泣いたら眠くなるのは仕方ない1
黒竜は風を切って天空を行く。眼前に広がる鱗雲。鼻腔を擽る清風。水平線に見えるは薄く棚引く紫雲。水平線に沿って真っ直ぐ東へ空を滑る。途端、瞳の中に眩い光が映り込んだ。朝日だ。山々の隙間から太陽が顔を覗かせ始めた。
セイは高揚する精神をどうにか抑えていた。ともすれば、このまま何処までも空を駆けていたい。そんな自由な精神ーー妖精としての精神をどうにか留める為に。
掌の中に意識を向ければ、そこには羽のように軽く柔らかなモノが手足を縮めて蹲っている。最初は元気よく悲鳴を上げていたソレも、暫くすると声もなく黙りこくり、今はもうピクリとも動かない。
ー上空飛行は人間には不向きだなー
セイは事そんな事をボンヤリと考えた。掌の中のソレは妖精族とは違い脆弱な人間なのだ。その魂の輝きこそ妖精族と遜色ないものの、肉体は魂に反して脆い。
ーあぁ、ダメだ。彼女が死んでしまうー
あの麗しの治療士に大切に守るようにと命じられていた事を思い出した黒竜は、ブルリと肩を震わすと地上に向けて下降し始めた。
眼下には蒼青と輝く湖が広がっている。周囲を深き森に囲まれた蒼い湖。黒竜は湖の周囲に魔物が居ない事を目視で確かめるとバサリと翼を羽ばたかせ、緩やかに旋回しながら地面へと降りていった。
※※※
エステル帝国は精霊信仰国家であり、神の遣いとされる精霊を崇めている。信仰の対象は精霊だけに留まらず、精霊の化身であると云われる妖精族についても同様であった。竜族、エルフ族、ドワーフ族等、どの妖精族に対しても等しく敬愛の念を抱いていた。
ライザタニアの民はその大半が妖精族の恩恵を受けていると云われている。大なり小なり、その身には妖精族の血が流れているというのだ。
エステル帝国民の信仰心から云えば、妖精族の血を持つライザタニアの民は帝国民から敬われて然るべき存在である。だが、実際には帝国民はライザタニア国民に対して妖精族に対する様な特別な感情は抱いてはいなかった。寧ろ、エステルとライザタニアとは隣国同士であるにも関わらず深い交流は無く、最低限の付き合いこそあるものの、帝国内では無関心なまでにライザタニアの話題は上がってこない実情があった。
エステル帝国皇太子ユークリウス。彼は次代の帝国皇帝であり、この広大な大陸の半分を収める覇者となる運命にあった。だが、皇太子殿下は帝国にあっては次代皇帝の位階にありながら、不思議と精霊信仰に対してそれ程深い信仰心を持ち合わせてはいなかった。それどころか、帝国では忌避されているシスティナ産の魔宝具ーーその性能をいち早く認め、自身が帝位に着いた暁には、システィナから大量輸入しようと企てている所謂『変わり者』であった。
しかし、皇太子殿下は決して精霊信仰を疎かにしている訳ではない。彼は産まれつき精霊から愛される特別な魂を持っており、精霊を駆使した魔法を扱う事には大変長けていた。勿論、妖精族に対しても、帝国民らしくある程度の尊敬の念を待ち合わせてもいた。だが、そんな皇太子殿下をしても隣国ライザタニアに対しては『野蛮』、『蛮国』、『とても相容れない』と酷評している。そのような感情は何も皇太子殿下だけに留まらず、帝国に住う者たちは皆、大体が似たり寄ったりの感情を有していたのだ。
アーリアは皇太子殿下の偽の婚約者として帝国で過ごした短い期間、ユークリウス殿下本人よりライザタニアに対しての酷評を幾度となく聞かされていた。
ー今ならユリウスの気持ちが良く分かるー
アーリアはこの一晩でライザタニアへの評価を一変させた。高感度のベクトルを大きく移動させたのだ。無論、マイナスの方へと。
アルカードで襲撃者たちに襲われた末に拉致され、何処とも分からぬ場所を目指して馬車に揺られていた七日間。仲間だと思っていた騎士、治療士、料理人……彼らの裏切りを目の前でまざまざと見せつけられた七日間。自分の運命が定まらぬまま猜疑心に苛まれ続けた七日間。
