手の届く場所1
ーーその日、多額の寄付をした異国の行商人が神殿を訪れた。と云うのもその行商人、隣国エステルから商売を行いつつライザタニアを南下し、ついに王都入りをという所で事故に遭い、大怪我を負ったらしいのだ。
同時期、ライザタニア王都では突如襲った地震が原因で、神殿の加護に肖ろうとする者が絶えなかった。正確には、神の奇跡の体現者たる姫巫女からの治療を望んでいた。
神殿は慈悲の精神を尊ぶ者が集いし場所だが、神殿とは所謂宗教団体のひとつ。無料で全ての国民に施しを行う訳にはいかない。お布施という形での収益がなければ、宗教団体が経営を続けていくのは困難であるからだ。
その為、必然的に優先順位が決められていく世知辛い現状があった。
日頃より神殿を援助する王族や貴族、地位や身分ある者は勿論のこと、平民に於いては裕福な家庭の者が優先されるのは当然。お布施、上納金、寄附金、どのような形であれ神殿にとって必要なのは、存在維持と威信確保、そして永続的に活動する為の資金であった。
「どうぞ此方へ」
顔の左半分を布で覆った青年が修道女に案内され、大講堂の奥へと足を踏み入れた。
癖っ毛のある茶髪が包帯の奥から覗く。琥珀色の瞳が美しい青年だが、血に染まる包帯と身体についた痛々しい傷、そして運ばれている意識のない同伴者へ向ける視線からは悲壮感が漂っている。とても気軽に声をかけられる状態にはなかった。
ー義理の兄弟と言ったかしら?ー
案内の修道女はチラリと背後に視線を送る。
担架に乗せられた黒髪の青年と、その青年を悲痛な面持ちで見つめる茶髪の青年。二人の修道士によって運ばれているのは黒髪の青年の身体には痛々しい傷が彼方此方にあり、腹あたりから滲む血の跡からも、相当酷い状態に思えた。
しかし、修道女が気になったのは被災した青年たちの様子ではなく、二人の容姿にあった。血の繋がりのある義理の兄弟との事だが、いったいどうして似た点がまるでないのだ。
どちらも整った容姿をしている。貴族子弟だと言われても納得するだろう。だが、髪色にしても眼色にしても、そして顔立ちにしても、二人は何一つ似ていなかった。
ーまぁ、色々あるわよね?ー
貴族に関わらず、平民の一般家庭に於いても家族の形は様々だ。中には複雑な家庭もあるだろう。まるで似ていない義兄弟がいても可笑しくはない。
修道女は今や遠く離れた生家を思い出すと、頬に手を当ててハァと溜息を吐いた。父は実に娘思いの親であったが、母に内緒で外に愛人を作っていた事を知っていたからだ。
表面上は何の問題もないように思える家族も、蓋を開ければ問題の一つや二つ転がっているもの。それを知るならば、他人への詮索は止すべきだろう。
「姫巫女さま、失礼致します」
回廊を歩き行き、やがて見えた一つの宮。草花に囲まれたこの奥之院こそ、神殿のシンボル的存在である姫巫女の座す場所であった。
護衛たちを横切り、開かれた扉を潜り、幾枚かのカーテンに隠された室へと足を踏み込んで行く。
「お連れしました」
「ご苦労様です。その者たちを其方へ……」
一際豪奢なカーテンの奥から女性の声。声に従って五芒星を模した幾何学模様が刺繍された絨毯の上に担架を下ろした修道士たちは、一礼し宮を辞した。
残されたのは案内を担当した姫巫女つきの修道女、そして傷の治療に訪れた行商人の義兄弟の三人。義兄弟の片割れーー茶髪の青年は地に膝をつけると、深く頭を下げた。姫巫女がお出ましになるのだ。
「……え?司祭さまが……⁇」
「急ぎ、お連れするようにと……」
