後悔は後になってから
※システィナ帰国編※
リュゼは自分の唇を指で触れると、嗚呼!と呻いてその場にしゃがみ込んだ。
思い出されるのはあの滑らかな感触。潤んだ瞳。震える吐息。柔らかな肌。震える肩……
ーやってしまった……!ー
アーリアの部屋から強制的に追い出されたリュゼは一人、自分に与えられた部屋で頭を抱えていた。
リュゼはあの後、アーリアの魔術によって文字通り強制退場させられた。魔術《転送》によって部屋の外へと追い出されたのだ。
気づくとアーリアの姿はそこになかった。ーーというのは逆であり、リュゼがアーリアの前からいなくなったというのが正しい。
「あぁ、チクショー!」
自分自身に対する苛立ちに、リュゼは声を荒げた。
ポロポロと涙を零すアーリアの姿が脳裏に浮かび、リュゼの中に忽ち後悔の色が支配していった。ーーとその時、扉をノックする音が室内に響いた。
「……はい」
「リュゼ、入ってもいいかい?」
現れたのはシスティナ国の宰相を務めるアルヴァンド公爵ルイスであった。アルヴァンド公爵の手にはワインのボトルが握られている。それを軽く掲げて、リュゼに示した。
アルヴァンド公爵はリュゼにアーリアの護衛を任命した張本人。魔導士バルドの《禁呪》によって獣人になったアルヴァンド公爵を、アーリアとリュゼとが救い出して以来、リュゼはこの紳士と浅からぬ付き合いをしている。年齢に開きのある二人なのだが、何故か気が合い、身分を超えて友情関係を育んでいた。
「どうぞ。って言っても、ここは僕の家でも部屋でもありませんが……」
リュゼはアルヴァンド公爵の入室を許可し、招き入れた。窓際にある丸卓を示すと、リュゼはそこにワイングラスを用意した。
アルヴァンド公爵からワインボトルを受け取ったリュゼはコルクを抜き、中身をグラスへ注いでアルヴァンド公爵へと手渡す。そして自分の分のグラスも手に取ると、アルヴァンド公爵の正面に座った。
「まずは、お疲れ様と言っておこう」
「どうも」
アルヴァンド公爵が掲げたグラスにグラスを当て、二人はまずワインを一口、口の中に流し入れた。口内に蜜のような甘さがひろがり、芳醇な香りが鼻を抜ける。さすが公爵閣下。良いワインだ。
「よく、生き残ってくれた。帝国でアーリア殿を一人で守るのは、並大抵の事ではなかっただろう。さぞ苦労も多くあったのではと思う」
「まーね」
「アーリア殿とリュゼを囮として利用し駒のように扱った事、許してほしい。国としての最善とはいえ、本人たちにとってはそうとは言えまい。辛い役目を押し付けてしまった事には変わりがない」
「気にしないでルイスさん。あれは『仕事』だよ。それはアーリアも分かってる。ーー明日、ルイスさんからアーリアにも言ってあげてよ。アーリアの方がずっと大変だったし……」
「勿論だ。夜分に淑女の部屋を訪ねるのはどうかと思ってね……」
肩を竦めるアルヴァンド公爵。その仕草を見ながらリュゼは何故か深〜〜い溜息を吐いた。
「……なんだ?リュゼ、そなた何かあったのか?」
リュゼがいつもの調子ではない事にアルヴァンド公爵は気づいた。のらりくらりと人を躱し、どんな時も飄々としているリュゼ。他人にその笑みの下にある本心を悟らせる事は決してない。
だが、アルヴァンド公爵には今のリュゼが贔屓目に見てもヤサグレて見えた。
しきりに溜息を漏らし、目は虚に宙を漂う。
これで何もない訳がない。付き合いのそれほど長くないアルヴァンド公爵の目から見ても、一発でわかる程に。
「アーリア殿と、何かあったのか?」
口に含んだワインが気管に入ったようで、ゴホゴホとむせるリュゼ。
ーどうやら図星らしいなー
これほどまでにリュゼの調子を狂わせる者は一人しかいないと推測したが、どうやらアルヴァンド公爵の見立て通りであったらしい。
「なんでって……あぁ〜〜もぉ〜〜」
そんな事聞くまでもなく、宰相閣下にはバレバレなのだろう。リュゼは顔を覆って机の上に突っ伏した。
友人同士とはいえ、身分制度をすっ飛ばした態度を取ったリュゼに、アルヴァンド公爵は無粋にも苦言を呈したりはしなかった。
ー男が悩むのはいつだって女の事だー
それを人生経験豊富なアルヴァンド公爵は痛いほど身に染みて分かっていた。アルヴァンド公爵も若かりし頃はオイタの一つや二つ、やっちまった事件の一つや二つは起こしている。今はこの年若い友人の話し相手を務めるのが、年長者としての義務だと腹を括った。
「それで?」
言いたくないのなら言わないだろう。
しかしリュゼはアルヴァンド公爵を部屋へ招き入れた。聞いて欲しくないのならば、リュゼは初めから部屋には入れなかったに違いない。
長い沈黙の後リュゼはポツリと呟いた。
「キスした」
アルヴァンド公爵は軽く目を見開いた。そんな恋愛方向の悩みだとは思ってもいなかったのだ。
「……。……誰に、とは無粋か……ならば何故、と聞いても?」
お互いが承諾していた先の行為なら、これほどリュゼが落ち込む筈がない。その場合、どちらかと言うと舞い上がっていただろう。