それだけでも十分、精神がすり減っていたにも関わらず、此処に来て、『月影』と呼ばれる彼ら襲撃者とは別の者たちからの夜襲を受けた事によって、アーリアの精神はかなりササクレだっていた。
ー大雑把を通り越して野蛮すぎるよ!ー
本当に信じられない!と激怒するアーリア。しかし身体はその激昂に対して脆く、感情に対して身体が全くついて行かない現状に嘆いた。
喚き倒してやりたい衝動はあれど、どうにもままならない身体。黒竜に獲物宜しく掴まれて、挙句、上空飛行を体験させられたアーリアは、夜明けと共に大地へと下ろされた時、自身の身体に起きた異変に驚愕を覚えた。手足は勿論、膝や肘にも力が入らず、くたりと地面に崩れ落ちてしまったのだ。
「う……」
ガクガクと膝が笑う。産まれたての小鹿のように脚腰に力が入らず、それどころか腕さえもプルプルと震えて上半身すらまともに支える事ができない。
アーリアはドサリと地面に倒れ伏すと浅い呼吸を繰り返した。手足が悴んだように小刻みに震えている。同時に酷い耳鳴りと目眩に襲われ、思わずギュっと目を閉じた。
「大丈夫?」
そこへ何とも呑気な声がかけられた。黒竜から人間へとその肉体を変化させたセイは、地面に倒れ蹲るアーリアとは正反対に溌剌とした表情をしていて、軽い足取りでアーリアの下まで歩みを進めると徐に膝を折った。
「あーあ、やっぱり。アーリアちゃんにはキツかったかァ」
やっちまったーとばかりに頬を掻くセイだが、その表情には反省の色はない。
アーリアは瞑目していた瞳をゆっくりと開けると、不敵な笑みさえ浮かべるセイの顔をキッと睨んだ。だが、そんな細やかな抵抗などセイには通用する筈もなかった。対峙した二人はまるで兎と虎。小動物からの威嚇など肉食獣には全く意味を為さなかったのだ。
セイは小動物からの威嚇を受けて、何故かその顔にうっそりと不敵な微笑を浮かべた。
「アハハ、熱烈な視線だね。焼けちゃいそうだよ」
「……!」
「ハイハイ、ゴメンゴメン。そんな場合じゃなかったね?」
セイはアーリアの身体の隙間に手を入れると強引に抱き上げた。
「これでも反省しているんだよ?」
「どこ、が……!」
「あ、やっぱり。そうは見えないか?ーーまぁ、取り敢えずココじゃなんだから、あそこに見える山小屋まで移動ね?」
アーリアに拒否権などなく、セイはアーリアを横抱きにしたままズンズンと歩き出した。『反省している』と言うのは虚言ではないようで、セイは自身の腕の中にいるアーリアに振動が伝わらないように、と注意を払って移動している。
アーリアは目眩も治まらぬ頭と乗り物酔いのような気分の悪さからぐったりと顔を擡げさせた。セイの胸に顔を押し付け瞑目して、目眩と気持ち悪さからの脱却を図ろうと試みていた。
「ごめん。ちょっと揺れるよ」
暫く瞑目したままだったアーリアの頭の上からセイの声が落ちてきた。するとセイはアーリアを左腕だけで支えると、山小屋の扉を右手で開けた。
山小屋の中は思った以上に広く小綺麗だった。部屋の中央から見て奥には薪のストーブ、左手側には木棚と長机、椅子四脚。部屋の隅には薪が積み上げられている。また右手側を見れば段差があり、その上には毛長の絨毯が引いてある。天幕の時もそうであったが、靴を脱いで絨毯の上で寛ぐのはライザタニアの文化のようだ。
「降ろすよ?」
セイはアーリアを絨毯の上へと座らせると、傾げそうになる身体を背に腕を回して支えた。
「水でも飲む?」
「……飲みたい、けど……?」
何処に水が……とアーリアが部屋の中を見渡す。水瓶がストーブの近くにあるが、いつ汲まれたかも判らぬ水など飲みたくはなかった。そうアーリアが考えた時……
「ー水よー」