どうやらその日はいつもとは少し状況が異なる様だった。去り際の修道士から何やら耳打ちされた修道女はあからさまに顔を曇らせ、怪訝な表情を隠しもせず足早に退室していった。つまり、その室には怪我人二人のみが残された状態となった。
姫巫女の秘術は門外不出。例え、姫巫女つきの侍女や修道女であったとしても、見る事は叶わぬものなのだろうか。そう、義兄弟の片割れが疑問に思ったかどうかは判らないが、修道女の退出と間を置かず、カーテンの奥から人の気配が生まれた。
ーシュル、シャラリ、シュル……ー
姫巫女の登場に義兄弟の片割れーー茶髪の青年が深々と頭を下げる。金属と衣擦れの音が静寂の中から届く。風に乗って花の香が流れ来ると、ひとりの少女が傷を負った義兄弟たちの前に現れた。
「ひどい傷……」
頭を下げたままの茶髪青年の側、姫巫女は傷つき意識のない黒髪青年の顔を覗き込むように膝をついた。そして、黒髪青年の頭の天辺から爪先までつぶさに観察すると、徐に袖の中から白い手を出した。
陽に焼けるを知らぬ白磁の指が、少し躊躇ってから黒髪青年の額に触れる。すると、姫巫女の指先が淡い光を放ち始めた。
「ー神よ、名もなき者たちに祝福をー」
小さな鈴の音の様な声音。反比例する力ある《言の葉》。淡い光は力なく倒れる黒髪青年の身体全体を包み込み、腹にある深い傷から手足にある細かな擦り傷まで、あらゆる傷が塞がり、血の気のない顔に赤みが戻っていく。
すると義兄の生命を救われた筈の茶髪青年は、ジッと床を見つめたまま「やっぱり」と唇を動かした。そして何かを確信して一度瞳を瞑ると、頭を下げたまま治療を終えた姫巫女へと問い掛けた。
「姫巫女さまは、神を信じておられるのですか?」
ーーと。
まさか食客の方から話しかけられるとは思わなかった姫巫女は「え?」と間抜けな声をあげる。
食客とは彼らのように外部から訪れる者を指し、今の神殿は信者ではなくともある程度のお布施さえ奉納すれば恩恵が与えられていた。
今回のように姫巫女の治療を受ける者には規定が定められており、神殿に入る前に事前説明を受けさせられる。その中には『姫巫女の治療を受ける最中は決して面を上げず、また姫巫女へ話しかけてはならない』という規定もあった。
「ーー!?」
包帯から覗く片目。蜂蜜を彷彿とさせる美しい琥珀色の瞳と視線がぶつかった姫巫女は、心臓を鷲掴みにされた様な感覚に陥った。
心の奥底を揺すぶる既視感が視界を揺らし、僅かな間、頭の中が酩酊し始める。
「さっきのあの言葉、あれは《力ある言葉》?」
「え、あ……あれは……その…………」
魔法や魔術を嗜む者でなければ出てこぬ言葉に、姫巫女は息を飲んだ。そして、もごもごと口籠ると、刺すような視線から逃れるべく視線を僅かに逸らした。
「実はあれ、呪文ではないの。でも、それらしかったでしょう?」
「それじゃあ……」
「ええ、実のところ言葉は何でもいい。だから、こんな言葉でも構わないの」
そう、何故か答えなくとも良い告白をすると、姫巫女は茶髪青年の額にそっと触れて呟いた。「痛いの痛いの飛んでゆけ」と。
すると、先ほど黒髪青年に施した力と同じような淡い光が指先から放たれ、目前の青年の身体を包み込むと身体を隅々まで傷を癒した。
青年の傷が癒えるのを確認すると姫巫女は微笑を浮かべて、「ナイショにしておいてくださいね?」と唇に指を当てた。
「では、神を信じている訳ではないと……?」
傷の治療も終わり膝をあげようとした時、姫巫女は青年に腕を取られていた。
姫巫女は手首にある手と、手の主とを相互に見比べる。まるで割れ物を触るかのようにやんわりと掴む青年の手。見ず知らずの男に腕を掴まれた事への嫌悪感は、ない。
「……神は存在します」
