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魔宝石物語  作者: かうる
魔女と狂気の王子(下)
373/500

酒に呑まれたい夜もある

side:Sistina

 深い紺の海に輝く宝石。月の透ける薄雲。緑深き精霊の森から夢世に誘う唄声が聴こえる。


 月も西へと傾き始めた頃、闇夜に紛れて一人の青年が高級宿の門を潜った。宿屋の並ぶ界隈でも一際立派な門構え。お忍びの貴族も利用する高級宿には現在、三組の上客が宿泊中であった。

 一組目は南方に赴任中の高級将校。南方勤務の制服軍人が王都へ召集をかけられ、一時的にここへ身を寄せている。だが、側に『お連れ様』の姿が見える為、王都帰還は仕事だけとは限らないようだ。

 二組目は歳をめした夫婦。元は豪商であったが息子夫婦に家督と利権を譲り、退職後の道楽とばかりに国を横断する周遊旅の最中。第一王子殿下と第二王子殿下の二つの陣営に分かれ、内紛中であるにも関わらず呑気なものだ。

 そして三組目は隣国エステルから来た行商人一行。最近では交流の少なくなった近隣諸国の品を扱っている事もさながら、見目麗しい義兄弟商人の扱う品々は流行りに敏感な貴族社会においては密かな噂となっていた。何を隠そう、異国の行商人の正体こそがシスティナから侵入を果たした騎士であった。


 ーキィ……ー


 僅かに軋む蝶番。裏口の扉をサッと閉めると、青年は寝静まる宿の中を忍び足で自室へと向かった。大理石の床。彫刻の施された壁。調度品も一流品ばかり。完全にプライベート空間を分けた一棟ごとに分かれた客室は高級宿ならではの造りとなっている。


「?」


 真鍮のドアノブを捻りスルリと扉を開けた先、ロビーを兼ねた談話室にその人影を見つけた青年は、僅かに目を見張った。


「ーーリュゼ殿が深酒とは、珍しい」

「あ、ナイル先輩。おかえりなさ~い」


 青年ーーナイルへとヒラヒラと手を降るリュゼの目は虚で頬が僅かに上気している。手には琥珀色の液体の入ったグラス、机上には同じ色の液体の入ったビンが置かれている。ナイルは警戒心を解くと、フワフワと頭を揺らすリュゼへと足を向けた。


「どーでした?情報収集デートは」 

「どうと言われても……」

「随分とお早いお帰りで、お楽しみじゃなかったんデスか?」

「楽しくは、ないな……」

「ええ~~!? 結構な美女だったじゃないですかぁ」

「いや、あれは……」


 美女は美女でも人妻。人妻との密会。旦那に隠れてのディナー。単語を並べただけで実に爛れた関係だという事が判る。如何わしい匂いがして堪らない。しかもその実、一夜の夢の相手との密会は、ライザタニア情勢を聞き出す為の情報収集にしか過ぎない。そのどこに楽しさを見いだせと言うのか、とナイルは肩を竦めた。


「まだ若い奥様マダムだったような……ほら確か、ライベル伯爵婦人?でしたっけ?」


 旦那を余所に火遊びをする人妻相手に本気になる事などない。特にナイルは恋愛方面に於いても真面目で純情。どこぞの後輩騎士ではあるまいに、物珍しい異国の行商人相手に火遊びを仕出かす人妻に情など湧く訳がなく、リュゼ曰く情報収集デートは実に淡々としたものであったのだ。


「若くはあったな。俺よりも五つも年下で……」


 優しく微笑みかければ簡単に頬を染める人妻に、内心げっそりしていた気分になった事をナイルは思い出した。社交辞令による営業スマイルは貴族の基本装備であるにも関わらず、ナイルの心にもない微笑にころっと転がされる伯爵婦人に対し、『もう少し警戒心を持つべきだ』と忠告しそうになった程であった。


「だったら!なーんか美味しい展開でもあったんじゃ?」


 フフンと嬉しそうーーいや、イヤラシイ笑みを浮かべるリュゼの顔をナイルはとっくりと見つめる。だが、弧を描く唇、垂れる眉尻、怪しげない光を放つ琥珀の瞳、そのどれからもリュゼの真意を読む事は叶わない。


