旅の始まり
『お師さまーー!』
喉を空気で震わすことができても、音が声となって出てこなかった。まばゆい光に包まれながら、アーリアは師匠によって魔術で《転移》させられたのだと気がついた。
光が消えた後、アーリア目を開き周りの状況を確かめる。するとそこはアーリアにとって大変見知った場所だった。
使いさしの紙や工具、作りかけの魔宝具、食べかけのクッキーなど……。ここはアーリアが住んでいる隣町のアパート、その一室だった。
「っーー!」
アーリアは痺れる身体を無理に起こさず、そのままごろりと床に寝転がった。
(ど、どうしよう……?お師様を置いて自分だけこんな所に……)
師匠も無事逃げられただろうか。怪我などしていないだろうか。アーリアの心は敬愛する師匠の心配で、忽ちいっぱいになった。
あの男の狙いは師匠が持つ魔宝具ーーいや魔宝石と言っていたから、通常の魔宝具とは違うのだろう。ただ、魔宝具の中には魔法を込めた宝石もある。その事を指しているのだろうか。
アーリアは痺れが治る短い間にそのよううな考えを巡らせていた。すると、混乱していた頭も徐々に冴えてくる。
師匠は他者に狙われるほどの価値ある魔宝石を持ってーーいや、創っていたのだろうか。と、そこまでアーリアは考えて、ふとある事に思い至った。
(もしかしてお師さま、あの男の事を知っていた……?)
アーリアに呪いをかけた黒ローブの男は、師匠から『バルド』と呼ばれていた。『バルド』。その名をアーリアはどこかで聞いた事があるような気がするのだが、ハッキリとは思い出せそうになかった。
(え……そもそも、私の行動が事態をややこしくしたのかも……?)
アーリアの行動はいつも空回り。師匠からも兄弟子たちからも『鈍臭い』と言われ続けていた。身に覚えがある事はこれまでも沢山あった。
「ぅ……」
身体の痺れが完全に治まったアーリアは身体をゆっくりと起こした。チャリッと細い鎖が音を立てる。首元から垂れ下がったそれはの先には、窓からの陽の光を反射して光る青い宝石が煌めいた。それを見たアーリアの血の気が、サァッと音を立てるように脳天から爪先へと血引いていった。
(お師様は「一生懸命、逃げるんだよ?」って……。それで、私にこの魔宝具を私に……。あ、あれ?これって……⁇)
もしかして、いや、もしかしなくとも、自分が囮にされたのではないか?アーリアの身体の隅々まで嫌な予感が駆け廻る。心なしか激しい動悸もした。
その後のアーリアの行動は実に早かった。
アーリアは急いで荷物を鞄に詰め始めた。何が必要で何が必要でないのかなど後で考えることにして、必要に思える物を片っ端から詰め込んだのだ。
アーリアはこれまでの人生、一人旅などした事がなかった。だから、旅には何が必要なのかなど判然としなかったのだ。下着、着替え、タオル、薬、そして魔宝具の数々。ペンとノート、お菓子と胃薬……と、めちゃくちゃに詰め込む内、アーリアは一番大切な事に思い至った。
(あっ……⁉︎ 魔法は?)