「なぜそう言い切れる?」
「神は、この様に地上に精霊を遣わしておられるからです」
「精霊?」
「ええ。精霊こそ、神が存在する事の証拠です」
精霊を神と崇める帝国信者、その模範解答のような言葉に、茶髪青年は僅かに眉根を潜めた。この世の底辺を知る茶髪青年には、「精霊が人間たちを救う事はない」と断言できるからだ。
「『神が本当に存在するのなら、地上に貧富の差はなく、不幸に嘆く人間もいない』ですか?」
徐々に目が据わっていく青年に対し、姫巫女は茶髪青年の言葉を先回りするかのような言葉を放った。青年は気まずそうに「ええ、まぁ……」と口籠る。
「私もね、ついこの前まで貴方と同じような事を考えていたの。『神が存在するのなら、なぜ不幸な人々をお見捨てになるのだろうか?』って。『神に祈れば救われる』なんて、虚言に過ぎない。なぜならこの世界では、どれだけ神に祈ったところで奇跡なんて起きないのだから……」
手首を掴まれた状態から立ち上がる事は不可能だと悟った姫巫女は、再びその場に膝をついた。そのまま離されない手に疑問を持ちつつも、青年の問いに答えるべく言葉を紡いでいく。
「だけど、同時にこうも考えた。『神が人の言葉に耳を傾け、次々と奇跡を起こしていたら、人は神の加護に縋って自身で努力しようとする事を忘れてしまうのではないか』って。人は困難な道よりも安楽な道を選びたがるもの。一度楽を覚えてしまったら、もう厳しい現実には向き合えない……」
神の存在を信じると言いながら、神が地上の民を救わぬ理由を述べる姫巫女。彼女の伏せられた顔には、苦悩の表情があった。
「そう分かっていてさえ、貴女は『神の祝福』を乞うのか?」
「ええ。この世界の神は慈悲深いわ。神は自身の手足の代わりに、精霊を地上へ放ってくださっているのだから……」
魔法や魔術といった奇跡の術を可能にしているのは精霊の力ーー所謂、魔力が地上に満ちているお陰なのだ。精霊の力を借りた魔法も、魔法から創り出された魔術も、どちらも精霊が存在しなくば成り立たない。
「精霊の力をどう活かすかは人間次第だと思わない?魔法も魔術も魔宝具も……どんなモノでも、それを扱う人間次第で毒にも薬にもなる。だから……」
「人は現金な生物だよ?都合良く捉え、都合良く使い、都合良く捨てる。時には縋り、時には牙を剥く……」
「けれど、神は地上に生きる全ての生けるモノに祝福を授けられているわ」
「祝福?」
「ええ。『生きる希望』を……」
最初こそ茶髪青年の言動に戸惑っていた姫巫女だったが、言葉を交わす内にその態度は随分リラックスしたものになっていた。いつの間にか合わさる視線も、逸らしたいと思うほど辛いものではなくなっていた。
「生きている限り、楽しい事もあれば辛い事もある。喜びに満ち溢れる日もあれば、悲しみに暮れる日もある。だけど、それは『生きているからこそ』感じられる事だよね?この世界に生まれたからこそ、抱く事のできる感情よね?」
まるで自分自身に言い聞かせるような言葉。姫巫女は自身の言葉に頷き、そして、また言葉を紡ぐ。
「人は、この世に生を受けた段階で既に『神の加護』を授かっている。自分の人生をどの様に生き切るか、それは自分自身の選択に課せられているのではないかな……?」
「ふーん……それが君の考えなの?」
「ええ、これは私個人の見解。貴方は貴方の答えを見つけて……」
琥珀色の瞳が自身を映し出している。どこまでも澄んだ瞳の輝き。だけど、奥底を見通す事はできない。
「神に祈るのはいい。けど、神に縋って生きるのは間違っている。人間は、より良い人生を生きる為に、努力し続ける必要があるのだから……」