「……。リュゼ殿、相当酔っているな?」

「またまたぁ!いっつもそうやって誤魔化すぅ~~」

「本当に珍しい。絡み酒か」

「いーじゃーん。僕だってたまには正体も忘れて呑みたい夜もあるよ」

「確かに。だが……」


 ふっと苦笑を漏らすとナイルはリュゼの向かいの椅子を引いた。まさか半ば酩酊状態にある自分に付き合ってくれるなど思ってもいなかったリュゼは、鳩が豆鉄砲を食らった後のように目をぱちくりと瞬いた。


「付き合ってくれるの?」

「たまには、な……。俺はリュゼ殿の義兄あになのだろう?」


 普段より他者に弱味など見せる事などない義弟。初めて見るその様子には何か考えさせられる所があった。ナイルは泥酔状態にある義弟おとうとを前にそう宣うと、空いたグラスに琥珀の液体を注いだ。



 ※※※



「先輩、兄弟は?もしかして、歳の離れた弟妹がいるんじゃ……?」


 先輩って、相当面倒見が良いよね?とリュゼ。ナイルは空のグラスに於保つかぬ手つきでビンを傾けていたリュゼの手からビンを奪うと、リュゼのグラスに液体を注ぐ。トクトクと注がれていくグラスに見入っていたリュゼは、グラスの中身から目を離さぬままに問うた。


「これまた唐突だな……。だが、当たりだ。二つ上の兄と歳の離れた弟妹がいる」

「あ、やっぱり!そーだと思った」


 ナイルの弟は今年成人を迎え、近衛騎士団への入団試験を受ける算段をしているらしい。塔の騎士団で活躍する兄ナイルと同じ騎士を目指す事に対して、「お兄ちゃんに憧れたのかな?」とリュゼが問えば、「それはどうかな」とナイルは苦笑する。一方、妹はまだ十五。ナイルとは十五の歳の差がある。この春、王都オーセンにある学園、その高等部へ進学したらしい。高等部では魔術を専攻しているとのこと。


「先輩が後輩騎士たち対して面倒見が良い理由が分かったよ。じゃあ、家督はお兄さんが?」

「ああ。そのおかげで俺はのうのうと騎士をしていられる」


 早々に実家から離れ騎士として独り立ちした事で、家督相続争いなどは全く起こらなかったとナイルは語る。それどころか、騎士団入団を理由に実家の事業も仕事も放り出した為、今では穀潰し扱いされているとも。


「リュゼ殿のご家族はご健在か?」


 二人は救うべく相手を同じくしている騎士同士という間柄だが、これまで互いの素性を語り合った事などなかった。知っているのは名前と役割と立ち位置のみ。騎士団で得られる互いの経歴程度のもので、その経歴からは簡単な職歴程度のものしか知らずにいた。また、応用にして他者の職歴をわざわざ調べる事はないもので、つまり、二人は互いの情報を殆ど手にしていなかった。

 だが、その意外でも何でもない問いにリュゼら「えッ!?」と口を大きく開けた。しかも、心底驚いているように目を見開いて。


「あ……聞いてはいけなかったか?」

「え、あー〜〜……そうだね、聞いたら聞き返されるのは当たり前か……」

「リュゼ殿……?」


 ポリポリと後頭部を掻くリュゼは間の抜けた言葉の後にこう続けた。


「うーん、僕の家族か……どこで何してるんだろうね?」

「……は?」

「先輩、僕は噂通り『下賤の生まれ』だよ。それも底辺のね。親の顔なんて覚えちゃいない。それどころか生きてるか死んでるかも知らないんだ。兄弟か……いんのかな?どーだろ?考えた事もなかったな……」


 リュゼは事実を口にした。しかし、その事実はナイルにとっては驚愕に値する事実であった。口を僅かに開けていたナイルの眉がギュッと中央へ寄る。神妙な面持ちで言葉を探すナイルに、リュゼはハハッと苦笑した。


