混乱と騒乱の合間に2.5
「うぉぉ……ぐぬぬぅ……⁉︎」
大の男がひとり、狭い穴蔵の中で呻いている。その額には滝のような汗。連続して起こる耐え難い痛みに唇を引き絞り必死に抵抗するが、そんな努力とは無縁どばかりに痛みは増すばかり。
「こ、こんな所で……!」
そう。こんな所で油を売っている場合ではない。自分には指命があるのだ。敬愛する上官のお子様たちの平穏をお守りするという、崇高な使命が。
少し、いや、ほんの少し悪戯が過ぎる所があるが、彼らは父親を愛し、迷惑を掛けまいとする健気な子どもだ。地位ある者は狙われるというが、だからと言って子どもを狙うなど許せるものではない。他人は左遷だと言うが、決してそんな事はない。上官がいち武官に過ぎない自分に大切な子どもの生命を預けたのだ。それに応える事こそ、自分を取り立ててくれた上官に対する恩返しではないか。なればこそ!
「くぅぅ……おさまれ俺の腹ァっ……!」
ぐーぎゅるぎゅる。無様な音とは裏腹に、腹の奥底からは激痛が。どれだけ鍛えようと内腑までな鍛えられない。なんと無情か。男は早期回復を祈る事しか出来ることのない自分の弱さを、この日実感した。
※※※※※※※※※※
この春八つになったゼネンスキー侯爵家の令嬢ソアラはその日、淡い期待と共に何度目とも分からぬ頷きを得た。
「お姉さまならば、きっと……!」
運良く知り合う事となり、不思議な縁から『仮の姉妹』を演じる事となった女性。白磁の肌に牡丹の唇、白薔薇の髪に虹の瞳を持つ彼女を見た時、ソアラは絵本に見た精霊女王が舞い降りたのかのような錯覚を覚えた。
ソアラは幼くとも侯爵令嬢。現実と絵本とを混同する事はない。にも関わらず、彼女に関しては常に驚かされるばかりで、まるで化かされているかのように感じてならなかった。そして程なく、ソアラはその結論に至るのだ。
彼女は『特別』なのだ、とーー。
ある日、ソアラたちが庭園にて散策をしていると、突風に被っていた帽子が飛ばされてしまった。ソアラは勿論、そばに在った侍女たちですらアッと声を挙げるばかり。そんな中、彼女だけは違った。焦る事すらなく手を伸ばしただけ。すると不思議な事に、帽子は空でくるりと一回転。スルスルと彼女の手元へ舞い戻ったのだ。再び頭の上に戻された帽子に呆然と顔を上げれば、彼女は何事もなかったかのように微笑んだ。
またある日のこと、夜間、ソアラが胸騒ぎに起きるとやはり屋敷に侵入者が訪れていた。軍務長官である父の権威を貶めんとする侵入者はこれまでも幾度もあり、それを踏まえて対策が取られていた。なのに、その夜は不思議と侵入者は衛兵の手を逃れソアラの下までたどり着いてしまった。音もなく開かれる扉。月光に鈍く照らされた白刃。それを目にしたソアラは当然落命を覚悟した。しかし、ソアラの覚悟を他所に、現実は大きく異なった。騒ぎに隣室から出てきた彼女は迷わずソアラへと駆け寄り、侵入者へ向けて「来ないで!」と震える声で一言。すると、侵入者は見えぬ壁に阻まれ足を止め、剰え身体を硬直させ、自ら投降した。
そしてまたある日、ソアラが兄アベルの剣術指南を見学していた時のこと。アベルが誤って剣を滑らせ怪我を負ってしまった。深く傷ついた皮膚からは多量の血が流れ、その真っ赤な色だけでソアラが気を失いかけた時、彼女は兄へ駆け寄ると血に汚れるを厭わず、手を差し伸べた。すると、傷口は見るみる内に塞がり、数秒後には兄の脚は元通りになっていた。絶句する兄アベル。ソアラは涙をこぼすのも忘れて彼女の顔を仰ぎ見れば、そこには虹色に輝く瞳と、柔らかな笑みが広がっていた。
ーー等々。
不幸な事故によって記憶を失い、自らの名も正体も分からぬ彼女を父が引き取ったあの日以降、ソアラの姉として屋敷に住まうようになってから、この手のエピソードは尽きない。
