※裏舞台7※伸ばされた指の先に
※(アーリア視点)
冷たい水に包まれ、暗い水底へ沈む感覚に、私は違和感を覚えた。あの時はもっと水が冷たかった。
ーあの時って、いつ?ー
肺まで凍ってしまいそうで、濁流に身動きが取れず、身体に纏わりつく衣服に自由を奪われて、絶望を覚えた。水中では僅かな呼吸さえままならず、暗くなる意識に死を覚悟した。
あの時と同じようにザパンと軽快な水音をさせて、全身が水面へ叩きつけられた。途端、冷気が身体中を覆い、衣服は水分を纏わせて暗い水底へと沈み始めた。浮上しなきゃ。そう思う傍ら、地底湖に落ちる直前の風景が頭を過って、思うように身体が動かない。
現王の復活を叫び、私を地底湖へと突き落とした大司教ルスティアナ侯爵の狂気に満ちた眼光。
追ってきた子どもたちとリアナの怒気に満ちた声。
そして、ルスティアナ侯爵の背後、地底湖の間へと足を踏み入れた騎士の驚愕に染まる表情。
「アーリア!」
騎士の一人があげた声が、伸ばされた指が耳と目に残り、幾度となく脳内で反芻される。
栗色の髪を振り乱し、琥珀の瞳を見開いて、こちらに向かって必死に手を伸ばす。伸ばしても掴めないと分かっていても、それでも伸ばさずにはおれない。そんな感情が滲んでいた。そうまでして私を助けたいと思っているのかと思うと、不思議な感情が湧き出し、胸が締め付けられた。
ーあれ?なんで、わたし……ー
見間違えでなければ、あの騎士は、姫巫女に救いを求めに来た、異国の行商人の一人であったはず。事故で深い傷を負った義兄を助ける為に、神殿へ多額の寄付をしてまで訪れていた。
なのに彼は今、ライザタニアの騎士服を纏っている。そしてもう一人、彼の義兄だという青年の姿も、彼の側にあった。
彼らはただの行商人ではなかった?
リアナの言った通り、彼らは私を迎えに来たという隣国の騎士なの……?
あの時掴まれた手が、ジンと熱を帯びる。
「やっと……やっと手の届く場所まで来たってのに、このまま連れて帰っちゃダメなんて、そんな酷いコト言わないよね?」
耳元で囁くように紡がれた言葉が、心を掻き乱す。
彼の腕を、優しく包み込む温かな腕を拒めない。
心が乱され、頭が混乱し、身を竦める事しかできない。
「アーリア。本当に僕のコト、忘れちゃったの?」
「本当に覚えてないの?」
「一緒に帰ろう。僕と……」
あの時、彼の声を聞けば聞くほど、望郷の想いが募って、愛しさが溢れて、けど、何故か素直に従う気にはなれなくて。イヤイヤと幼子のように首を横に振るしかできなかった。本当は心底、彼の声に安堵しているというのに、何故か首を縦に振る事ができない。だから、ずっと求めていた温もりから逃げたくて、身を捩った。
ー帰れないよ。私は、裏切ってしまったからー
心が悲鳴をあげる。顔を覆い、さめざめと涙を流しながら。
本当は共に帰りたいのだと、切に願いながら。
ーごめん、でも、だって……!ー
どう言い訳した所で、私は彼の、塔の騎士たちの信頼を裏切った。いいえ、初めから騎士たちを信頼していなかったのかも知れない。敬愛するお師さま以外の人間に信頼を寄せるのが怖くて、無意識に拒絶感を持っていたのかも知れない。それは彼も同じ事で……?
だから最後まで彼を、彼の言葉を信じ切れなかったんだ。
彼が私を守ってくれようとしていた時も、その為に生命まで捧げようとしていた時にも、私には彼の想いを受け取る事ができなかった。拒絶した。私の為に生命など差し出して欲しくなかった。
生命は一人に一つ。失ったらそれでお終い。失くしてしまったら、人間はただの人形になる。あの女性みたいに……。
失くしたら戻らない。だからこそ失えない。私なんかの為に失くしてはならない。私のーー造られた人形の私なんかのの為になんて!