「先輩、そんな難しい表情かおしないでよ。平民なんて、皆んなこんなモンだよ。別に不幸に感じた事もないし」

「だが……」

「それに。ナイル先輩が忠誠を誓う魔女様もね」

「⁉︎」

虚言ウソじゃないよ。先輩も彼女が平民の出だって事は、知らされているでしょ?」

「それは、そうだが……」


 言い淀むナイルにリュゼは畳み掛けるように言葉を紡ぐ。リュゼの目は狂気に浮かされた殺人犯のように波間を漂い、ゆらりゆらりと次第に熱を浴びていく。


「みんなーーナイル先輩も夢見過ぎてるよ。誰も彼女の事を本当に知ろうとなんてしちゃいない。重要なのは彼女の能力や技能、従順さ、あと見た目かな?『塔の魔女』として相応しい体裁さえ整えていればそれで良いとでも考えているんだろうね」

「リュゼ殿……?」

「あの澄ましたツラーー見かけに惑わされて、内面を見ようとなんてしない。あるじだなんて言って崇めているけど、所詮外見にしか興味がないワケだ」


 突然饒舌に、且つ、辛辣に語り始めたリュゼにナイルは困惑した。これまでリュゼがこのように他者を酷評した事などなかったからだ。しかも、リュゼはナイルたち騎士を酷評すると共に、己の生命よりも大切な魔女をも貶めている。その事には驚愕さえ覚えた。

 だが、リュゼの心はその狂気に浮かされた瞳とはまるで真逆のていを為していた。激情とも呼べる激しい感情の中に、静寂に包まれた泉に写る月のように穏やかな感情が浮かんでいたのだ。


 ーもし、本当に僕が事実を打ち明けたら……?ー


 魔女の出自はデリケートな問題だ。魔女本人も未だに消化し切れていない問題なのだ。それどころかその事実は一生、魔女の根底に渦巻き続けるに違いない。それを肌身で感じているからこそリュゼは、事実そんなことを本人の了承も得ず、他者へ話す事はない。あくまでも『もしも』の話だ。


 ー先輩は彼女の側を去るだろうか?ー


 まるで試しているようだ。眼前の正騎士ナイルを、そして偽騎士じぶんを……。熱に浮かされたように見せかけて、その実、冷静な感情でリュゼは酒を片手にナイルに語りかけ続ける。


「『民を想う慈悲深き魔女』だっけ?何なのその妄想はさ。ちゃんちゃらオカシイよね!」


 都合良すぎる!と叫ぶリュゼ。自分を救えるのは自分だけだ。にも関わらず、他者からの施しをアテにして楽をしたがる人間のなんと多い事か、と……。


「彼女は彼女でしかない。彼女はーー『塔の魔女』は完璧超人なんかじゃない。自分の事で手一杯のただの女の子なのにさ!」


 ナイルはリュゼの言葉に自身の表情かおを覆いたくなる思いに囚われた。同時に、リュゼの言葉にーー心の叫びに激しく同意した。


「嗚呼……嗚呼、全くその通りだな……」


 ーーだからもう自分を傷つけるのを止めろ、リュゼ。


 グラス片手にハハハハハと笑い続けるリュゼに、ナイルは静かに溢した。壊れたように笑い続ける青年を諭すかのように……。



 ※※※



「落ち着いたか?」

「ん……ぁあ……」


 漸くリュゼが空笑いを止め、力尽きたように机に突っ伏したのを見計らってナイルは静かに語り出した。ほんの少し開けられた窓から夜風が吹き込み、リュゼの柔らかな髪を揺らす。


「アーリア様とリュゼ殿。貴方たち二人は、ただの主従ーー主君と騎士の関係とは違うようだな」


 それはリュゼが王都へ召還される少し前のこと。魔女は日課のように『東の塔』へ通い、広い塔内を細々と掃除をしたり整理をしたり術の経過を見ながら過ごしていたのだが、朝方は元気にしていた魔女が昼になって急に体調を崩した事があった。塔内で倒れた魔女をリュゼが見つけ、腕に抱いて塔外へと出てきた姿に、ナイルは釘付けにされた。