魔法という奇跡が身近にある環境にも関わらず、彼女の起こす奇跡には、どこか自分たちの常識を上回る『何か』がある様に思えてならない出来事の数々。自分たちが未だ年経ぬ子どもだから、或いは未熟だからではないかと考えはしたが、不可思議な体験を繰り返すうち、考えを改めざるを得なくなていく。
「きっと、お姉さまがトクベツなのだわ」
魔法を扱う事のできる自分たちとも異なる才能。それが彼女には備わっている。人間の持つ魔力や魔法を使う為の素質とは違う『何か』を。そして……
「彼女なら、アレを何とか出来るんじゃないか?」
「そうかも知れませんわね……」
兄アベルの言葉にやや顔色を暗くして頷くソアラ。
兄妹たちが直面する問題には、疑念も懸念も多い。故に、賭けるには不安要素が多すぎる。けれど、頼れる場所も人も限られてくる中、不可思議な力を持った彼女の存在は神の采配にも思えた。
「これはチャンスだ。そうだろう?」
「ですが、お兄さま……!」
「このチャンスを逃したら、もう手が届かなくなってしまう!それに父上がッ……」
「……!」
ソアラの脳裏に浮かぶ父の表情は冴えない。常に朗らかな微笑みを浮かべる父だが、その内面が常に晴れている訳ではない事をソアラはーー兄アベルも知っていた。
軍務長官として、第二王子殿下の片腕として宰相の仕事をも担っている父は多忙で、仕事の過程で他者から恨みを買う事も多い。その所為で軍務長官ばかりかその子どもたちーーアベルとソアラたち兄妹もの生命が狙われる事がある。勿論、それを善とせぬ父は対策をたて護衛を置いているのだが、父は置かれた状況をただ感受するようなボンクラではなく、子どもの生命を盾に取るやり口に激昂し、苛烈な思いを抱いているのも確かなのだ。しかしそれらの事柄以上に父には、マグマの如く激烈な感情を抱いている事案があった。
「母上の命日まで、あと一月とない……」
「ええ、けれどお兄さま……」
「ソアラ、俺はこのチャンスに賭けたい。例え、どのような危険があろうとも……!」
ソアラは兄アベルの決意に顎を下げる。
「反対はございません。私も協力させて頂けますわ」
兄とは違い、物心つく前に母を亡くしたソアラは母の温もりを知らずに育った。ソアラはそれを寂しくは思うが、知らない事を知る事は永遠に叶わず、それを知るアベルよりも母に対する愛情は少ないように思っていた。生まれてすぐに亡くなった母を恋しく思っても、会う事は叶わないのだ。だからこそ、会う事の叶わぬ母よりもずっと側にいて愛情を注いでくれる家族をーー父と兄を大切にしたい。
きっとこの感情をこそ『薄情』と言うのだろう。しかし、ソアラからすれば亡くなった母親よりも生きている父親と兄の方が、ずっと大切にしたい。
なのに、ソアラの感情とは関係ないところで大切な家族が苦悩している。亡くなった母の影に苦しめられている。いや、母が亡くなるに至った事件、その原因に未だ苦しめられているのだ。それがソアラにはどうしようもなく歯痒く感じてならなかった。
「この機を逃したら、もう、あの方に届く事は叶わなくなるでしょう。ならば、これは『天の采配』だとして動くしかございません!」
これまでに自分たち家族を襲った不幸すら『天の采配』の結果なのだとしたら、これから自分たちが行う『賭け』もまた、『天の采配』に違いない。
かなり強引な考えだが、地上に住まう人間の行いーーその全てが『天の神の思惑通り』に違いないのだ。神には人間の幸も不幸もきっと些細な事で、気に留める程の物ではないのではないか……?幼くとも、そのような考えを持つに至ったソアラもまた、ライザタニアの闇に囚われた子羊の一人。
「ええ、そうですわ。お姉さまならば、きっと……!」