ー彼は『大切なひと』だからー
けれど、これは一方的な感情。
本来、人形の私が人間に抱いてはならない感情。
信頼するとかしないとか、そんなものでは測れない身勝手で一方的な感情から、私は彼の信頼を裏切った。彼の行動を邪魔した。彼を生かす為に。死なせぬ為に。
その為だけに、他の騎士たちの信頼をも無視した。騎士たちには悪かったと思うけど、後悔はない。これからも彼の生命が生き永らえる事ができるなら、他の者の信頼の一つや二つ、裏切った所でどうとも思わない。例えそれで、私への信頼も無くなったとしても。
もともとあの場所には長居はするつもりがなかった。サッと行ってサッと帰る。それが予定外の長居になった。それは今でも納得してはいない。お給金が出るというから我慢していただけで。
そもそも、あの塔に私が常駐する意味はないし、あの街にだって滞在する意味はない。私は『塔の騎士団』にとっても意味のない存在で、ただのお飾りの魔女。お飾りならそこらの令嬢で十分なのだから、私である必要はない。だから、騎士からの信頼なんてものも必要ない。けれど……
こんな所まで追いかけてきた騎士がいた。
私の為にーーいいえ、私の所為でこんな所まで来る羽目になってしまった生真面目な騎士が。『塔の魔女』ではなく『私個人』に忠誠を誓った奇特な騎士が。
彼への信頼がなかった訳じゃない。けど、本当に心の底から信頼していたと云えばウソになる。あんな短期間で何があったか分からないけど、彼が私個人に忠誠を誓うなんて可笑しいじゃない。何らかの思惑がある。若しくは、その方が自分に都合が良いと言われた方が、まだ納得できる。けれどナイルは来た。彼と共に……
ーなんで……?ー
私は裏切ったのに。彼の心を。彼の想いを。
もう会わないつもりで「さよなら」を告げたのに、何故彼はこんな所にまで来たんだろう。怒りに、それとも頬を叩きに?分からない。けれど、彼の顔を見た途端、それまでの有象無象の考えが霧になって消えた。
ーリュゼ!ー
彼に向かってぐっと指を伸ばす。
会いたかった。一目だけでいい、彼の顔が見たかった。声が聞きたかった。あの柔らかな声で私の名を呼んで欲しかった。あの大きな手で頬に触れて欲しかった。
ああ、なんて浅ましい。こんな浅ましい想いを彼が知ったらどう思うだろう?驚く、それとも困惑し、拒絶するだろうか。そうなってもいい。もう一度だけでいい。もう一度だけ彼に、彼にーー……
※※※※※※※※※※
※(リュゼ視点)
騎士として主人を守り、その為に命を賭けるのは当たり前。況して、『大切なひと』を守る為ならば、自分の生命なんて惜しくない。そう思っていた。思っていたからこそ、僕は彼女の盾となった。例えそれで僕が死んだとしても、彼女さえ生きていてくれたら、それでいいと。ーーけれど、彼女は僕のその想いを裏切った。
いいや、あれはきっと裏切りなんかじゃなく、元より彼女は僕を認めていなかったんじゃないかな。僕が寄せる信頼を、想いを。だから、『お前に守ってもらう必要などない』と突き返されたんじゃないか?
ー何で、彼女はそこまでして僕の献身を反故にしたんだろう……?ー
僕の生命なんて、いつ失くなっても惜しくないものだし、寧ろ、彼女の生命の方が何倍も大切なくらいだ。だから、守ろうとしたのに。なのに何で、彼女は大人しく守られてくれなかったんだろう。どうして、彼女は僕に別れを告げたんだろう?
