泣いたら眠くなるのは仕方ない2
「これはどう言う事だ?」
突如、背後から齎されたその声。腹の奥底に響く重低音に、セイの身体は一瞬にして凍りついた。
特殊工作部隊の一員であり、亜人でもあるセイの背後を取れる人物など滅多にいない。それこそ限られた人物だけなのだ。ギクリと首を竦めたままギギギと壊れたブリキの玩具のように巡らせば、其処には予想された人物が鬼の形相で立っていた。
「ゲッ!隊長……⁉︎ これには深〜〜いワケが……」
本能から身の危険を察したセイは思わず後退りしそうになった身体に待ったをかけた。『マジヤバイ、早く逃げろ』と本能は告げているのだが、この状況で逃げても何もならないと理性が告げている。逃げるか止まるか、天秤の針が右へ左へと揺れ動く。
だが、セイの思考時間そのものは一秒にも満たず、無情にも判決の時は訪れた。人でも殺してきた後ではないか?と思えるほど恐ろしい形相をした男ーー隊長レオニードは後ろ手で扉を閉めると、七面相している部下セイに真正面に向き合ったのだ。
ーあ、終わったー
パタンと閉められた扉を横目に、セイはその背に冷や汗を流した。自然と乾いて行く舌の根。下がる体温。アともウとも言えずに開閉する唇。その全てがセイの中に生まれた焦燥感の現れだった。
諦めの境地とは正にこの事。人間と竜族との間に生を受け、産まれ出てからおよそ百三十年。これまでの人生で人間相手に負けなしを誇ってきたセイだが、未だ眼前の男ーー隊長レオニードには勝てた試しがない。しかも、亜人として年若い方だとされるセイからすれば、古参亜人である隊長の生きてきた過程は正に未知としか言い表せなかった。
「あ……隊長、これは……」
言い訳をしようにも状況はそれを許さない。上官レオニードは鋭い眼光一つで部下セイを黙らせると、ツカツカと部下のーーというよりも、部下の胸に抱きこまれている少女の方へと歩みを進めた。
「状況は?」
「夜襲より脱却した際の、疲労により……その、眠ってしまって……」
セイの胸中に抱き込まれた少女はシスティナより拉致した『塔の魔女』であった。名をアーリア。その月明かりのような白い髪が特徴的だ。
レオニードはぐったりと意識のない少女の顔を凝視するなり、その眉間のシワを更に深くした。
少女の目蓋は腫れぼったく、白い頬には涙の跡。明らかに泣き腫らした顔がそこにある。これではセイがいくら『何もなかった』などと言った所で、到底信じては貰えまい。そう悟った本人は絨毯の上にアーリアをそっと横たえると、眼光鋭い隊長へと向き直った。
「スミマセン!」
腰を直角に曲げ、頸が見えるまで頭を下げる部下。観念して「俺が泣かせました!」と白状する部下に向ける上官の視線は冷え冷えとしている。
「ーーで?」
「ハ?」
隊長は横たえられたアーリアの赤く腫れぼったい目蓋にそっと指を這わした。乾き切っていない目蓋に指を触れた途端、生暖かい水滴が親指についた。その水滴に目線を向けていた隊長は、頭を下げたまま固まっている部下に対し言葉を投げかけた。
隊長から何を問われたのか理解できなかったセイは口をポカンと開け、擡げていた顔を上げた。元来、表情を動かす事のない上官の内心をその顔色を見て判断する事など難しい。また、口数も少なく、部下に対して指示を出す時でさえ必要最低限の言葉に留められている。馴れ合いを嫌い人付き合い自体を好まぬ上官が、どのようにして将軍という地位にまで着くに至ったのか、それはライザタニア軍の七不思議の一つであった。それでも、上官が閣下と呼ばれるだけの才覚と指導力を持っている事は確かであって、セイはそんな上官を心から尊敬している事もまた確かであった。
「保護対象に八つ当たり、か……職務違反、いや、職務放棄か?」
「ぐっーー申し訳、ございません」
反論など許されぬ辛辣な言葉にセイは顔を歪めた。すると、対するレオニードは反射的に謝罪する部下に対し、更に幾つかの設問を行った。
「貴様の所属は?」