出会いも浅き他人に自分たちの未来を託すなど、なんと無謀な事か!と、傍観者ならそう声高に応えたに違いない。だが、当事者たる彼ら兄妹は藁をも掴む思いで、その考えに縋るしかなかった。
そして、遂に彼女たちは行動を起こした。
敬愛する父親を騙し、家人を騙して姉のいる神殿へと訪問する計画を企てた。
名目は社会見学。貴族子弟向けの教育プログラムを利用する事にしたのだ。担当の神官より神殿の歴史と役割とを教わり、その後、神へ祈りを捧げるというプログラムを。
2人は平民とは異なる入場口から神殿へ至り、そして内殿の学舎にて一日を過ごす。
親の顔を立てる為、貴族子弟の見本のように従順に過ごす子どもたちに、大人たちも次第に気を許していく。父につけられた使用人に扮した武官も同様であり、日頃の彼らを知るが故に、自然監視の目も緩くなる。その機を狙った。
何度目かの休憩を挟み、使用人が用に立つのを見計らって、2人はこっそり部屋を抜け出した。目的地は内殿の更に奥。姉の勤める宮へと。
「此処までは上手くいったな?」
「ええでも、早くしないと見つかってしまいますわ」
「それはまぁ、当分は大丈夫さ」
「え?……お兄さま、何かなさいましたの?」
「ああ。下剤を少々な……」
「まぁ!お兄さまったらっ」
兄のしでかした悪戯に口を開けるソアラ。今頃、武官が陥っているであろう状態に、ほんの少しの同情を向ける。
「言っとくが、お前も共犯だからな?」
「まぁ、なぜですの?」
「お前が作ったあのクッキー、あれが原因だからだ」
「ええ⁉︎」
鬼の所業に目を見開くソアラ。対する兄アベルに反省の色はない。
「お兄さま、もしかして手土産にした茶菓子にも?」
「当たり前だ。抜かりはない!」
親指を立てる兄。その良い笑顔にソアラはすでに責めるのを諦めた。そもそも、責める謂れはない。自分たちが自由に行動する為には、武官の存在は邪魔でしかないのだから。
「では、後で私も頭を下げますわ」
学舎を抜け出した事に加え、武官を厠の住人にしたのだ。侯爵令息、令嬢相手に頭ごなしに怒ってくる事はなくとも、ネチネチと説教してくるに違いない。
「だな。彼はアレでも長く持った方だしな」
「ええ。これからも仕えて欲しいですわね」
下剤を盛られた武官の男。漸く二十代に差し掛かった若い青年だ。彼は通常の使用人とは異なり、護衛をも兼ねていた。武官故に勿論武術も堪能。軍務長官に目をかけられているので、将来も有望だ。
彼自身、どこぞの貴族の愛人が産ませた子どもらしく、身分はかろうじて貴族といったところ。そんな者が務められる場所など自然限られてくる。軍人として身を立てるしかなく、若くして軍部に所属。西方勤務の最中に上官に捨て石にされ、生き残った末に投獄されてしまうが、そこを現西方将軍に救われ、西方軍を経て中央へ……という、年に似合わぬ苦労人であった。
故郷の母に仕送りを欠かさぬ好青年。上官子息の護衛兼使用人という左遷にも思える命にも嫌な顔せず、子どもたちの悪戯にも律儀に付き合う真面目な性格。彼の名はレーンベルト・ランゲージ(21)。気立の良い年下の彼女募集中。綺麗な赤目の彼を、子どもたちは大変気に入っていた。
「レーンベルトが回復するまでがリミットだ。それまでにどこまで行けるかだな?」
「彼の犠牲を無駄にしてはいけませんわ!」
「ああ!」
まるで「ここは俺が食い止める。お前たちは先に行けっ!」の後のセリフのようだが、ゼネンスキー侯爵家の忠実なる使用人を犠牲にしたのは、彼ら2人である。
そんな事はお構いなしに、誰にすれ違う事もなく、進むべき道をスイスイと進む。それを訝しむ事がないのが、彼らがまだまだ子どもなのだという事を、気づきもせず……。
「この先だ……っと!」
いくつかの角を曲がった所で先行くアベルが歩みを止めた。口に指を置き、ソアラに物音を立てぬ様に視線で合図する。
「ーーなに、侵入者だと⁉︎」