そう考えると、どちらかのーーこれは明確にアーリアの承諾がないままヤラカシタ末、リュゼはこうなっているに違いない。そこまで先読みしたアルヴァンド公爵は、リュゼの旋毛を見ながら半眼になった。
ーなんとも甘酸っぱい青春だー
年の割に冷静な思考を持ち、どのような場面でも適切な判断を下せるリュゼは老成しているように見える。しかもエステル帝国での苦難な日々を刳り貫けた現在、その存在感は玄人騎士顔負けだ。そのリュゼが、どうしてそのような判断ミスをしでかしたのか。
アルヴァンド公爵にもその理由は測れなかった。何せ恋愛事は十人十色なのだから。
「それ、聞く?」
「まぁ、言いたくないなら聞かんが」
「…………」
リュゼは机に突っ伏したままボソボソとアルヴァンド公爵に、事の経緯を掻い摘んで話した。
ユークリウス殿下が帰国間際にアーリアを口説き、その唇を奪った。しかしアーリアは平然としている。アーリアにキスされた事に対しての感情とその意味を尋ねるが、一般常識である『キスの定義』を披露されてしまう。ユークリウス殿下との婚姻の意思を聞けば、殿下の事は好きだが婚姻は無理だと返される。そこまでのアーリアの態度を見かね、自分勝手にも憤ってしまう。そして遂にはそれまでの鬱憤が爆発し、アーリアの唇を無理矢理奪ってしまった。
「それはまぁ、なんとも……」
アルヴァンド公爵の呆れた声に、リュゼは『穴があったら隠れたい』衝動に駆られた。
帰国して早々、宰相閣下と話す内容がエステル帝国で起こった様々な事件の報告や今後の相談ではなく、恋愛相談。何やら情け無く思うのは自分が若いからだろうか、それともヘタレだからだろうか。そうリュゼは顔色を赤くしたり青くしたりした。アルヴァンド公爵にそんな情け無い顔を見られたくなくて、卓から顔を上げる事もできない。
リュゼの中で反省と後悔とがぐるぐると堂々巡りする。
次にアーリアの唇に触れる時は『愛を囁きながら』と決めていたのに、現実はコレだ。理性が本能に押し負けただけの行為は男として、なんとも情け無い。自分の欲を満たす為に好きな女の子を泣かせるなど、下衆としか言えないではないか。
「リュゼ、そなたが落ち込んでいるのも分かるが、アーリア殿の落ち込みはそれ以上ではないかな?」
「っ……」
「敵国で自分を守ってきた唯一の頼れる護衛騎士が、突如としてその姿を変えたのだから……」
「ッーー!」
「突き放された、呆れられた、嫌われたと思うのではないか?二人が揃って生きて戻って来られた事から、リュゼとアーリア殿が帝国に於いて強い信頼関係を結んだ事が伺える。アーリア殿は君の事を本当に信頼できる男だと思っているだろう。ーーでは、その信頼できる男から突きつけられた態度、その衝撃は如何許りであろうな?」
「ーーッ!!」
「それにな。こう言っては何だが……アーリア殿は普通の令嬢とは少し違う感覚を持っているのではないか?」
アルヴァンド公爵の言葉を受けて、リュゼは飛び跳ねるように身を起こした。
アルヴァンド公爵はアーリアの事を本当によく見ている。アーリアがそこらの普通のお嬢さんと違う感覚、感性を持っている事を、経験則で察していた。
自分の生死に頓着しないアーリア。
他人の心へ決して踏み込もうとしないアーリア。
人間と親しくなる事を無意識に避けているアーリア。
ーアーリアはあの時、何と言った?ー
リュゼがアーリアに対して『人がキスをする行為』について聞いたとき、アーリアは『物語を読んで知っている』と言ったのだ。そしてその行為に至る過程を『主に夫婦や恋人、親子、番になった者たちの愛情表現の一つ』だと明言した。
第三者の意見から語られたような実に説明的な言葉はとても、アーリア自身に当てはめて考えているようには思えなかった。あの時、その事に少し違和感を持った程だ。
また、ユークリウス殿下について『好きなのか?』と問えば、『好き』だと返された。しかし『好き』か『嫌い』かの二択で聞かれれば『好き』としか答えられなかっただろう、とリュゼは今更ながら気づいた。
アーリアはエステル帝国にいる間、ユークリウス殿下に保護されていた。リュゼから見てもアーリアは、ユークリウス殿下の事を尊敬できる男だと位置づけていたように見えた。そんな男をアーリアは嫌いだとは言わない。寧ろ好きな部類の人間に含まれるに違いない。
そして更に勢いあまって 『殿下と夫婦になるのか?』と聞けば、『なれる訳がない』と返された。『なる・ならない』ではなく、『なれる訳がない』と。
ーアーリアは自身を、人間と同列に並べていない……ー
「あぁ!知ってた筈なのに……!」
リュゼは両手で顔を覆った。
アーリアが特殊な生まれ方をした事をリュゼは知っていた。リュゼは長い間、アーリアを生み出した魔導士に従っていたのだから。
魔導士はアーリアの事を『道具』としてしか見ていなかった。最愛の娘を生き返らせる為の『道具』だと。
そんな道具が魔導士の手から離れた後、たかだか十年やそこらで固定観念を塗り変えられるだろうか?