『ごめんね、気づくのが遅れて』

『ご、め……』

『何謝ってんのさ。ほら、少し揺れるよ。よっと……』

『どこ……』

『アリス先生んトコ』

『リュ……』

『大丈夫だよ、どこにも行かない。ここにいるよ』


 魔女を真綿で包むように腕に抱え込み優しく微笑む護衛騎士。護衛騎士の腕内に身体を預けて胸に顔を埋める魔女。完全に信頼し切ったその姿にナイルは目を奪われた。


「アーリア様はリュゼ殿の事をを心から信頼しておられた。だがそれは騎士としてではない。一人の男としてだ」


 濡らしたタオルを顔に押しつけていたリュゼは薄目を開けて、自身を見下ろしてくる先輩騎士に向けて「元来からの騎士じゃないからね、僕は」と呟いた。


「リュゼ殿は、アーリア様の為に騎士に?」

「……僕は彼女の側にいる為だけに専属護衛の任務を引き受けた。護衛騎士はその延長だよ。だって、僕はアーリアの側にいられるなら、どんな立場でも良かったんだから……」


 リュゼはナイルの問いにタオルから顔を離さずに答えた。リュゼはアーリアの事を『魔女』と呼び、『彼女』と呼ぶ。まるでその名を口にする事を自ら禁じているかのように。ナイルはその事を疑問視しつつも不用意に触れてはいかない。


「俺の目にはリュゼ殿が騎士以外に見えた事がない」


 そこらの騎士よりもずっと騎士らしい、とナイルはリュゼに判を押した。しかし、高評価を受けたリュゼはタオルを持った手をプラプラと振ると、やはり反論を口にした。


「節穴だね、先輩の目は。僕はそれほどデキタ人間じゃないよ」

「そうだろうか?」

「そうだよ。僕はナイル先輩みたいに品行方正じゃないし。それどころか、どちらかと言えばクビにされた不良騎士寄りだよ」

「俺もそれほど出来た人間ではないが……」

「ウソウソ。それこそ謙遜ってやつだよ」


 ハァと溜息を吐くと、リュゼは顔から濡れたタオルを離した。火照った顔が幾ばくか落ち着いている。狂気に満ちていた瞳の輝きも薄れている。


「ナイル先輩は貴族ーーそれも侯爵家の出だよね。貴方は幼い頃から英才教育を受けた生粋の貴族、エリート集団に属する騎士だ。騎士道精神だってバッチリじゃないか。そんなお人と僕とでは比べようがない。天と地ほどの差があるんだから」


 ナイルは貴族である事を殊更執着している訳でも貴族だと選民意識を持つ訳でもないが、生まれた時より貴族として生きてきた事実は自分を形成する上でなくてはならない要素だという事は分かっていた。商人に偽装し平民に紛れて生活している今も、時折、貴族と平民との差異に驚かされる事があるのも確か。特に価値観の差が最も多かった。

 だが、その差異はほんの些細なものであったし、価値観が違うからと差別的な目で見た事もなかった。だからこそ、ナイルはこの時、リュゼの言葉に見えぬトゲを感じ、胸に小さな痛みを覚えてならなかった。


「ナイル先輩。先輩がどんな噂を聞いたのか知らないけど、きっと、そのどれもが正解だと思うよ。本来なら僕が騎士にーー貴族の仲間入りする事なんて、有り得ない。それは魔女姫と呼ばれる彼女も同じなんだよ」

「そんな事はっ!」

「事実なんだ。こんな言い方するとアレだけど……先輩はちょっと夢見がちだよね?僕らはそんなに品行方正な人間じゃないし、先輩が羨むほど美しい関係でもない」


 共依存。依存し合っている。傷を舐め合っている。心の隙間を埋め合っている。魔女かのじょ護衛騎士じぶんとはそのような関係だ、とリュゼは心の中で呟いた。

 リュゼはナイルからーー騎士団の騎士たちから感じる視線から、彼らが自分たちの関係を羨んでいるのではないかと勘ぐっていた。あるじである魔女をただ一人の騎士が独り占めしている、寵愛を独占している、と……。確かに魔女と専属の護衛騎士とは、互いに互いを大切に想い合っていた。けれど、想い合いながらも互いに干渉し合わない二人の関係は、どこか歪であったのではないだろうか。本当に信頼し合う関係にあったのなら、今頃リュゼはーーそして魔女も、このような国には来ていないからだ。