その声にアーリアが視線を戻せば、セイの掌の中に水が湧き出し始めていた。魔法だ。セイは両の掌を重ね合わせるとお碗の形を作った。するとその中に並々と清水が満ちていく。
「飲む?」
「……。ここから飲めと……?」
「飲まないの?」
「何か器に……」
「あーもう、面倒だな。良いから飲めって!」
「ーー!」
アーリアが視線を逸らした時、セイは水の張った手を差し出してきた。
「それとも無理矢理飲ませようか?」
そう言われてはにべも無く。アーリアはウッと唸ってからセイの掌の中に湧く水に口をつけた。こくん、こくんと嚥下すると喉は潤っていく。しかし、喉の潤いと共に目頭はキュンっと熱くなっていった。
「えっ……⁉︎ アーリア、ちゃん……⁉︎」
ーパタ、パタタ……ー
セイの膝を濡らしていくその雫は、魔法で生み出した水ではなかった。
「な、んで……?」
「え……?」
「酷いよ。セイは、私に、恨みでもあるの……⁉︎」
一粒の涙を皮切りに止め処なく流れ出した涙。それまで抑えていた感情が、我慢していた想いが、涙と共に堰を切ったかのように溢れ出した。アーリアは震える身体に鞭打ってセイの胸ぐらを思い切り掴むと、髪を振り乱すかのように叫んだ。
「そりゃ、私は『システィナの魔女』だし、セイたちライザタニアの人からすれば、悪魔かも知れない。けど……!」
「ア、アーリア、ちゃん……」
「セイの意地悪!」
セイは何故、自分をこんなに酷い目に遭わせるのだろうか。あの満月の夜、襲撃者たちーーいや、セイには散々痛めつけられた。それから三日三晩痛みと熱に魘され、仲間の裏切りに胸を痛め……挙句、昨夜の夜襲騒ぎでは訳の分からぬまま黒竜に転じたセイに空中遊泳させられた。
納得できない感情がアーリアの中に渦巻く。
元々、竜を爬虫類の一種と分類しているアーリアからすれば、妖精族と分かっていても黒竜となったセイの姿は大変恐ろしいものだったのだ。しかも、黒竜の手ーー鋭い爪は背を切り裂いたソレ。その手に握られていた時の気持ちなど、当人には分からないだろう。
「セイのバカ!無神経!変態っ!」
「ヘンタイ⁉︎」
「信じてたのに。セイのこと、みんなのこと……!」
ーだから馴れ合いは嫌いー
アーリアは心の底から思った。
アーリアは自身が『お人好し』だという事を重々承知していた。更には『押しに弱く』『頼まれれば断り難い性質を持っている』という事も。だからこそ、アーリアは相手をよく知る前にーー馴れ合う前に『断る』のだ。『塔の騎士団』団長からアルカードに留まって欲しいと懇願された時、その当初からハッキリと断っていたのはこの為だった。相手の事を知る前ならば、相手の顔色など窺わなくても済む。相手を知ってしまえばーー相手からの好意を受け取ってしまえば、相手を無碍に切り捨てられなくなる。そういう理由から、アーリアは相手と最初から『馴れ合わない』という選択を取っていた。このように身動きの取れぬ状況を生まぬ為に……
ー信じなければ良かったー
そう思えど、アーリアは相手からの好意を受けて尚、つれなく突っぱねるという性格をしていなかった。
「あ〜〜その……ごめん」
「何が『ごめん』なの⁉︎ 思ってもないクセに!」
「う、うん……それでも、ごめんね」
涙に濡れた白い顔。胸の内から湧き起こる感情の昂りによってアーリアの瞳の緋く染まる。その燃え滾る怒りの色に、セイはアーリアの強い怒りを知った。
「触らないで!」
「っ……」
震える肩に手を置こうとしたセイにアーリアは拒絶を表した。
「セイなんかキライ!アリス先生も、ミケールさんも、レオも……みんなキライ、大キライ!」
『キライ』は喧嘩の常套句。男女関係の縺れから、セイはこれまでにも幾度となくその言葉を浴びせられてきた。しかし、アーリアの口から齎されたその聞き慣れた言葉は、これまで聞いてきたどの『キライ』よりも重いものだった。