ー否だー
いくら師匠が引き取り、愛情を持って育てたとしても、生まれた事の意味が覆る事はない。人間に関われば関わる程、自身とは違うと気付かされただろう。異質さをまざまざと突きつけられるだろう。
アーリアはいつも、『婚姻』に関わる問題については、はっきりと『否』を突きつけていた。あの流されやすく押しの弱いアーリアが。それは何故なのか……?
ー『婚姻』は『出産』に関わるからだ!ー
種の繁栄。それは人間も動物も同じ。だが、それら以外の生物ならどうだ?アーリアは師匠に育てられた。そして周りには同じ生まれ方をした兄と姉。
彼らに何と言われて育っただろうか?
何故、彼らはアーリアをあれほどまでに可愛がり、事ある毎に保護したがるのだろうか……?
「大バカ者だ……!」
アーリアの『事情』を知っていたならば、少し考えれば分かる事ばかりではないか。
リュゼはそれを忘れていた訳ではない。だが、どこかで自分に都合よく解釈し、アーリアの思考が自分と似通っているという妄執に取り憑かれていたのだ。
「ごめん、アーリア」
どんなに怖かっただろう。自分を守ってくれると信じていた護衛が突如襲ってきた時。ーー案に、アーリアはリュゼの言動に困惑し、恐怖で震えていた。
リュゼはユークリウス殿下が羨ましかった。アーリアの隣立つユークリウス殿下が。アーリアを『俺の妃になる姫』と呼ぶユークリウス殿下が。絶大な権力を持ち、その腕で何者からも守ることのできるユークリウス殿下が……。
日に日に美しくなっていくアーリアに、遠ざかっていくアーリアに。いつかは手が届かなくなりそうで、リュゼは怖かった。焦ったのだ。
ーだからって、無理矢理あんな事して良いワケないー
「ルイスさんごめん。僕、ちょっと……」
「ああ、行ってきなさい。何かあればまた声をかけてくれればよい」
リュゼはグラスを丸卓の上に置くと立ち上がり、隣の客室へ足早に向かった。
※※※
「アーリア」
扉をノックをすれど反応のない部屋。中で人の動く気配はなく、リュゼは暫くの間、アーリアの部屋の前で佇んでいたが、痺れを切らしてドアノブへと手を掛けた。
「アーリア……入るよ?」
扉には鍵は掛かっておらず、ドアノブを押せば軽く開いた。
扉を開ければそこは闇。燭台や洋燈の光さえない。窓からの月明かりだけが部屋の中を淡く照らす。リュゼは室内を見渡したが、やはり人の動く気配はない。が……
「ーーッ⁉︎ アーリア!」
リュゼの瞳に飛び込んできた光景、それは部屋の隅に蹲る影だ。アーリアは先ほどと同じ場所、壁際の床に倒れて蹲っていた。
リュゼは慌てて駆け寄り、アーリアの身をそっと抱き起こした。そして肩を軽く揺すってみたが、微動だにしない。
「アーリア!アーリア‼︎ ま、まさか、あれからずっとここに……?」
瞼はきつく閉じられ、息は浅い。額には冷や汗。髪が汗で額にべったりと張り付いている。体温が低く、肌が雪のように冷たい。表情は暗く顔を歪ませ、苦しそうに心臓の辺り手で掴んでいる。
「どうした、何があった?」
リュゼの声を聞きつけたアルヴァンド公爵が部屋の中へ踏み込んできた。
「ルイスさん、アーリアが……」
「ーー! すぐ医務官を叩き起こそう」
アルヴァンド公爵は事態をすぐに察すると警護の騎士を連絡役にとばし、リュゼには目線で促した。リュゼはアーリアをそっと抱き上げると、先導するアルヴァンド公爵の後に続いた。
叩き起こされた医務官は嫌な顔一つ見せずアーリアを診た。その結果、精神的ストレスによる極度の緊張と疲労である事がわかった。
お読みくださりまして、ありがとうございます!
ブックマーク登録、感想、評価など、大変嬉しく思います!ありがとうございます!
システィナ帰国編「後悔は後になってから」をお送りしました。
若い頃はさぞ色々ヤラカシテいただろうアルヴァンド公爵に恋愛相談するリュゼ。リュゼも恋愛相談など、人生で初めてしています。
次話も是非ご覧ください!