「先輩も彼女から聞いた事があるでしょ?彼女が『給料分だけ働く』って言ってたこと」

「ああ。だが、それは当たり前の事では……?」

「先輩。ソレ、本気で言ってるの?」


 ツーーとリュゼの視線が上がり、ナイルの視線と合わさった。リュゼの氷のように冷えた視線がナイルの胸を貫く。


「仕事があって給料が貰える。それを『当たり前』だと思えるんだ?」

「っ……」

「僕らはね、そんな『当たり前』が『当たり前ではない』コトを知っているんだよ」


 リュゼはタオルを机の上に置くと、椅子から重い腰を上げる。そしてそのまま窓際まで近づくと窓枠に手をかけて、そっと窓を押し開いた。サァァと爽やかな夜風が室内へ吹き込めば、立ち篭っていた酒気が夜風と共に吹き流されていく。


「僕らは寝る処も食べる物も与えられない苦痛を知っている。人間としての尊厳を与えられぬまま人間以下の扱いを受ける苦痛もね……」


 だから当たり前だとは思わないと語るリュゼ。リュゼは決して不幸自慢をする為に、このような事を話した訳ではなかった。魔女がナイルに誤解されたままである事に嫌気が射したからこそ話したのだ。

 そしてナイルは即座にリュゼの言わんとする言葉の意味に気づいた。だからこそ、背を向けて語るリュゼの言葉に否定の声を挙げなかった。


「騎士道精神なんてさ、きっと僕には一生分からないだろうね。だって、僕の唯一は彼女であって国でも王様でもない。ぶっちゃけ、国が滅ぼうが王家が滅亡しようが構わない。彼女さえ無事であれば、後の事はどうなろうと知った事じゃないんだよ。ーー先輩は僕の事を不敬罪だと思う?僕を突き出してみる?」


 振り向いたリュゼの表情には先ほどまでの無秩序な感情の波はない。寧ろ、熱を感じさせぬ無表情がそこにあった。


「先輩は彼女の事を『慈悲深き魔女』だって思ってる節があるけど、ソレ、間違いだから。そんな不確かなイメージを持って仕えているんなら、速攻すぐに辞めた方が良いよ。夢が砕かれる前にさ」


 辛辣を極めるリュゼの忠告。身分も地位も高い者に対する無礼さを、ナイルは咎めなかった。

 ナイルは詰めていた息をフッと吐くと「貴方はそれ程までにアーリア様のことを……」と呟いた。するとリュゼはフワリと微笑んだ。


「彼女が行くと言うなら何処でも行くよ。地の果てでもね。ーー彼女は僕の光だから」


 微笑んでいるのに何処か痛々しい笑顔に、ナイルの胸は締め付けられた。

 ナイルは椅子を軋ませながら立ち上がると、窓際に立つリュゼに正面から向き合った。そしてグッと拳を握り込むと顎を強く引いた。


「リュゼ殿、見くびらないで貰おうか。どんな事実を知ったところで俺は貴方たちを卑下したりしない。まして、自ら捧げた剣を降ろす事など、有り得ない」


 真剣な表情で行ったナイルの宣誓に、リュゼは不遜にも顎をしゃくると、「そ?一応、聞いておくよ」と軽く流す。すると、大概の事は受け流せる自信をもつナイルも、リュゼのその態度には流石にカチンときたのだろう。鼻頭をギュッと寄せた。


