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魔宝石物語  作者: かうる
魔女と砂漠の戦士
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アズライトという男

 日中は汗ばむ陽気が続く昨今だが、まだ陽の昇りきらぬ時間は気温が低く肌寒い。

 システィナの極東にあるアルカードは国境沿いに面して聳え立つ山々の影響で霧が出やすい地形で、朝夕での寒暖差が大きい。昼間は半袖で十分でも、日々の鍛錬で慣れている騎士でもなければ、夜には上着を羽織らねば風邪をひいてしまうだろう。単純に筋肉量の違いかも知れないが。

 ーーそこまで考えると、アーリアは柔らかな綿の長袖の上から腕を摩る手を止め、意を決して膝を曲げ始めた。


「1、2、3、4……」


 まずは柔軟体操から。膝を曲げ伸ばし、次に腕を曲げ伸ばし、腰を回して首を回す。ぐっと背を伸ばすと筋が引っ張られ思わず声を漏らす。

 元々運動に忌避感を持つ所為か、最初は『柔軟が大切だ』と言われても眉を潜めるだけだったが、こうして続けてみると、そう悪いものではないと思うようになった。身体が柔らかくなる事により可動域が広がり、ダンスにも応用がきくようになったし、何より体力がついたとの実感があるからだ。

 か弱いと思われた貴族令嬢は、途轍もない努力の上に成り立っていた。でなければ、あの細く高いピンヒールで地面を踏み締め、闊歩し、況してダンスなど踊れまい。

 布の重なるドレス、これでもかと絞められたコルセット、踵の高いヒール。騎士の甲冑以上に重装備だと思えるそれらを纏い、涼しい顔をして二分の微笑みを浮かべているのだ。本当に尊敬しかない。


「5、6、7、8……」


 ライザタニアから帰還して一月余り。元々大してない体力が更に落ち、ダンスもマトモに踊れぬと分かると、指導教官はまず基礎体力を上げるようにと指示を出した。

 何をやるにも先ず体力が必要で、その為にはよく食べよく寝る事、そして適度な運動が必要なのだと力説されたアーリアは、嫌々ながらに適度な運動とやらに取り組み始めた。

 と言っても何も難しい事はない。柔軟体操とランニング、それだけだ。時間も1時間ほど。忙しい時は柔軟のみで無理はない。

 それでも、アーリアにしてはこれまで毛嫌いしてきた運動を続けるというのは、中々の忍耐が必要で、一日続く毎に自分を褒めてあげたい気分になった。


「はあ……よしっ」


 程よく身体が温まったアーリアは、リンクに貰った青い髪紐で長い髪を後頭部で括り直すと、意を決して走り出した。


 領主官邸、その裏門を出て貴族の邸宅が立ち並ぶ通りを東へ向かい走る。早朝で、しかも平民の住む地区ではないので、外を歩いている者には出会す事はない。

 綺麗に整備されている道を暫く走ると、東に街を囲む壁にぶつかった。そこを左へ折れ北へ向かう。

 山から吹き込む風が街に流れ込み、霧が一面に広がっている。湿気を含む風が肌に冷たい。風に流れた髪を耳の後ろへ流した時、前方に『塔の騎士団』駐屯所が見えた。

 高い壁に囲まれたを見上げ、視線を感じて目線をそのまま下げれば、壁の側に此方へ向かい手を挙げる人影を見つけた。

 茶色の髪、白いシャツに黒いズボン、黒いブーツ。簡素な衣服に身を包む青年は琥珀色の瞳を真っ直ぐアーリアへと向けてくる。


「や、アーリア。おはよ」

「おはよう、リュゼ」


 スピードを落とさないアーリアの歩みに寄せてリュゼも走り出す。といっても、大したスピードはない。リュゼからすれば早歩きに満たない。


「随分頑張ってんじゃん」

「まだ始めて一ヶ月(ひとつき)だよ」

「そろそろ雨が降るね〜」

「雪かも知れないよ?」


 リュゼはハハっと笑うとチラリと空を見上げた。

 東の山に薄雲はあるがその上空は澄んでいる。雨は降りそうにない。しかし、雨や雪はなくとも雷は降る事はある。口は災いのもと。


「冗談を抜きにして、実際、体力は必要だと思うんだよね」

「ま、あった事に越した事はないかな〜」


 実際、一人暮らしをしていた時より体力が落ちている。移動には徒歩より馬車が増え、仕事は屋内での作業ばかりで他人に会うにも相手から出向いてくるのを待つ事が多くなった。一日中、領主官邸から出ない日もある。これでは体力が落ちるばかりになるのは、誰にだって分かる。


「みんな過保護なんだよ。カップ一つ、タオル一枚でも侍女たちが持ってくるんだから」


 頬を膨らませるアーリアにリュゼはハハッと笑うだけに留めた。「そりゃ彼女たちも仕事だし仕方ないよね」と言った所で、そんな事はアーリア自身にも分かっている。だからこうして心許せる者にだけ愚痴を溢しているという事も。

