本能と愛情の狭間
※システィナ帰国編※
※(アーリア視点)
システィナ国に帰国した私はエステル帝国での状況と経緯、その他諸々の事情により暫くの間、その身は王宮預かりとなった。それに伴って護衛騎士リュゼも同じく、王宮に留まるように通達されたのはつい先ほどのこと。
私は自分に割り当てられた部屋へと入るなり、その部屋の広さに驚いた。なんと、部屋はユークリウス殿下の宮で与えられていた部屋程あったの。
エステルでの生活は全て『システィナの姫アリア』『ユークリウス殿下の婚約者』という肩書きがあったが為にあの扱いだったのは分かる。でも、こちらに帰ってきた今、自分の肩書きは『東の塔の魔女』ーーつまり『塔』の管理者というものだけ。
だが自分への扱いを見ると、帰国間際にユークリウス殿下が仰っていた通り、システィナでも『システィナの姫アリア』の偽装工作を行う事が決定されていると見て良いだろう。はぁ、憂鬱……。
「アーリア」
「……?」
「アーリアはさ、何で殿下を拒めないのかなぁ?」
「えっと……何のこと……?」
リュゼの声を背から受けて私は背後を振り向いた。私はリュゼから何を問われているのかが分からなかった。
彼が言う『殿下』と言うのはユークリウス殿下の事に違いない。タブ、ウィリアム殿下の事ではないと思う。
エステル帝国の皇太子ユークリウス殿下の強引さは常々で、それが原因でアーリアがエステル帝国へ島流しに遭ったとも言える。帝国での生活もそうだ。アーリアの姫生活や囮 兼 駒活動も、私の行動の全てが殿下の思惑通りだった。だから、私がユークリウス殿下のやる事なす事に拒めないのは今更だった。
ーだって拒んでも仕方ないものー
ユークリウス殿下の政略が成功する事そこが自分たちの生命を守る唯一の方法だった。だからこそ、殿下の策を拒んだ所で意味はない。加えて、当初より自分の身体能力の鈍さや判断能力の弱さ、流されやすさ、迂闊さ等がバレている相手に敵う筈がない。
でもリュゼから齎された言葉は、それまで考えていたユークリウス殿下と関わったアレやコレやの策略の事ではなかった。
「殿下にキスされてたでしょ?」
「……!」
私は息が止まるほど驚いた。リュゼにあの場面を見られていただなんて知らなかった。ーーいや、あの時気づいてもなかったし、思ってもなかった。だからリュゼに見られていたと分かった途端、羞恥で顔に血が上っていった。
私は顔を、ユークリウス殿下の唇が触れた場所を両手で隠すように押さえながら、そろそろとリュゼを見上げた。その瞬間にもユークリウス殿下が触れた唇の感触がまざまざと思い出され、あまりの恥ずかしさで消え入りたい気分になっていた。
「……あれって、その、やっぱりキスだったの?」
私はユークリウス殿下から受けた『あの行為』が何であったか再確認するように呟いた。
ー忘れようとしてたのに……!ー
ユークリウス殿下からの言葉は、私の心を少なからず揺さぶった。それは口づけを通して、より鮮明な記憶になっていた。
でも、そんな私の言葉は予想外のモノだったのか、リュゼは平静にはない苛立ったような声を上げた。
「ーーはぁ??」
リュゼは眉根を吊り上げ叫んだ後に「何をバカなコトを……⁉︎」と呟いた。
アレはバカと呼ばれるような事だったのか。私としてはあの場面を見られていた事の方が恥ずかしくて、今は何とか誤魔化したい気持ちでいっぱいだ。
それに、口づけという行為を人生で初めて体験したものだから、思い出すだけでも気持ちとしてはもう、いっぱいいっぱい。
「その……絵本や物語で読んだ事はあったけど体験した事はなかったから。びっくりして……」
私はゴニョゴニョと口籠もり、リュゼから目を逸らして俯いた。リュゼの顔から普段の笑みが搔き消え、次第に険しいものへなっていっていたのだが、この時の私はリュゼから目線を逸らしていた為に気づかなかった。
幼い頃、私が姉弟子から読み聞かせて貰った絵本には、『王子と姫』が登場する物語が沢山あった。大概の絵本に於いて物語の終盤に差し掛かると、王子が姫に愛を説いて口づけし閉幕するという内容の物が多かったのだ。
でもまさか、自分が物語の主人公のように『皇子様からのキス』を体験するとは思ってもいなかったな。
ユークリウス殿下からの告白。そしてその後の口づけ。ーー恋愛脳が死んでいると身内から言われているアーリアでもさすがにあの状況は、胸をトキメかせる展開だった。
俯いていた私はリュゼが近寄っきた事に気づかなかった。すぐ側にリュゼの気配を感じてハッと顔を上げると、リュゼはあと一歩の距離まで詰め寄ってきていた。しかも、至近距離ーー真上から見下ろすリュゼの瞳はツンとつり上がっていた。
