トアル侯爵の憂鬱
※東の塔の騎士団編※
王宮の内廊下を一人の紳士が足早に歩いていた。四十代半ばの壮年紳士だ。整えられた濃茶色の髪の隙間から覗く瞳は碧。雰囲気こそ温和に見えるがその瞳からは隠しきれぬ野心が覗く。彼ーーハーベスト侯爵は焦りを他人に気取られぬように努めながら目的地へと脚を急がせていた。
ー見られている?ー
此方の顔色を伺うような他者からの目線を感じたハーベスト侯爵は、得体も知れぬ焦燥感に襲われていた。
今朝の王宮内には特段変わった点は見受けられなかった。しかしどこかサワサワと騒めいているような落ち着きのない空気が感じられたのだ。そう思えば見えてくるのは他者の視線であり、しかもその視線の行方が自分となれば、流石の侯爵も気が気ではない。
ハーベスト侯爵は自身の事を『選ばれた人間』だと云う思いを持っていた。
侯爵家という高い爵位を持つ家に生まれ、これまで何不自由なく過ごしてきた。剣の腕前は然程ではないものの、勉学の才を持っていたが為に現在は軍務省副長官の座に着く事ができている。四十代という年齢で副長官職ならばシスティナではまずまずの地位だ。五十、六十となっても長官職に就けぬ者など山ほど存在するのだから。
だからこそハーベスト侯爵はこのまま順当に行けば五十代にして長官職も夢ではないと過信していた。いや、確信すら持っていた。ハーベスト侯爵の持つ貴族としてのプライドからくる確信であった。爵位、権力、金を生まれながらに手にしていたハーベスト侯爵にとっては相応しい地位に着く事は当然であり、疑いようもない現実であったからだ。
そのようなハーベスト侯爵だが、彼は裏世界に於いてもその手を伸ばしていた。しかもシスティナでは禁忌とされる魔宝具の密輸入を手掛けていたのだ。
彼が青年期、他国への留学先に選んだのはエステル帝国であった。
彼の国は魔法こそ他国の追随を許さぬ発展を遂げていたが、魔術に於いては全くと言ってよい程であった。その為、魔法の素養のない者にとって大変生きづらい環境と言えたのだ。そこで目をつけたのが魔宝具であった。
魔宝具とはシスティナ産の魔術道具であり、魔法や魔術の扱えぬ者でもその身に魔力さえ宿しておれば誰にでも扱えるといったシロモノだった。システィナにおいては平民の一般家庭にも浸透している道具だが、他国ーー特にエステルに於いてはそうではなかった。エステルは魔術を倦厭する傾向にあるからだ。だからといってそのように手軽に魔術を扱える魔宝具を手にしたくない訳でもなかったのだ。
特に特権階級である帝国の高位貴族の中には、自国で禁忌とされている魔宝具に対し好意的な目で見る者もいた。何故なら、魔宝具は使い方によっては便利な犯罪道具となるからだ。
そこに目をつけたハーベスト侯爵は独自のルートを開拓し、自国と帝国の王宮ーー政治機関の目を盗んで密輸入する事業に着手した。そして現在、その範囲はエステル帝国内に留まらず、軍事国家にまで至っている。
『目障り偏屈長官を追い出し、忌々しい堅物宰相を破滅させて宰相の座を己が手にする』
その野望の為に必要な金と権力を手にする事が目下の目標、その為の計画は着々と推し進められていた。
『素晴らしき未来の為の投資は惜しまないこと』はハーベスト侯爵の信条だ。その為、日常に於いては『夢を手にするまでに目立った行動をすまい』と王宮内では悪目立ちせぬように振る舞っていた。だからこそ解せぬのが今の状態であった。
ー何故だ?ー
自分を影から伺う複数の目線。コソコソと交わされる会話。例え、剣にそれほどの覚えがないからと云えどもハーベスト侯爵は貴族だ。人並み程度の剣技を身につけているハーベスト侯爵には、その目線が自身に向けられるものだと判断するのに、そう時間を要さなかった。
原因には心当たりが多すぎるハーベスト侯爵には、心当たりの『どれ』が今の状態を作っているのか判じる事は難しかった。この数年、平凡な日常の続いたシスティナだったが、この一年で大きく動いた事柄がいくつかあったのだ。
エステルとシスティナとの和平。ライザタニアとシスティナの確執。そのどちらの国に於いても仄暗い裏世界に手を出しているハーベスト侯爵は、何がシスティナの王宮機会に抵触したのかが判断できなかった。
ーエステルか?それともライザタニアか?ー
脳内で可能性を幾つか論じながらハーベスト侯爵は足早に王宮内の内廊下を進み行く。そして、目的の部屋を見つけるや否や、滑るように室内へと身体を入り込ませた。
「ただ今戻りました」
ハーベスト侯爵が書類を片手に軍務省庁へ帰ってくるなり、その足で長官室へと入室を果たした。長官の遣いにより財務省に訓練予算案を提出に上がった先で書類不備を指摘されて返されたのだ。
「エルラジアン侯、この予算案ではーーーー」