『もう、貴方に守って貰う必要はない』
あの時、そう言われたように思えた。
後になって、彼女に告げられた「さよなら」には、そんな意味もあったんじゃないかって考えるようになって、随分と落ち込んだ。さよならを告げた彼女の顔には、悲しみよりも怒りに満ちていたから。
ライザタニアへ来て彼女の行方を探す道中、あの日の事を思い出しては溜息を吐き、ならどうすれば良かったのかと最善を探した。あのどうしようもないピンチの中、どうすれば良かったのかって。
「ねえ、先輩。先輩ならどうした?」
「……どうしたとは?」
「どうしようもない状況の中、それでも大切なひと……主をどうにか守りたいって思うのは当然じゃん?でも、状況的には勝ち目がないワケよ。そういう時、先輩ならどうするのかなって」
ある日、僕は旅の仲間であるナイルに尋ねた事があった。
ナイルは僕なんかよりずっと大人でーー実際九つほど上なんだけどーー生粋の騎士で、学があって、博識で、常識人。聞いた事に対する答えはいつも的を得たものばかりだ。
今思えば、いつの間にか、僕はナイルに大きな信頼を寄せていたんだろうね。こんな弱った姿まで見せるようになっていたんだから。
「そうだな。先ずは主の安全、これが最も重要だ」
「うん、それで?主の安全が保証されない状況なら……?」
ナイルは少しの間も置かず答えた。
「共に逃げる。主人を一人置いて死ぬ訳にはいかないからな」
「共に、逃げる……?」
「自分が死んだ後の保証などできぬだろう?守り手が複数いる場合は、その場さえ切り抜けられれば何とかなろうが、そうでない場合、主人は凶刃に晒されてしまうだろう。そんな事は看過できない」
騎士団一の常識人と云われるだけの実直な答え。しかし、実質、これは僕にというより、自分に言い聞かせている言葉だった。ナイルは先のアルカード騒乱で負傷し、その所為で大切な主を一人、工作員たちの中に残してきてしまった。
「『死んでも守る』とはヒロイックサーガでは良く聞くセリフではあるが、死んでしまっては守る事などできないだろう?だから死ねない。騎士として主を守る為、自分も生き残らなけばならない。違うか?」
ナイルには、守るべき主を守り切れず死なせてしまった過去がある。前任の『東の塔の魔女』をライザタニアの攻撃から守れなかったんだ。だからなのか、ナイルの言葉には重みがあった。
「リュゼ。騎士として死ぬのは簡単だ。けれど主をーー大切に想う者を悲しませない事の方が、ずっと大切だと思わないか?」
「っ……!」
口から飛び出しかけた声を直前で飲み込む。
ナイルの出した答えは、奇しくも以前、僕がアーネスト副団長に尋ねられた時に出した答えとまるで同じものだったんだ。
そんな事も忘れて、悲劇のヒロイン宜しく悲観に浸っていたなんて、僕はなんてバカなんだろう。
「自分を守って、主も守る。どれだけ泥臭くとも、どれだけみっともなくとも……身体だけではなく精神も守らねば、『守った』事にはならない」
彼女を、そして前任の『東の塔の魔女』を救えなかったこと。ナイルは以前の自分が、自身の生命を軽視していた事実を悟り、心底反省していたんだ。そして痛感した。
大勢の中の一人である騎士たちなど、集団の為、主の為、幾ら生命を差し出しても良いと、主さえ無事ならそれで良いと考えていた結果、守るべき主の生命をむざむざ喪わせてしまったから。
「っ、僕は、間違えていた。彼女さえ助かればそれで良いって……。でも……」
それじゃあいけなかった。
「あの時、アーリア様はどんな顔をなさっていた?お前の行為を善となさっていたか?……きっと、違うのだろう。アーリア様は自分の為に生命を捨てる覚悟をした者を、『それでこそ騎士の鏡だ』とは言うまい」
顔を晒したナイルの顔が曇る。困ったように、それでいて仕方ないとでも言いたげに。きっと彼女ーーアーリアを思い出しているんだ。
「僕は、最後まで、彼女の手を引いて逃げるべきだったんだ。なのに、僕は諦めて、彼女の手を離してしまった……」
だから、彼女は悲しそうでいて怒った表情をしていた。
嗚呼くそっ!
僕が最初にアーリアの信頼を裏切ったんじゃないか!