 元々庶民家庭で育ったアーリアにとって、家事一般は苦痛でもなんでもなく、当たり前にやるべき事だ。それこそ炊事洗濯掃除身の回りの事は全て一人で熟せる。にも関わらず、最近では入浴に衣服の着付け、髪の毛のセットに化粧は勿論の事、炊事洗濯掃除など身の回りの全てを侍女たちが熟すものだから、必然的に動く機会から遠ざかる一方なのだ。

 根っからの庶民気質であるアーリアとしては、身分的にそのような扱いをされるべきでないとの思いもあり、ストレスは溜まる一方であるのは、同じく庶民気質のリュゼには嫌ほど分かる。

 例え職業に騎士爵、魔導士爵がついてきたとしても、本質的なものはそうそう変わる訳がない。努力しなければ爵位に伴う振る舞いはできない。その努力をアーリアは、そしてリュゼもしていない事はないが、だからこそいつまでも違和感は付き纏うものだ。自分が望んでいないのだから、尚更その違和感は消える事はない。

 侍女を相手に姫使用の微笑みで応対しているアーリアの姿を思い浮かべ、思わず口元に苦い笑みが浮かべた時、「彼女たちの仕事を取り上げる訳にもいかないよね」と溜め息混じりの声が右耳に届いた。それにリュゼは笑みを深め「そうだね」と返した。


「あ、そうそう! ()についての情報がおりてきたんだ。走りながらで良いから聞いてよ」


 『彼』という言葉に少しの緊張感。アーリアは僅かに頷くと、リュゼの声に耳を傾けた。



 ※※※



『本名、アズライト・エレン・ティガール。年齢、21歳。性別、男性。所属国、ドーア王国。役職、国境戦士団第三小隊隊長。ティガール伯家家次男。長男テオドールは財務部官僚、次期伯爵家当主として内定済み。アズライト自身、若干二十歳で戦士に任じられた猛き獅子の一人。性格は温厚且つ正義漢。地位に驕り、地位を傘に他者を見下す事なく、いち兵士にも言葉をかける為に人気も高い。実力は若くして戦士になるに相応しいものであり、また努力家で常に向上心を持ち鍛錬している。犯罪歴なし。結婚歴なし。婚約者なし。今春より北の国境線へ派遣される。趣味の歌劇鑑賞を通じて南都領主と知り合い、現在では親しい友人として付き合いをしているーー』


 王宮より齎された『砂漠の戦士アズライトに関する報告書』を読んだガナッシュ侯爵は内心、彼の経歴に何一つ怪しい点がない事に首を傾げた。

 誰にだって隠したい過去の一つや二つはあるもの。それこそ学生時代のオイタはあってしかるべきだ。

 例えば年上の女性に惹かれたり、友だちの婚約者に横恋慕したり、はたまた貴族の常識から外れた事に興味を持ったりーー。十代、多感な時期を優等生として過ごしたと考えるには、アズライトという男は容姿性格が派手過ぎた。

 何の面白味もない報告書に訝しむガナッシュ侯爵は報告書の2枚目に目を通すなり、フンと鼻を鳴らす。


「オイタの一つでも隠されてあると見たが、まさか()()王弟殿下のご友人とはな……これはオイタで済むとは思えんな。ーーお前もそうは思わんか?」

「は、閣下の仰る通りかと」


 報告書を銀皿に戻すと、その手で湯気立つカップを持ち上げた。

 侍従件護衛騎士に同意を求めるも、男は黙ったままで表情すら変えない。幼少期より側にあるこの男はガナッシュ侯爵ーーラドフォードが何を選択しようとその選択に否を突きつけた事はない。それこそ彼が謀反者となり処刑されるとなってもだ。

 ただ「主のお決めになったこと。私はそれに従うのみです」と言って、どこまでも付き従っている。それこそ地獄の門の前まで、いや、地獄の大釜の中にまでついてくる気でいるのだろう。

 これまであった数多の誘いも婚約話も蹴っ飛ばし、家とも距離を置き、妻子も持たず独身を貫くこの男の忠義を今更疑う事はない。が、それでもここまで盲目的に己を信ずる男に、多少思う事がない訳ではない。


「アッシュ、お前も難儀な男だな。こんな東の果てまでついて来ずともよいものを。別の働き口まで探してやったのにアッサリ蹴り合って、恩知らずとは思わんか?」

「そうは申されましても、主の側を離れる事など有り得ません」

「だから難儀な男だと言っているのだ!」


 撫で付けられた黒髪と隙のない黒の三揃い。スラリとした体躯に不釣り合いな長剣を腰に帯びる男は主人に何を言われようと顔色など変えずに傅くと、目線に応じて報告書の2枚目を受け取った。