ハッ!と声を上げたセイは姿勢を正すと胸に手を当て、はっきりとした口調で返答した。
「第九師団所属、特殊工作部隊『月影』」
「貴様の任務は?」
「システィナ内への侵入、裏工作、『塔の魔女』の拉致及び保護、護送警護であります」
「貴様の役割は?」
「魔女の保護を命じられております」
詰問に対して淀みなく答える部下。その答えに一つ顎を下げて認証すると、上官は口角を僅かに上げた。その微笑とも呼べぬ表情。それは明らかに嘲笑であった。
「ほう……?では、貴様は『己の成すべき仕事を理解していた』と判じてよいな?」
「それは……」
「ならば、貴様は『保護対象に必要以上に接触し、剰え精神的に追い詰める事は成すべき仕事ではない』という事も、理解できていたのだな?」
「ッーー!」
上官の言葉はまるで、セイとアーリアとの遣り取りを見ていたかのようなであり、セイは上官からの多分な刺を含む叱責に息を飲んで押し黙るしかなかった。
「頭を冷やして来い」
「……。了解、しました」
言い捨てる上官。命令に了承し、迷わず山小屋から出て行く部下。部下の背後頭を見送る上官の顔には何とも言えぬ苦いモノが広がっていた。
※※※
レオニードは絨毯の上に横わるアーリアへと近づいた。そして、手を伸ばせば届く所に腰掛ければ、板がギシリと鈍い音を立てた。
レオニードは長いローブから右手を出すとアーリアの濡れた頬にそっと手を置いた。そのまま親指で目蓋の上をなぞる。しっとりと濡れたまつ毛。赤く腫れた目蓋が痛々しい。額に張り付く前髪を梳き、横髪をスルリスルリと梳き下ろすと耳の後ろへと流した。
「部下が迷惑をかけた」
システィナより拉致して以降、少女を泣かせてばかりいる事に、流石の隊長レオニードも溜息が出る思いだった。
ライザタニア国軍ではしばしば鬼将軍と呼称されるレオニードは主命に忠実な模範的軍人であった。軍規と軍律を重んじ、無用の戦いを好まぬ姿勢は他者からの評価も高い。軍内に於いても他者から一目も二目も置かれており、特に同族相手にも容赦が無い事は、畏怖の対象である亜人部隊の評価を上げた。だが、軍人としては厳しい人間だとはいえ、レオニードには女性を無闇に泣かせる趣味などない。人を寄せつけぬ雰囲気から誤解を招く事は多々ある。だからと云って、主命を受けて拉致した要人に無体を働く事などあり得ないのだ。
しかも、特殊部隊を率いてまで拉致した魔女はレオニードにとっては『命の恩人』でもあった。潜入調査の途中、マヌケにも罠にハマってしまった所を魔女に救われた経緯を持つ。その後は潜入も兼ね、魔女の飼犬として二月近く過ごしたというオマケつき。犬らしからぬ巨大から異質に思われる事も体罰を受けた事もなく、主人である魔女からは至って普通にーーいや、かなり愛情深く飼われていた愛犬レオニードは、魔女の事を『良き飼い主』とまで認定していたのは極秘事項である。
にも関わらず、魔女アーリアを騙し襲い攫った自分たちは何と外道であろうか。例え魔女が『敵国の憎き魔女』であろうとも、やって良い事と悪い事があるだろう。ーーそう、レオニードは何度考えたか知れない。
だが。部隊の長たる者がそのような個人的な想いを部下の前で晒して良い訳がない。
「『嘘をつかぬ事』。それが私に出来る最大限の謝辞だ……」
魔女から尋ねられる事には可能な限り嘘偽りなく話す。そう、レオニードは決めていた。それが自分にできる最大限の償いであるとして……。
レオニードがギコチナイ手付きで魔女の髪を梳き頭を撫でていると、アーリアの肩がブルリと震えた。
レオニードはぐるりと部屋の中を見渡した後、徐に立ち上がるとストーブに薪を焚べ火をつけた。そして火がゆっくりと燻るのを見届けてからアーリアの元へ戻ると、手足を曲げて縮こまるアーリアの身体に己のローブを脱いで被せた。そして、そのままパチパチと爆ぜる火を眺め、時折、グズグスと鼻を鳴らして眠る少女の様子に視線を戻すを繰り返していた。
「う……りゅ……」
「……⁇」