書類に目を落としていたハーベスト侯爵は顔を上げるなり、そこにいる筈の人影がない事に僅かな驚きを覚えた。ハーベスト侯爵がこの室を出てそれほど時間が経っていない。長く見積もっても僅か数十分だ。にも関わらず、部屋の主はそこには居なかった。長官席は間抜けの殻だ。
「すまないが、エルラジアン侯爵の行く先を存知ないか?」
長官室から出ると他の軍務省職員が仕事を行う執務室の扉をトントンと叩いた。すると、中にいた数人がハーベスト侯爵を見るなり顔を青くさせながら上げた。彼らは仕事中に窓際で固まって談笑していたようで、ハーベスト侯爵の帰りの早さに驚いているようだった。差し詰め『上官二人が居ない間の休息』とでも言おうか。にも関わらずその平穏な時間は長くは続かなかったという訳だ。二十代の若手官吏にとっては気不味い雰囲気になるのは致し方なかった。
ハーベスト侯爵もそのような些事を責めるつもりはなかった。自身も若い頃は同じような上司や上官、先輩ヅラする同僚を疎ましく思っていたのだから。
「ハーベスト侯爵!エルラジアン侯爵なら鍛錬場へ行くと仰っておられましたが」
「鍛錬場……第一か、第二か?」
「そこまでは存じません」
「いや、すまない。責めている訳ではない。長官から私宛に何か伝言はないか?」
幾分か低姿勢で尋ねてみれば、若手官吏もやや顔の緊張を緩めて受け答えし始めた。
「いえ、特には……。それよりもハーベスト侯爵、宜しいのですか?このような所におられても……?」
「……。は……?」
問われている言葉の意味が分からず、思わず惚けた声を上げるハーベスト侯爵。それに対して若手官吏も怪訝な表情を表した。
「ひょっとして、ご存知ないのですか?」
「何をだ?」
「ベントレン・フォス・ハーベスト殿ーーつまり副長官閣下の甥子殿がトアル騎士に一騎討ちを申し込んだ事を、ですが……」
「……ハ?」
これまた間抜け面で口を開けたハーベスト侯爵。これまでこのようなアホヅラを他者の前で晒した事などないハーベスト侯爵だが、この時ばかりは他者の顔色など構ってはいられなかった。
ベントレン・フォス・ハーベストとはハーベスト侯爵の五つ離れた弟の子どもーーつまり甥で、春先までは『東の塔の騎士団』に所属する騎士だった。『だった』とはつまり過去の事であり、現在はアルカードでトアル不祥事を起こして実家に返された後、自宅謹慎中であった。ベントレンが起こした問題行動が多少であったなら問題はなかった。罰金を納めた上で粛々と復職の機会を待てば、半年ないし一年以内には何処かしらの騎士団への復職も認められただろう。要は『反省の態度』を見せれば良いのだ。王宮より『再犯の可能性なし』と認められたなら、相応の対応を取ってくれるだろう。
しかし、彼の甥子は起こした問題を自らの手で大問題へと発展させてしまったのだ。
アルカードには現在、『東の塔の魔女』が滞在している。これまでその姿を誰の目にも晒してこなかった魔女が表舞台に出てきたのだ。その為、『塔の騎士団』ではそれまで停止していた通常業務を再開させる事となった。つまり『塔の魔女』の身辺警護だ。再開させたといっても何も大袈裟な仕事ではない。非戦闘員である魔女を警護するだけなのだから、大した労力など必要がない。しかも、騎士団には五百余名もの騎士が存在する為にその役割はローテーション制だ。小娘魔女ひとり護衛するなど騎士団にとって朝飯前の仕事であろうと誰もが考えていた。
にも関わらず、騎士団では問題が発生した。件の魔女の正体が貴族令嬢ではなく平民魔女であったが為に、若手騎士の中から魔女に反発する者が現れたのだ。中には露骨に態度で表す者まで現れ始め、実害が表に出て来たが為に騎士団は綱紀粛正を余儀なくされた。その綱紀粛正の対象に見事に引っ掛かったのが彼の甥ベントレンであった。
ベントレンは『塔の魔女』を見下す発言を取るばかりか、訓練と託けて害そうとする行動にまで出たようなのだ。しかも、彼は実家の意向を受けていたようで、『家族に迎えてやっても良い』などと曰い魔女の囲い込みまで画策していたのだという。
ーまさかベントレンが『ハーベスト侯爵家』の名を出していたとは……!ー
甥ベントレンの一連の行為を具に観れば、『口説いた→振られた→仕返しした』と、子どもの癇癪に劣らぬ愚かなもので、聞いた時には流石のハーベスト侯爵も深〜〜い溜息を吐いてしまった程であった。
ここで問題なのは、事が甥ベントレンのみの責任に終わらぬ事なのだ。ベントレンのチンケな報復行動が『個人の事情』からの物であれば良かったものの、甥子はよりにもよって『ハーベスト侯爵家』の名を出して『家の事情』としてしまったのだ。前者だったならば『青少年期の甘酸っぱい黒歴史』として強制終了してしまえただろう。まぁ、その際、甥子の輝かしい人生に多少の傷は残るがただそれだけだ。だが、事が後者ならば、一夜にして家の没落に繋がる大惨事になってしまうも事態なのだ。