『王弟殿下の友人件護衛として学園内での身辺警護に務めるが、王弟殿下の卒業によりその任を解かれ、この春より国境戦士団の小隊長へ任じられたーー』


 その一文に、ラダフォードは目を眇める。

 王弟殿下の護衛から国境戦士団への転任。急すぎるとも思える人事異動に裏を感じる。

 飛ばされたと考えるのなら、王弟殿下との間に何かあったのではと裏を読むこともできるが、であれば王弟殿下の管轄下でもある国境警備への転任は些かおかしくもある。


「飛ばされたのではなく、何かを任じられて送り込まれた可能性もあるな……それに……」


 丁度王弟殿下が在学中、アズライトが護衛の任にあった頃に、南の魔女エイシャもまたドーアの学園に短期留学をしている。

 短期留学は特別優秀な者に与えられる権利の一つ。将来を有望視された隣国の子女の存在を、王族である王弟殿下が知らぬ筈はない。


「資料によれば、件の魔女とは学園で顔を合わせている可能性が高い。護衛として王弟殿下の側にあったのなら、殿下の友人の顔くらいは見知っている筈だ。また逆に学園の生徒が殿下の護衛の顔を覚えていてもおかしくない。であれば、あの邂逅は些かどころか随分と可笑しいと言わざるを得まい。まる他人同士ではないか? 公私混同を気にしてにしては他人行儀過ぎるというものだ」


 アズライトの登場にあの魔女は驚いた表情をしていた。だが、それは突然顔見知りが現れた驚きではない。突然現れた色男に色めき立っていたに過ぎない。顔見知りを前にそのような対応をするだろうか。


「引き続き調べさせろ」

「は」


 ()()王弟殿下に関係者である以上、あの場に現れた理由は偶然ではない。裏に何か理由があるに違いないのだ。


「……それよりも気になるのは現在広まりつつある噂の方だな」


 従者件護衛アッシュより差し出された3枚目の報告書に目を通すなり、ガナッシュ侯爵はあからさまに纏う雰囲気を変えた。

 都合の良い噂を広め、自分に有利な状況を作り出すのは貴族の十八番(オハコ)。社交界で流れる数多の噂を精査し正しい情報を得るのが、貴族社会で生きる上で必要な才である。ガナッシュ侯爵自身も貴族官僚時代は噂を利用し望む状況を作り出したものだが、こうして他者がーーそれも、社交のイロハも知らぬ小娘が噂を利用しているのを見ると、何とも言えない気分になるのは、歳をとったからだろうか。


「『役職を利用して見目の良い騎士(オトコ)を侍らせている』、『立場を利用して領民を脅し恐怖心を煽っている』、『領主を惑わしパトロンとして働かせている』……ふうむ、ご領主の件は強ち嘘とは言い難いが……」


 癖のように顎を撫でるガナッシュ侯爵の脳裏に、無駄に煌びやかな色男の顔が浮かぶ。


「しかし、この『アルヴァンド公爵やその子息らを誑かして私利私欲を満たしている』というのは些かやり過ぎであるな。噂に固有名詞を出すなど、潰してくれと言っているようなものではないか?」


 仮に誑かしたのが本当であったとしても、誑かされたとするのはアルヴァンド公爵家の男たちだ。

 建国以来の名家であり優秀な官僚官吏騎士領主を排出しているアルヴァンド公爵家の者が『誑かされた』など、仮に嘘であったとしても侮辱でしかない。そんな実しやかな嘘を耳にしたアルヴァンド公爵家が黙って指を咥えている筈がない。必ずその噂元を探り、釘をーーいや、首を獲りに行くだろう。

 ある事ない事含めるのが噂ではあるが、自分で対処できない噂を流すのは自殺行為でしかない。

 今回噂を流した者は噂の便利さ以上に怖さを理解していない。だからこそ、このように安易に噂を利用しようとするのだろう。


「愚かとしか思えんが、これも何らかの意図があってのものなのだろうか……?」


 破滅願望者としか思えない所業。他者からは『切れ者』、『知恵者』、末は『タヌキ』と恐れられるが、元来真面目な性格なだけにガナッシュ侯爵は相手の意図が読みきれない。


「噂の出どころはそのうち判明するだろう。アルヴァンドが関わっている以上もう明らかかも知れぬ。であれば、こちらが警戒すべきは、噂に乗じて動こうとする者への対策とーー」

「次手への警戒ですね」

「うむ」


 噂は足がかりでしかない。きっと、その先に大きな罠が仕掛けられいる。ーー自分ならそうすると断じたガナッシュ侯爵は顎を一つ撫でると、今頃同じ情報を共有したであろう可愛い生徒を呼び出すべく使いを出した。

 




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『アズライトという男』をお送りしました。

元宰相として王宮に長く在籍していたガナッシュ侯爵。

隣国の王侯貴族の情報は調べずとも頭にありますが、隣国の王弟の友人関係までは覚えていませんでした。

というのも、王弟は特に親しいとする者が少ない一方、交友関係は広く、特に友人と称する令嬢の名が数多に上っていたからです。

また、実の父親であり、先先代国王とよく似た気質を持つ王弟に、なんとなく忌避感を持ってもいました。

鋼の精神を持っていそうなガナッシュ侯爵にも、苦手な人種と苦い思い出はあるもので……


次話も是非ご覧ください!


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