「信じられないのか?」

「うん。基本的に自分しか信じてないんだよねぇ」

「全くッ!あるじが主なら騎士も騎士だな⁉︎」

「な⁉︎ ひっどぉ」

「酷くはない。天邪鬼とはお前の事を言うんだ、リュゼ。ーー辛いなら辛いと言え」

「っーー!」


 ナイルは義弟リュゼの後頭部に手を置くとぐっと自身の肩へと引き寄せた。リュゼは義兄ナイルの肩に顔を埋めながら義兄の言葉と行動にハッと息を飲んだ。


「お前はひとりではない」


 神殿への侵入を試みたリンクより『魔女が記憶を失っているのではないか』と報告を受けたのは、つい数時間前。リンクは見事、深窓の姫巫女と無事接触を果たす事ができた。その姫巫女こそ、探し人である魔女が巫女へ扮した姿であったのだ。

 リュゼとナイルとは探し求めた魔女あるじが生きていて良かったと心底思う反面、《記録》の魔宝具により映し出されたの魔女の姿、その言動には驚愕を隠し得なかった。


「どうしよう?俺のことも、忘れて、いたら……」


 己の生命よりも『大切な女性ひと』に自分の存在を忘れられる恐怖がリュゼを包む。『お前の事など知らない』と突き放されたら、『一緒には帰れない』と言われたら、そう考えるだけで身体中の血液が冷えていく。

 リンクの持ち帰った《記録》を見ただけでは、魔女の記憶喪失が事故によるものか呪いによるものか分からない。一時的に喪失したものか、永遠に喪失したままなのかも。

 遠く離れていた間魔女がどのような目に遭っていたのか、その身に何が起こったのかは分からない。

 勿論、その間魔女の無事を祈らぬ日はなかった。生きていただけでも良かったと喜ばねばならないのだが、記憶を失っているという現実はリュゼのーーそしてナイルの心を揺さぶって仕方がなかった。


「リュゼ、大丈夫だ」

「何の根拠があって……!」


 掠れた声が肩口から聞こえ、ナイルはリュゼの後頭部をぐしゃぐしゃに掻き混ぜる。まるで苦悩に苦しむ弟を励ます兄のように……。


「アーリア様が大切な騎士のーーリュゼの事を忘れたままになさる訳がないじゃないか」

「……それって、僕だけじゃなくて先輩の事も入ってるでしょ?」

「当たり前だ!大切なあるじを求めて敵国ライザタニアのーーそれも、王都こんなところまで来たんだ。俺だって少しぐらい報われても良いとは思わないか?」

「ダメ。彼女は俺のだから……」

「ハッ!ワガママな義弟おとうとだな、お前は」


 額からジンワリとナイルの温かな体温を感じて、リュゼは己の冷えた身体がーー精神こころをもジンワリと暖かくなっていくのを感じた。固まっていたゆっくりと心が溶かされて、中から柔らかな心がーー剥き出しの心が出てくる。その心には、これまで誰にも吐露してこなかった弱音が詰められていた。


「大丈夫だ。お前の大切な魔女あるじを信じろ」


 ーー誰よりも強い絆を持っているのだから。


 義兄にぐっと力強く抱かれた頭。義兄の温かな体温に、気持ちに、想いに、リュゼの涙腺は儚くなった。これ以上醜態を晒すまい、と思わず流れそうになった涙を堪えながら、ナイルの肩口に顔を埋めながら何度も何度も大切な魔女の名前を呟いた。



お読み頂きましてありがとうございます!

ブックマーク登録、感想、評価等々、感謝です!


『酒に呑まれたい夜もある』をお送りしました。

誰に弱音を吐く事のないリュゼの本音を引き出したナイル。生真面目騎士のお兄ちゃん気質は生来の物のようです。


次話も是非ご覧ください(*'▽'*)


※※※


「どどどーしたんだ⁉︎」

「大丈夫、酒に酔い潰れただけだ」

「ハァ⁉︎ 師匠はザルだと思ってたんだけど……って、くっさ!どんだけ飲んだんだよ⁉︎」

「いや、リュゼはそれほど強くはないだろう?」

「……ヤバイ。ナイルの兄ちゃんはウワバミだった」

「リュゼは今日一日休ませる。お前たちも今日はゆっくり過ごすと良い」

「了解。あ、ナイルの兄ちゃんはどうすんの?」

「ああ、俺は部屋で飲み直してくる」

「…………」

「そんな目で見てくれるな。たまには酒に呑まれたい日もあるさ、なぁリュゼ?」


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