目標に、日に日に弱っていく身体に鞭打ち、騙し騙し生きていたのだ。
それを俺は側で見ていた。
ステラの頑張りを一番側で見ていたのだ。
ーーいや、見ている事しかできなかった。
ー俺には力が足りなかった……!ー
ステラが身体の時を止め『眠って』しまった時、頭の中で何かが弾けて壊れた。
何が己の力だ足りないだ!?
何が側に寄り添うだ!?
力が足りなければ得れば良いだけだ!
只の魔導士など論外。適度な等級など以ての外だ。適度などあり得ない。危険だと、禁呪だと言われる術であっても、ステラの為に必要ならば得る価値がある。得る必要がある。いや、得なければならない!
ステラの病の原因となった魔力過多。それを受け止められるだけの器を、ステラに必要な部分を補う臓器やパーツの強化を求めて、ステラの遺伝情報を使って人造人間を何体も造った。
元にしたステラの遺伝子をそのままに生み出しても意味がない。同じように魔力過多に陥り虚弱は身体になる可能性が高かったからだ。試行錯誤を繰り返し人造人間13体生み出した。どの生態も自分の求めるモノには遠く及ばなかった。だから捨てた。
だが17年研究を続け、ここに来てあの生態に使い道を見出した。しかし一度捨てた生態は戻ってこない。
無いのなら造ればよいのだと再開した研究は直ぐに行き詰まりを見せた。再び人造人間を生み出そうにも、何故か以前のようには成功しなかったのだ。
そんな時、ステラの身体を維持する為の『魔法石』を求め、あの男の屋敷へと訪れた際、偶然『東の塔の魔女』と出会ったのだ。
『東の塔の魔女』のウワサは聞いて知っていた。白い髪の魔女だと。そしてある宝玉を使い『東の塔』に結界を形成したと。
ウワサを聞いた時はその魔女の事より『宝玉』の方に興味を惹かれていた。だが、実際その魔女と対峙し、その白い髪をーークローン体の証拠であるその髪を見た時、驚愕したのだ。そして歓喜した。
……こんな所にいたのか!と。
捨てた筈の生態が、求めていた道具がそこにあった。
しかもその道具が持つ瞳はあの男が作った魔宝具ーー魔力が多量に宿った宝石。
これほどの偶然があると言うのか。
ステラの為に全てが一堂に揃っていく。
ーやはりステラが『生』を望んでいるのだ!ー
ラストの捕獲と共に、他の人形の生存をも確認できた事も僥倖だった。僥倖だったのにも関わらず……!
7体目の人形から浴びせられた言葉。その言葉の数々に、自分自身がこのように動揺させられるとは思ってもいなかった。
7が自分へ向けて放った言葉の数々が、波のように引いたり押したりしながら脳内に波紋を作っていく。
『そろそろ理解しないっすか?アンタも本当は分かってるんすよね?』
『ステラは既に死んでいる。この世に彼女の魂はない』
『もう、分かってるっしょ?いーかげん、現実受け止めろよ?ステラは死んだ。それ以上でも以下でもない!』
『あれから何年経ったと思ってるっすか?俺たちを造ってからも……。アーリアを造って以降、なぜ一体も成功体がないのか。作れなくなったんじゃないっすか?』
『アンタは可哀想なヤツだな……。そんな女に固執して。過去ばかり見て。俺たちはもう未来を受け止めているのに……』
きつく、きつく、拳を握る。
爪が掌に食い込むがそんな痛みなど構いはしなかった。
水槽の中で安らかに眠っているステラはあの当時のままーー17歳のままの姿だ。本来ならば己と同じ年である筈のその容姿は、長い年月を経ても変わらず幼い姿を保っている。
生命維持装置をつければ確かに胸は鼓動を刻み、頬に赤みがさす。『生きて』いるのだ。
だが『生きて』いるだけ。その足で立ち上がり、自ら起き上がることは出来ない。それは果たして『生きて』いると言えるのか。『死んで』いないというだけではないのか……!?
※※※※※※※※※※
バルドは長年『理解したくない』事実を、『信じたくない』事実を自分が創り出した人造人間の一人にーー只の道具の一つに言葉にされ、屈辱に苛まれると同時に焦燥感が襲ってきた。
心は現実の受け取りを拒否する。見たくない現実に蓋をするように重い扉が閉じていく。
事実は闇に塗りつぶし、己の信じたい事実のみが表に顔を出す。
ーステラは『生きて』いる……!ー
「……バルド様……」
バルドの背後から一人の獣人が近づいてくる。彼はバルドの触れられたくない空間の一歩外で、バルドが己の存在を認識するのを辛抱強く待った。
穏やかに見えて冷たく凍りついていた時間が流れだす。その静かな時間をバルド自身が断ち切るように、もたげていた首をゆっくりと上げた。
「ユーリか……?」
「はい。白き髪の娘が逃亡したようですが、いかがなさいますか?また、かの公爵から『動くように』との連絡を受けましたが……」
バルドは暫くの間思案すると、自分の忠実なる下僕に向けて静かに命じた。
「あの娘は探せ。あの男からの指示は後回しにしろ。俺が直接、連絡をとる」
バルドはスッと立ち上がると、そこに感情などないような端的な言葉で命令を下した。そこには先ほどまでの迷いや憂いは一切見せない。しかし無表情の中には、渦巻く深い闇と狂気が見え隠れはさている。ユーリにはその様がとても不安定に見えた。
ユーリと呼ばれた狼の獣人は、主人からの命令を了承すると、主人から背を向け即座に行動に移した。
バルドはユーリの出て行った研究室の扉の一つを目で追った後、再びステラへと視線を戻す。
美しき薔薇のごとき髪の少女ーーステラ。
「ステラ……待っていてくれ。もうすぐだよ……」
お読みいただき、ありがとうございます!
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これからも頑張ります!
好きな脇役を出す時は、気分るんるんです。次回も新たな人物が裏舞台から表舞台へと登場します。
よろしければ次話もご覧ください!