幼子のように眠る少女が、突如魘されたかのように声を上げる。レオニードは何事かとアーリアの口元に耳を傾けた。その時……
「れお……」
ガバッとレオニードの首に少女が抱きついてきた。
「ーー⁉︎」
息を飲むレオニード。アーリア程度の力ではどんなに力を込められようが押し倒される事などまずない。だからといって、自分の首に縋り抱きついてくる少女を跳ね除ける訳にも行かず、手を床について前のめりに屈むしか対処のしようがなかった。
「ーー!お、おい……?」
首筋に頭を押し付けてくる少女に、鉄仮面を持つレオニードも流石に慌てた。しかし、無理矢理引き離すのは躊躇われ、両手で身体を支えるに留まった。
「どうした?とこか具合でも……」
レオニードは片手で自身の身体とアーリアの身体、その双方を支えると、垂れ落ちた髪を耳へとかける。
「れお……モフモフ……」
「……ハ?」
「あったかい……」
「……。」
少女はそう呟くなりレオニードの首に回した手から力を抜いた。すると少女の身体はそのままズルリと滑り落ちていく。自分の膝の上を枕に定め睡眠の海へと沈んでいった少女の顔をとっくりと眺めたレオニードは、はぁぁぁと深い溜息を吐いた。
「寝言、か……」
レオニードは少女を自分の膝から下そうとした。しかし、それは安易な事ではなかった。少女は自分の上着を持って離さなかったのだ。
暫くの間考えた末、レオニードは「仕方ない」ポツリと一言呟くと目をスッと閉じた。
ーゆらりー
レオニードの身体がゆらゆらと揺らめき始めた。まるで手品師や道化師の演目のように黒い煙幕に包まれていく。黒いモヤは生き物のような動きを見せた。だがそれも暫くの事で、やがてそのモヤは収縮し、一つの形を作り出した。
四本の四肢。黒い毛長の体毛。ピクピクと周囲を警戒して動く三角の耳。普通の個体よりもやや大きな躰ではあるが、見た目だけは『犬』と呼べなくもない。
ーのそりー
黒犬は少女を潰さぬように動くと、冬場の猫のように小さく丸まる少女の肢体を包み込むように寝そべった。
『お前はもう少し貞操観念を持つべきだ』
アルカードで過ごしていた時のように、黒犬の身体へスルリと身体を寄せてくる少女に、黒犬は呆れたように言葉をかけた。しかし、渋い表情も束の間、先ほどよりも幾分か穏やかな表情で眠りについた少女を見た時、黒犬は『仕方ない』と再度自分に言い聞かせると、まるで子犬を温める親犬のように少女を抱き込んで目を閉じた。
それから数刻が過ぎた頃、頭をビシャビシャに濡らして帰ってきた部下ーー頭を冷やして来いと命じられ、本当に湖に頭を突っ込んで冷やして来たらしいーーに、『隊長、ソレってズルくないですか?』と問われた時、上官は部下を噛み殺さん勢いで睨み返したという出来事は、故に、上官による部下の躾が出来ていない所為である。
※※※
陽が沈む頃に目を覚ましたアーリアは、自分を包み込む温かな温もりにウッカリ二度寝しかけた。
アルカードでの時のように愛犬の身体に抱きついて微睡んでいた所、その愛犬から『起きたのか?』と問われ、数拍後にドキンと心臓を跳ねさせたのは言うまでもない。更には、今が何処でどういう状況なのかを思い出すと、飛び跳ねるように起きた。
その後、寒空の下、外で待機させられていたセイがついでとばかりに木の実や魚を摂って帰ってきた所でアーリアは完全に目を覚ました。
「アーリアちゃんさぁ……」
「は、はい……」
「貞操観ってのを持ちなよ」
「うっ……ハイ……」
この三人の中で一番持ってなさそうな軽薄男に『貞操観念』について注意を受けるなど、屈辱的でしかなく、しかも全く納得できそうになかった。だが、そう注意を受けるだけの事をしでかした手前言い訳する事も許されず、アーリアはどこか釈然としない胸を摩りながら俯いた。その時……
ーベシッー
黒犬の前脚がセイの後頭部をしばいた。
「いってぇ!何をするんですか、隊長⁉︎」
『貴様が言える事か?馬鹿者』
その通りだ、とアーリアは黒犬に化けているレオニードの言葉に大きく頷いた。