アーリアは声が出ないことを思い出し、慌てて言の葉を唱えた。
『ー水よ来たれー』
精霊の力を借りて魔法を紡ぐ。声は空を切り、呪文が唱えられなかった。魔法を発動させるのに必要な魔力を使ったのだが、それは不発に終わってしまった。
アーリアは事態の深刻さに一瞬、喉に息が詰まってしまった。唾を一つ飲み込むと、気を取り直してもう一つの術を試す事にした。
(じゃあ、魔術は……)
『《恵の水》』
アーリアは精霊の四大思想を組み込んだ術式を構成し魔術を発動させたが、やはり言葉は呪文を紡ぐ事はできず、手の中から清水は生まれなかった。
(ヤ……ヤバイヤバイヤバイヤバイ‼︎ 魔法や魔術の使えない私なんて、一般人以下だよね⁉︎ 今時一般人でも生活魔法くらいは使えるのに……! それに私には体力もないし、体術もダメ、剣術もダメなんて、どうやって逃げればいいの……⁉︎)
そもそも逃げるだけでは何の解決にもならない。なのに、今はとりあえず逃げるしか道はないのだ。
アーリアの住むこの家は、師匠の館があるラスティからは隣街に位置するが、男たちの脚に掛かればアッという間に追いつかれる距離しかない。しかも、あの男、バルドはどうもアーリアの事を知っている素ぶりがあったのだ。
バルドはアーリアのことを見て『東の魔女』と言い切った。
『東の魔女』とはアーリアの名称の一つだった。アーリアはこの名称で呼ばれる事が好きではなかった。だけど、自分でつけて触れ回った訳ではないその名称は、自身の持つ容姿と共に知る人ぞ知るものになっていた。
しかも『白い髪の魔女』など、聞き回れば街の住人にはすぐ身元がバレるに違いない。街中で聞いてまわれば即座にこの場所を捜し当てられるのは、時間の問題だったのだ。
(そうだ!魔宝具に頼ろうっ!)
水色の宝玉の中央に魔法陣が込められた魔宝具を掌に握ると、アーリアは魔力を込め始めた。すると握り込んだ指の隙間から水が溢れ出したのだ。
(よし。魔宝具は何とか使える!良かったぁ〜〜!)
そもそも『魔宝具』とは魔法や魔術の使えない一般市民の生活を豊かにする為に、魔導士によって生み出されたのがその歴史の始まりだ。魔導士によって魔宝具そのものに魔術が込められていて、そこに一定数の魔力を流せば発動するという単純な造りだ。呪文なんてモノが必要ないのだ。子どもや老人でも楽に使えるのが最大の利点だ。
その為、アーリアは『声の出ない今の自分でも使える筈』と思い使ってみれば、案の定、使う事ができたのだ。
(コレが使えなかったら、どうしようかと思った)
アーリアはちょっと泣きそうになってしまった。
俯くと涙が流れそうになる。落ち込む気持ちを少しでも上向かそうと、アーリアは敢えて上を向くとスンと一つ鼻を鳴らした。そして使えそうな魔宝具を根こそぎ鞄に詰めだした。
この鞄も魔宝具の一種で、中の空間が広くなっているので見た目の許容量よりもずっと多く入る。しかも鞄の側面に1つずつ、計2個の《重力軽減》の魔宝具が嵌めてあって、いくら詰めても軽いままなのだ。
この鞄も安価ではなく、誰もが所有できる訳ではない。実際、これは師匠からの貰い物だった。
(食料はどうしようか)
アーリアは部屋中を見渡した。アーリアは師匠の館からの帰りに市場へ寄って食材を買って帰ろうと思っていたので、部屋には菓子パンとクッキーくらいしか食べ物は残っていなかった。アーリアは仕方なく、その2つを鞄の中へ入れた。
厨房の水回りの点検をしてから、アーリアは触られたくない棚に片っ端から鍵をかけて回った。鍵も特別仕様の魔宝具だ。鍵をかけた者にしか開く事はできない。
次にペンを取って、手近な用紙に『しばらく留守にします。ご用の方は郵便受けにご用件を書いた紙を入れ置いてください』と書き、それを扉の正面に貼ると鍵穴に《鍵》を差し込んだみ、《鍵》の魔宝具に魔力を込めながら心の中で言の葉を唱えた。
『この扉、何人たりと開けるべからず!』