「努力とかさ、そんなモノでは何ともならない状況ってのもあるケド?そんな時はどーするの?諦めろっていうの?」
「っ……!」
包帯から覗く片目が姫巫女のオパールの瞳を貫く。その余りにも鋭い視線と言葉に姫巫女は肩を揺らし唇を閉ざした。
姫巫女自身に出来るのは、こうして傷つき倒れた者の傷を癒す事だけ。目に見える傷ならば大抵は治療が可能だ。だが目に見えぬ傷はどうする事もできない。不幸に見舞われる事のないように神に祈りを捧げ、信者たちの健康と安寧を祈る事しかできないのだ。
「ごめん。言い過ぎた……」
「いいえ。姫巫女という立場にありながら、貴方に明確な答えを用意できない私が悪いの……。私にできるのは、神に代わって、ほんの少し生きる手助けを行う事だけだから……」
話はこれで終わりとばかりに、姫巫女は再び立ち上がろと試みた。しかし、茶髪の青年は姫巫女の視線を外そうとしない。そして、掴んだ手もーー
「あの……そろそろ手を離してください」
「離したくないって言ったら、どうする?」
姫巫女が困惑の表情に顔を曇らせた時、青年は姫巫女の細腕を軽く引いた。腕を引かれた姫巫女は、気づいた時には青年の胸中にいた。微かに芳る柑橘系の香り、何処かで嗅いだ事のある柔らかな香りに、胸が締め付けられた。
「っ……⁉︎ 離して、ください……!」
「嫌だ」
「!」
「やっと……やっと手の届く場所まで来たってのに、このまま連れて帰っちゃダメなんて、そんな酷いコト言わないよね?」
耳元で囁くように紡がれる青年の言葉に、姫巫女は困惑を極めた。見ず知らずの青年の腕をーー優しく包み込む温かな腕を拒む事ができない。心が乱される。頭が混乱する。
「貴方は、何を、言って……⁇」
「アーリア。本当に僕のコト、忘れちゃったの?」
「⁉︎」
「本当に覚えてないの?」
「っぁ……⁉︎」
「一緒に帰ろう。僕と……」
耳の奥に鐘の音が響く。ガンガンと打ち付けられる鐘の音は脳内を蝕み、激しい頭痛を引き起こした。『帰れない!』と心の奥で誰かが泣き叫ぶ声が聞こえ、姫巫女は青年の腕の中で暴れ始めた。
「ぃ、イヤっ……離してっ!」
悲鳴に近い叫び声は青年の胸の中に吸い込まれていった。頭を押さえてイヤイヤと頭を振る姫巫女の姿に、青年は腕の力を緩めた。
「ごめん。君にそんな顔をさせるつもりはなかったんだ」
背に回されていた腕が離され、姫巫女は青年の胸から解放された。困惑と混乱に顔を真っ青にする姫巫女は、溢れそうになる涙を堪え、青年から顔を背けた。
「……治療は終わりました。お帰りになってください」
「アーリア」
「早く出ていって。人を……人を呼びますよ?」
その言葉でも動かぬ青年に、姫巫女は宣言通り室の外へ控える衛兵へと声を掛けようとした。ーーとその時、パチンと何かの弾けるような乾いた音が鼓膜に届いた。
「な、にを……⁉︎」
姫巫女はそれを口にするのが精一杯だった。首筋から身体全身に疾る痺れ。頸動脈から伝わった刺激は、一瞬で身体中を駆け巡った。
琥珀色の瞳に酷い顔の自身が写っている。その申し訳なさそうな青年の表情を視界に捉えた後、姫巫女の意識は瞬く間に暗転した。
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『手の届く場所1』をお送りしました。
姫巫女の加護を受けるべく、異国の行商人兄弟が神殿の門を潜りました。
義理の兄弟という彼らの傷を、何の疑問も抱かず姫巫女は神業をもって癒します。しかし、その治療行為は、商人らの策略によって仕向けられたもので……?
次話、『手の届く場所2』を是非ご覧ください!