『貴様の何処に『貞操観念』などあるのか、教えて貰いたいものだな』
「ちょーーその言い方、酷くないですか?」
『何処が酷いと言うのか?私がシスティナでの貴様の生活態度を知らぬとでも思っているのか?』
「ぐっ!」
『随分とハメを外していたようだな?セイ』
黒犬に背中から馬乗りにされたセイは、地べたに頬を擦り付けながら呻いた。
『しかも手を出していたのは成人したての若い女ばかりとも聞いたが……』
「〜〜っ!何でッ、隊長がそんな事を知って……」
二人の会話からアーリアのセイを見る目がどんどん冷たくなっていく。「さいてー」とポツリと呟くとフィっと顔を逸らした。
『お前が何処で何をしていようが構わん。がしかし、女性に対してもう少し『誠実』であった方が良いのではないか?』
「……。仰る通りでございます」
ぐうの音も出ない。苦い表情で今度こそ観念したセイは、大きな黒犬に押し潰されながら項垂れた。
セイが言い訳を止め、やっと黙ったのを見計らい、黒犬はセイの背中からヒョイと降りた。するとセイは腰を押さえながらヨロヨロと立ち上がった。
「アーリアちゃん、顔でも洗ってくる?外に井戸があるよ」
まだ思考がハッキリしないアーリアはセイの提案に小さく頷くと、床の間の下に揃えて置いてあった靴を履いて立ち上がった。
「便所はそこを出て右手にあるから。ーーああ、見張りについて行ったりしないから、逃げようなんて考えないでね?」
一応、気を遣われているのだろう。セイの言葉をそのように受け取ったアーリアは、苦笑しながら頷くとヒラヒラと手を振るセイを横目に山小屋から外へと出た。
存外、清潔感のある便所と水飲み場を妙に思いながら井戸水で顔を洗った後、アーリアは山小屋には戻らず眼前に広がる湖の畔で佇んでいた。夕陽に照らされて橙色に染まる湖面。山へと戻っていく鳥の群れ。時折聞こえる動物の鳴き声に耳を傾けていた時、背後から声がかけられた。
「外は冷えるぞ」
そう言って、肩越しに振り返るアーリアの肩に己の上着を掛けたのはレオニードだった。
「あ、ありがとう。れ……」
咄嗟に『レオ』と呼びかけたアーリアはハッとしてから口を閉ざした。『レオ』という名はアーリアが勝手につけた愛犬の名であって、眼前の男の本来の名ではない可能性に思い至ったからだ。
唇を軽く噛んで言い淀むアーリアに、レオニードは「ああ」と納得顔で呟くと「レオと呼んで構わない」と言った。アーリアはその言葉にコックリと頷いた。その後、アーリアはレオニードから視線を外すと、また湖へと身体を向けた。
「……。部下が迷惑をかけたな」
夕陽の沈み行く様をぼぉっと眺めていたアーリア。先に沈黙を破ったのはレオニードの方だった。「すまない」と謝罪を口にするレオニードに小さな驚きを覚えながら、アーリアは小さく首を振った。
「謝罪はいりません。セイには『許さない』って言ったから」
「……。そうか」
「うん」
次に驚くのはレオニードの番だった。このようにアーリアが他人に対しての『怒り』を口にするのを初めて聞いたからだ。
「……あの、レオさん」
「レオで良い」
「じゃあ、レオ」
「何だ?」
「教えて欲しい事があるの」
アーリアはスッと背後を振り向くと、レオニードの顔をーー漆黒の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「これから私は、何処へ連れて行かれるの?」
お読み頂きまして、ありがとうございます!
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『泣いたら眠くなるのは仕方ない2』をお送りしました。
敵国人、敵対者など関係なく、レオニードは相対する者を色眼鏡なく評価する術に長けています。
黒犬にとって魔女の評価は誰よりも高いのは、何も、飼い犬として大切にされたから、という理由だけではありません。
次話、アーリアがある決意をします。是非ご覧ください!