「彼女の為を思うなら、本当に彼女が大切なら、彼女の心ごと守らなきゃならなかったのに……!」
エステルで二人が交わした誓い。「一緒に生き残ろう」。その誓いを、僕は一方的に破った。彼女を見捨てたも同じだ。
「僕は……、僕は……!」
何が『初めから信頼されていなかったかも知れない』だ。
僕の方から裏切っておいて相手からの信頼を得ようとするなんて、厚かましいにもほどがある。
「一度裏切った期待、信頼を元に戻すのは容易ではない。信頼を取り戻すには、これまで以上の努力が必要だろう」
ナイルの言葉は僕ではなく自分自身へ向けられていた。
「だからこそ俺はーー私はもう、あんな醜態を犯さない。アーリア様の側で、最期まで、この命を全うする。泥臭くとも抗い、アーリア様を悲しませたりしない。絶対にだ」
拳を握り、誓いを立てる。自分自身に。そして彼女に。
「僕は、どうすれば良いんだろう?」
「どうとは……?」
「俺は、彼女を傷つけた。いっぱい。きっと今も傷つけてる。っ、どのツラ下げて彼女に会えば良いんだ……⁉︎」
アーリアのいるライザタニア王城、そして神殿は目の鼻の先にある。奪還の手立てもついた。システィナとも連絡をやり取りし、バックアップもついている。もう間もなく作戦は決行されるだろう。そうなれば、いよいよアーリアとも対面する事になる。
これまではアーリアを助ける事しか考えてなかったけど、助けた後の事まで頭が回っていなかった。ああ、なんてヘタレなんだ、僕は!
「どのツラでもいい。もう一度お会いできたなら、誠心誠意謝罪し、もう二度と悲しい思いはさせないと誓え!それがアーリア様の側にいる最低条件だ。それが出来ないのであれば、即刻此処から立ち去れ」
あとは俺が一人でやる。ナイルはそう吐き捨てた。普段温厚なナイルだけど、あの時は珍しく、作戦を目前にしてウダウダ悩み出した僕に苛立っていた。
そりゃそうだ。一つの迷いが作戦の失敗に繋がる事だってあるんだ。足を引っ張る者が側にいちゃ迷惑だろうさ。
「分かった。分かったからそんな目で見ないでよ、センパイ」
降参とばかりに両手を上げる。今ここで覚悟をしなきゃ、ナイルは本当に僕を置いて行っただろう。
「彼女を守って、僕も生き残る。彼女を悲しませたりしない。許してくれるまでーーううん、許してくれなくとも謝るよ。僕は彼女にそれだけの事をしたんだから。もう二度と、彼女を泣かせたりしない」
そう誓う。自分自身に。アーリアに。そして目の前にいる相棒に。すると、ナイルは「当たり前だ」と言い、僕の頭を一度だけ撫でた。乱暴に。その手はとても温かくて、僕は一瞬泣きそうになった。
「取り戻すぞ、リュゼ」
「当たり前じゃん!僕らはその為に来たんだから」
そうして僕らは漸くアーリアを眼前に捉えた。
けど、やっぱり取り戻すには一筋縄じゃいかなかった。
次々に現れる刺客、問題、状況。一度取り戻したアーリアは再び敵の手に落ち、そしてまさに今、その敵の手によってアーリアは地底湖へと突き落とされようとしている。
「アーリア!」
思わずあげた声。伸ばした手。
瞬間、アーリアと目が合った。気がした。
アーリアの目が見開かれ、そして唇が動いた。
ーリュゼー
ーーと。声にならない声が聞こえた気がした。
ブックマーク登録、感想、評価など、ありがとうございます!とっても励みになります(*'▽'*)
裏舞台7『伸ばされた指の先に』をお送りしました。
リュゼから伸ばされる手を見た瞬間、自ら閉ざしていた過去への扉を開いたアーリア。
アーリアが水面へ消える瞬間、伸ばした手の先にアーリアとの過去を見たリュゼ。
交錯する2人の想いが、伸ばされた指の先が触れる瞬間はすぐそこにあるのでしょうか?
次話も是非ご覧ください!