「〜〜はぁ⁉︎ ちょっ、ソレ、本気で言ってんの?」
リュゼの凄みと威圧を受けて、私の身体は本能的に震えた。
「あの、リュゼ……?何か、怒って……る?」
リュゼの瞳は、私がこれまでに見た事のない程釣り上がり、声音は低く、顔をキツく強張らせた凄い剣幕だ。
私はここで初めて、リュゼが怒っている事に気づいた。しかもリュゼの怒りは私に対しての感情である、と。
どんな時も私の安全を優先し、言葉を持ってしても私を傷つける事がなかったリュゼが、私に対して怒りを露わにしている。その事に私は動揺した。
ー私はどこでリュゼを怒らせてしまったの?ー
自分の言動の何が、彼をこれほどまでに怒りを持たせたのかが分からず、私は困惑した。
リュゼの身に纏う威圧は痛いほど私の肌に突き刺さった。そして、困惑している内に、リュゼによって壁際まで追い込まれていた。
ドンとリュゼの左腕が壁に突かれた。
その音に驚いていると、リュゼはもう片方の手で私の顎を掬い上げた。強制的に上向かされると、リュゼの琥珀色の瞳が私の瞳の中に飛び込んできた。
吐息が掛かるほど近い顔と顔。そのあまりの近さに驚いて反射的にリュゼから逃れようとしたが、それは全く叶わなかった。リュゼによって身体の身動きが取れず、左右にも逃げ場はない。
リュゼから放たれる怒りのオーラに身体を竦めた私の耳元に、リュゼはそっと囁いてきた。
「アーリアはさ、キスってどういう時にするか、知ってる?」
耳元で囁かれたリュゼの声。それは予想していた以上に冷たい声音だった。リュゼの吐息を耳元に感じて小さく身震いを起こした。漏れそうになる悲鳴を抑えるのに精一杯だった。
私の顔は自然と強張った表情になっていく。
私が混乱している事を人の気配に敏感なリュゼは、きっと分かっている筈だ。だけど、リュゼは私への追求を止めはしなかった。
私はリュゼの瞳から射抜くように見つめられ、その痛いほどの視線に恐怖を覚えて目を逸らした。とてもリュゼと目を合わせてはいられなかったのだ。
「……愛情表現の一つだと聞いてるよ。愛する人にキスするんだよね?その、夫婦や恋人や親子や……あとは番とか……?」
人間や動物、加えてエルフ族や竜族など妖精が行う愛情表現の一つ、愛する者に対して己の感情を伝える為の行為だと、アーリアは姉弟子から教わった。それがアーリアの中にある『口づけ=キスの定義』だ。
そのように知っている知識を言葉にしたら、リュゼは「番……?」と少しだけ首を捻って、一瞬不思議そうな表情になった。
「ーーで、ソレをアーリアは、恋人でも夫婦でも何でもない殿下にキスされちゃってたよね?……それはなんで?」
「なんでって……言われても……」
ーアレって避けられたかな?ー
私は基本的に運動神経が鈍い。しかも身に纏う衣装は今と同じコルセット込のドレス。足には踵の高いヒールを履いている。この装備で詰め寄ってきたユークリウス殿下から逃げられただろうか。
ーいや、ムリ!ー
現に、リュゼにこうして詰め寄られているが、逃げられる気がしない。
それに、仮にもユークリウス殿下は『皇太子殿下』だ。身分的にも最上に位置する皇族、しかも大帝国エステルの次期皇帝となるお方なのだ。そんなユークリウス殿下相手に平民魔導士でしかないアーリアが反論や反撃などできようはずもない。
また、アーリアの持つ『常識』を上手く利用して、心理的に突くのがユークリウス殿下の遣り口なのだ。
ーアレは完全に、私の出口を塞いでいたよね⁉︎ー
いつも同じ手口に引っかかっている自分が、学習できていない自分が憎い。
そこまでの思考が脳内を走った時、リュゼは私にもう一つ、新しい質問をしてきた。
「子猫ちゃんは殿下の事が好きなの?」
リュゼに『ユークリウス殿下が好きなのか?』と問われ私は、少し間考えた。『好き』か『嫌い』かの二択で聞かれれば『好き』になる。だからそれを素直に答える。
「好きだよ」
「ーー⁉︎」
私の回答が意外だったのか、リュゼはあからさまに驚いた。リュゼが私の頬に添えている手の力が少し、緩んだのだ。
「……じゃあさ。殿下が好きなら、殿下とその……恋人になるの?夫婦になるの?」
リュゼの言葉に驚き、私は両手と首を大袈裟なほど降って否定した。
「ムリムリ、ならないよ!……なれる訳がないし……」
私にとっての『婚姻』、それは自分の恋愛感情云々の話ではない。また、『したい』『したくない』の話でもない。それは私が、人間と伴侶ーー動物で言う番になどなってはならない、と本心から思っているからだ。
私の身体は普通の人間のソレと同じではない。私は人間の魔術によって造られた生き物なのだから。