掠れた男の怒声。同時にザワザワとした雑音に紛れて、豪奢な聖職衣を纏った壮年の男が、何人もの神官を引き連れて現れた。荘厳な神殿に似つかわしくもない足音をさせ、神官たちに叱咤を飛ばすのはこの神殿のナンバー2、ルスティアナ大司教その人。
「何処の誰かは知らんが、現状、姫巫女を拐われる訳にはいかん!」
苦々しく吐き出される言葉。その表情から、大司教が姫巫女の心配をしていない事は明らか。その様子を他の神官たちが不快に顔を歪める訳でもなく、平然と受け止めている様は異様に尽きる。
「姫巫女など他を立てればよい。だが、アレは王宮からつけられた目だ。そう簡単に排除はできん」
ひと目も憚らぬ怨嗟の声。
「あの娘が拐われるのは一向に構わぬ。勿論、殺されるのも。ーーが、そのどちらも我が範疇で起こって貰わねば困るのだ!」
それらの言葉にアベルは純粋に吐き気を覚えた。ソアラの顔色も悪い。神殿が自分たちの考える組織とは違う事をマザマザと見せつけられたのだ。子どもが想像できぬほど汚い世界がある事は知っていても、実際に体験するには年を経ていない。ーーしかし、女であるソアラは男のアベルよりも現実を受け止めるのは早かった。
「くそっ、あの生臭坊主!」
「お待ちください、お兄さま」
「待てるか!アイツを追いかけなきゃ……」
「ええ、もちろん追いかけますわ」
「ソアラ、なにを……?」
風魔法による隠遁の術によって姿を隠していたアベルは、魔法による効果を持続しつつ、ルスティアナ大司教の後を追おうとしたが、それをソアラが止めた。
「お兄さま、目的をお忘れではありませんよね?」
「勿論。だが、その為には彼女が必要で……」
アベルは言いかけた言葉を止めた。ソアラが向けた指の先にある物を視界に入れたからだ。
「ーーッ! そうか!」
「ええ。大司教様が先程仰っていたでしょう?『現状、姫巫女を拐われる訳にはいかん』と……」
「ああ。ならば、大司教は彼女を何がなんでも助けるに違いないな?」
「ええ。ですから、私ちちが今すべき事は……」
「待ち伏せだな?」
目線の先、庭園の向こうに見える2台の馬車。その内1台は確実に大司教の為に用意されたものだろう。馬車の側面に刻まれた印章からそれは分かった。馬車の側には馭者と思しき者が所在なさげにボンヤリと空を眺めている。時間潰しをしているのだろう。
アベルは右手の親指と人差し指で輪を作ると、その輪を右眼の前に掲げた。そして指を右眼から20センチほど離すと、輪の中に向けてフウっと息を吹き込んだ。息は風となり、風は馬車へーー馬車の側面に凭れ掛かる馭者へと向かい行く。
「よし、まずはこれでいいだろう!」
「お兄さまったら!本当にこういう事がお得意ですわね?」
馭者に気付かれる事なく仕掛けが済むと、アベルはソアラへと向き直る。ソアラは若干困った顔をしているが、咎める気はない。兄の小器用さに心底感心しているといった雰囲気だ。
「褒めてるのかソレ?」
「ええ勿論ですわ。さ、参りましょう」
「なんか腑に落ちないな。まぁいいか」
手に手を取り合う子どもたち。している事は決して褒められた事ではないが、それでも彼らの顔には不安は勿論、後悔は浮かんでいなかった。
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『混乱と騒乱の合間に2.5』をお送りしました。
ゼネンスキー侯爵家の子どもたちは父親の頼みを受け、記憶を失くしたアーリアを家族として受け入れました。しかし、彼らは子どもながらに父親の様子、そして周囲の変化を敏感に察知していました。
無謀とも思える行動に出た子どもたち。アーリアを巻き込んで、何をしようというのでしょうか……?
次話『混乱と騒乱の合間に3』も是非ご覧ください!