ーあんのバカ親子がッ‼︎ー
愚弟含めハーベスト分家が没落するだけならば構いはしない。迷惑をかけずに消えてくれと思うだけだ。だが、巻き込まれ事故でハーベスト侯爵家本家が没落するなど持っての他。とてもではないが、ハーベスト侯爵にはそのような未来を容認する事など出来よう筈がなかった。
確かに『東の塔の魔女』には今や高値が付いている。平民出身でありながら王家からの覚えも目出度く、王太子殿下と宰相閣下の後見を持つ魔女にどうにか取り入ろうとする貴族は多い。しかし、裏事業にドップリ足をつけているハーベスト侯爵からすれば、『塔の魔女』の存在は邪魔になる事はあれど役立つとは考え難く、しかも、魔女の背後に誰がいるのかを正しく理解しているからこそ、今は手出しせぬのが上策とも考えていたのだ。
ー何よりライザタニアとの約束もあるー
そう。裏事業の延長戦上にある作戦。その要となるのが『東の塔の魔女』であり、現在、ハーベスト侯爵が最も注意せねばならぬ案件であった。
ーそれを、あのバカ親子が勝手に問題を起こしよってからに!ー
ベントレンに『東の魔女を取り込め』と命じたのはハーベスト侯爵ではなかった。彼の弟デルヌードであったのだ。デルヌードは常々より迂闊な所がある貴族であり、兄であるハーベスト侯爵はそんな弟の事をそれ程信用してはいなかった。
確かに『塔の魔女』はハーベスト侯爵にとって邪魔な存在であり、その後見となっているアルヴァンド宰相の事は以前より毛嫌いしていた。『いつかはアルヴァンド公爵をその地位より引き摺り下ろし、自らが宰相の高みへ!』とはハーベスト侯爵の密かな野望であったが、それは現在ではない。時と機会とが合致せねば、どんな政策も泡沫に消える。それを商売柄、ハーベスト侯爵は十分理解していた。
ハーベスト侯爵にとってそれは『現在』ではなく、そしてその機会に於いても他人より齎された物ではなく、自分自身の手で得ようと画策していたのだ。
ーアヤツ等は私の人生を潰す気か⁉︎ー
ハーベスト侯爵がベントレンの起こした騒動を知ったのは、既に王太子ウィリアム殿下より断罪され、実家に戻された後だった。断罪にウィリアム殿下が関わっていた以上、軍務省副長官といえども文句など言える筈がなくーーいや、それどころか言えば自分の首が飛ぶと理解していたからこそ、愚弟含め説教を行うと同時にベントレンを自宅謹慎を申し立て、今は粛々と王家の意向に従うようにと命じてあった。ハーベスト侯爵は愚弟一家が滅亡しようと構いはせず、寧ろ、愚弟一家の命を差し出してハーベスト侯爵家が存在する方を取る算段を立てていたのだ。その矢先にーー
ー何故、ベントレンが王宮に参内している?ー
『自宅謹慎中の筈のベントレンが王宮に於いて何処ぞの騎士相手に一騎討ちを申し立てた』
若手官吏の言葉をそのように理解するまでに悠に瞬き5回分は必要としたハーベスト侯爵は、抜けそうになる顎をどうにか元の位置に戻すと、疑問顔の若手官吏に再度尋ねた。
「それは真実か?」
「はい。あのぉ……誠に申し上げ難いのですが、今朝からこの話題で王宮内は持ちきりであります。本当に閣下ご自身はご存知でなかったのですか?」
ご存知なかったハーベスト侯爵の目はスゥっと半眼になった。
ハーベスト侯爵は出勤してからすぐ、長官に頼まれていた予算請求案の作成に取り掛かっていたのだ。しかも期日が本日までとのことで、部下に任せるには時間がなく、敢えなく自分だけで処理していた。外の声など気にする余裕がなかったといえば嘘ではない。しかし、この話題を誰も自分の耳に入れなかったのも不思議であった。
ー情報が統制されていた?まさか……ー
ハーベスト侯爵は額に手を置いて一度だけ頭を振ると、その場にいた部下たちに予算請求案の書類を押しつけて執務室の扉を開けた。そしてそのまま、誰からのどんな目線も跳ね返す勢いで、鍛錬場へと繋がる内廊下を闊歩していった。
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ブックマーク登録、感想、評価など、本当に嬉しいです!ありがとうございます‼︎
東の塔の騎士団編『トアル侯爵の憂鬱』をお送りしました。
本来なら、アーリアが居ない場所での話は裏舞台になるのですが、ここから繋がる話もあるので表舞台としました。
トアル侯爵の甥ベントレンとはリュゼが王宮へ呼び出しを受ける原因を作った彼です。アーリアを口説いて秒でフラれた経験を持つ彼は、アーリアとリュゼの事をかなーり憎んでいるご様子。しかし、彼の暴走はハーベスト侯爵からすればそれは頭の痛い問題であったようで……
次話も是非ご覧ください!