「もうイヤっ……私がバカだったの!」
それは自分に対しての叱責だった。アーリアは『塔の魔女』に近づく者たちはある程度の計算と打算、画策がある者が大半だという事を、最初から理解していた。だと云うのに、アーリアはいつの間にか騎士たちからの忠誠心に理解を示すようになっていた。無意識にも彼ら騎士は魔女を守る存在なのだと考えるようになっていたのだ。常に側にある騎士たちに心を許してしまったこと、それこそが今回のような事態を招いた。
ー自業自得ー
口籠もり嗚咽を上げるアーリアをセイは困ったように見つめていた。
セイはアーリアに胸倉を掴まれ、アーリアに触れぬよう両手を上げた状態で「嗚呼」と顔を上げた。
「ごめん。君に八つ当たりしてた、かも。俺は……俺たちは、こんなの言い訳にしかなんないけど……混乱しているんだ」
セイはアーリアの旋毛を見ながら、ポツリポツリと言葉を紡いだ。
「俺はついこの間まで、自分たちの事を本気でシスティナの民だと思っていたんだ。これはウソじゃない。だから暗示が解けた時……俺が『裏切り者』なんだって分かった時から、心のどこかがオカシクなっちゃったんだよ」
セイは自嘲し、苦々しく顔を歪めた。自分たち『敵国の襲撃者』の事情など、アーリアには全く関係のない事だ。それなのに、自分たちの事情をアーリアに押し付けようとしている。
「俺も、先生もミケさんも……ホントは君の事、傷つけようなんて、ちっとも思ってないんだよ」
「そんなの、ウソだよ!」
「そう思われるのも仕方ない。そう思われるだけの事を、僕たちは君にしているから……」
セイは上げていた両手をそっと下ろすとアーリアの肩と背に手を回した。
「イヤ、触らないで!」
「酷い事なんてしないよ」
「ウソだ」
「本当にしないって」
「離してよ」
「ダメ。ーーあぁ、やっぱり。こんなに身体が冷えてんじゃん」
「誰の所為だと思って……!」
「うん。僕の所為」
セイはやや強引にアーリアの身体を引き寄せると、その胸にギュッと抱きしめた。
「セイ、離して」
「嫌。僕は意地悪だから。君の言う事なんて聞いてあげない」
セイはアーリアの頭に手を置いて自分の胸に押し付ける。アーリアは手を突っぱねて離れようとするが、セイの身体はビクリともしなかった。
「ヤダよ……セイのえっち!」
「ウッ!それは否定出来ない」
「アリス先生に言いつけてやるんだから!」
「それはマジ勘弁して」
「セイなんか去勢されちゃえ!」
「なんつーこと言うの?」
ジタバタと動くアーリアを捕らえて離さぬセイ。セイはアーリアの腰と頭に手を置くと白い首元に顔を埋めて溜息を吐いた。そして、何処か諦めたようにフッと顔を緩めると、アーリアの背をトントンと優しく叩いてあやし始めた。
アーリアはセイの熱い胸板に顔を埋め、幼子のようにエンエン泣きながらセイを責め続けた。しかし、それも暫くの事で、疲労から来る眠気に負けたアーリアは、自分から『キライ』と言った相手の胸の中で緊張の糸が切れたように眠りについたのだった。
お読み頂きまして、ありがとうございます!
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ありがとうございます!
『泣いたら眠くなるのは仕方ない1』をお送りしました。
これまで色々と我慢を強いられてきたアーリアですが、とうとう我慢の限界を迎えました。成人したとはいえ未だ十八歳のアーリア。精神的な成熟などまだまだで、側で支えてくれる護衛騎士もいない状態では、自身の精神を支える事もままなりません。
改めて護衛騎士の存在の大きさが現れた一面ではないでしょうか?
次話『泣いたら眠くなるのは仕方ない2』も是非ご覧ください!