カチャリと渇いた音を立てて《鍵》の魔宝具は魔術を発動させた。これでアーリア以外の者には、この扉を開けることはできなくなった。
うんうんと満足そうに頷くと、アーリアは家の門から顔をそっと出した。そして辺りをキョロキョロと見渡し追手のいない事を確認すると、門から出て大通りへと歩き出した。
※※※※※※※※
アーリアは門から出ると塀沿いを慎重に歩いた。時折辺りを見渡して追手の有無を確かめた。
住宅街は人通りの少ない場所だが、一本道を出ると表の商業通りに出ることができる。
アーリアはマントのフードを目深にかぶり直しすと商業通りへ小走りで出ていく。少し、いや、かなりドキドキしていたが、通りは至って普通の風景が広がっていて、不審な格好をした男も怪しい獣人たちもいはしなかった。
(師匠の事は心配だけど、とりあえず自分の身を守らなきゃ。師匠なら、のらりくらりと躱すことができそうだし……)
やっぱり自分の行動は無駄どころか、邪魔だったのでは⁉︎ ーー今自分の置かれた状況は全て一人空回りの末の行動だと思うと、アーリアの気は落ち込んでいくのだった。気を抜くと通りの真ん中で茫然と立ち竦みそうにもなった。
(ぐすん……)
何度も立ち止まりながら通りを歩き、角を左手に折れた。そして暫く歩くと、アーリアはいつもお世話になっている八百屋の前で立ち止まった。
「どうしたの、アーリアちゃん。買い出し?」
八百屋の小母さんがアーリアに笑顔を向けてきた。それにアーリアはにっこり笑って頷くとそっと林檎を指差した。
「林檎ね?いくつにする?」
アーリアは指で4を作り、小母さんに示す。
「4個ね?銅貨2枚よ」
アーリアは小銭を財布からお金を取り出すと、それを小母さんの手の上に乗せた。小母さんは喋らぬアーリアに首を傾げると、小銭を受け取りながら理由を聞いてきた。
「今日はどうしたの?いつもより静かじゃないか?なんだか顔色も良くないし……。もしかしてどこか具合でも悪いのかい?」
やはり喋らぬ事に不審に思われてしまったアーリアは、小さな苦笑を浮かべながら指で喉を指し示した。
「あぁ、喉をやられたのかい?夏風邪?あらまぁ、そうなの……?じゃあ、林檎もう一つオマケしておくから、今日は家でゆっくり休みなよ!」
アーリアはぺこりと頭を下げるとその場を後にした。
案外、声がなくてもうまくやり過ごせた。だけど、やはり話さない事は不審には思われる事は確実であった。
アーリアは同じ段取りでパン屋、薬屋、金物屋、魔宝具屋と廻ったが、ある程度はジェスチャーのみでも意図が通じる事、ある程度を超えると通じない事が分かった。あからさまに不審に思われた場合は、話さぬ事情を『風邪で声が出ない』という事にした。また意図を正しく伝えたい場合は、ノートとペンでの筆談が必要になった。
ーヒヒィンー
買い物を終えると『乗り合い馬車』の乗り場へと向かった。乗り合い馬車の発着場で時刻表を見ると、あと30分で隣街へ行く馬車が出る事が分かった。
アーリアはカウンターまで行くと、そこでチケットを買った。ここでも筆談が必要になった。
筆談というこの方法は何回も繰り返すと変に目立つような気がするなぁ、とアーリアは思いと共に頭を巡らせた。女の一人旅自体が目立つのだから、これからはもっと様々な事柄に気をつける必要があるとも考えた。
「王都行きはこちらです。もう間も無く発車します」
乗り合い馬車は荷台の左右に長椅子が据え付けられており、6人ずつ座れる造りとなっていた。長椅子には人数分のクッションが置いてあった。屋根は鞣し革が張られており、少々の雨風でも運行ができる様だ。
野党対策として、一台の馬車に一人から二人の護衛が付くのが慣例で、通常、馬車は三台連なって隣街を目指すという。
隣街まで徒歩で行けば4時間弱、馬車で2時間ほどの距離を要する。道中には小さな村がいくつか点在しているらしい。
「はい。確認しました」
チケットを御者に見せると、アーリアは子ども連れの夫婦の次に、馬車へと乗り込んだ。