人間と同じように生命を育める確証も保証もなく、もし生命を産む事が出来たとしても、その後の責任を取る事ができない。そんな私が、人間とーーこの世の誰かと婚姻関係を結んで良い訳がない。
アーリアがユークリウス殿下の婚約者役を引き受けたのは、それが『偽の婚約者』であり、『婚姻関係を結ぶ事は決してない』と分かっていたからだ。
もし、最初から『正妃』となる事が契約条件であったなら、引き受ける気は毛頭なかった。リュゼの命を盾に取られ、それ以外の道はなかったのならば、条件を飲んだフリをして、その後、何かしらの理由をつけて辞退もしくはエステルから退場していただろう。
それほどまでにアーリアにとって『婚姻』とは、特別に留意しなければならない事柄だった。
そこまで考えて、何故か胸がチクンと痛んだ。痛む必要がないのに痛む胸は、私が未だに人間に憧れを持っているからだろうか。それとも、人間の婚姻関係に対しての憧れを捨てきれていないからだろうか。
ふと顔を上げるとリュゼの顔が間近にあった。リュゼの茶色の髪が額にかかるほど近くにあり、緊張からドキリと胸が高鳴った。
「アーリア、君は恋人でもない殿下とキスしたんだよね?ーーじゃあさ、僕とキスしてもいいってコトだよね?」
リュゼは一方的にそう言うと、壁に左腕を押し当てたまま右手で私の顔をグッと持ち上げた。そしてそのまま私の唇に己の唇を重ねた。
「……え?どう……ンッ⁉︎」
私は至近距離に近づくリュゼの顔を避ける事は出来なかった。気づくと自分の唇にリュゼの唇が重なっていた。
「……っ、んっ……」
その何とも言えぬ柔らかな感触にいっしにして思考は停止し、自分に起こった現実を受け止めるのには、長い長い時間を擁した。そして、現実を受け止めた頃には困惑と羞恥とでどうしようもなくなっていた。
心臓が壊れてしまいそうなほど早く鼓動し、全身に血が駆け巡り、顔が、全身が熱く火照っていった。呼吸の仕方も忘れ、息苦しさに何度も喘いだ。何故かギュッと胸が締め付けられ、涙が目尻に滲んだ。
抵抗を試みようとも私の抵抗など虚しく、身体をリュゼにかき抱かれて身動き一つ取れず、その甘い痺れを甘受するしかなかった。
「んんっ……っは……、んっ……」
唇から伝わる柔らかな感触に目眩を覚えた。
お互いの熱で雪のように淡く溶けてしまいそうに感じた。空気を欲して喘いだが、リュゼはそれを無視し、角度を変えて再度その唇を塞いできた。開いた唇の隙間からリュゼの柔らかな舌が入り込み、私の舌を絡みとった。耳を疑うような水音。甘い痺れが全身を駆け抜ける。
息苦しさに宙を掻く腕をリュゼの大きな手が素早く掴み、私の身体は再び、抑え込むように抱き込まれてしまった。
頭の中に靄がかかったように何も考えられず、甘い吐息と私は共に思考を放棄し、最後にはリュゼの身体に縋りよっていた。
甘い口づけ、甘い痺れに翻弄された時間はどれくらいだっただろうか。
リュゼの唇が私の唇からやっと離れた時、私の膝はガクガクと揺れ、力なくその場に崩れ落ちていた。リュゼから解放され床に落ちた腕には手の跡が赤く、くっきりと残っていた。
次の瞬間、自分の両の瞳から大粒の涙がポロポロと溢れ出していた。それは頬を伝い、パタリ、パタリと膝へ、床へと落ちていく。
ーリュゼ……?ー
何故リュゼが私にキスしたのか。私にはその理由が全く分からなかった。
リュゼはユークリウス殿下の行動を拒めない私に怒りを見せていた。でも、エステル帝国ではいつも、アーリアを一番に考えていてくれていた。
これまで、私はリュゼから叱られ窘められた事はあっても、このように一方的に怒りをーー想いをぶつけられる事はなかったのだ。
いつの間にか、自分はリュゼを傷つける事をしまったのだろうか……。
リュゼは私の事を嫌いになってしまったのだろうか……。
音もなく涙は流れ落ちる。
リュゼは私の前にしゃがみこむと、私の背にそっと手を回した。そして、何故かリュゼの方から「ごめん」と謝ってきた。
ーなんで、リュゼが謝るの?私がリュゼを怒らせるようなコトをしたんじゃないの?ー
私にはリュゼの行動理由がさっぱり分からなかった。涙を流しながら混乱する私の背を、リュゼは何時もの優しい声音で何度も撫でてくれた。「ごめん」と何度も謝りながら……。
お読み頂きまして、ありがとうございます!
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システィナ帰国編③ 本能と愛情の狭間 をお送りしました!
前話『本能と理性の狭間』のアーリア視点バージョンです。
視点を変えると、いかに二人の考えの違いがあるかがよく分かります。
リュゼ爆発に対してアーリアは大変混乱しています。今後、二人の関係はどうなっていくのでしょうか?
次話も是非、ご覧ください!