帝国の未来1 解放
エステル帝国は精霊濃度の上昇により近年、多くの自然災害に見舞われた。大山では青竜の暴走に続き、遂には騎士の駆る飛竜もが暴走を始めたのだ。人間を襲うことのないとされる飛竜の暴走は帝国の民の常識を覆すものであり、理性を失った飛竜の襲撃により帝宮を始め帝都ウルトは混乱を極めた。その混乱によって、決して少なくない数の犠牲者を出していた。
皇帝陛下を正面に見据えたリュシュタールはその美しい黄金の瞳を細めると、まるで唄うように言の葉を紡ぎ出した。
「長き血の連なり。精霊を愛する一族。精霊の血を宿す者。精霊に愛されし者。頂に冠する者よ」
光を帯びた黄金の瞳に見つめられた皇帝陛下は、身体を流れる血液が急激に全身を駆け巡るような感覚に襲われ、その深い紫の瞳をぐっと見開いた。
「ー精霊女王を解放せよー」
エルフ族。精霊の化身とも言われる妖精族に連なる種族であり、人間の上位種とも言われている。寿命は人間の何倍とも何十倍ともいわれる不老長寿の種である。天上人にも劣らぬ美しい容姿を持ち、その長い耳は千里先の音を聞き、その黄金の瞳は千里先を見通すという。またその瞳は人間には見えぬモノを視る事ができるとも……。
人間とは違う時間軸を生き、人間とは違う価値観を有し、人間とは違う感性を持つ妖精の民。
精霊と世界を愛する種族ーーエルフ。
その神秘なる佇まい、その神聖なる言葉に、皇帝陛下は膝を屈した。
「謹んで神命に従いましょう」
エステル帝国の国名である『エステル』とは『エルフ』が語源である。エステル帝国の民はエルフに一方ならぬ想いを抱いているのだ。
帝王ギルバートは時の精霊女王と共に生きた。きっと帝王は女王に永遠に続く愛を語ったに違いない。帝王はエルフ族のような不老長寿を得たいとも思ったのやも知れない。
ー愛する者と同じ時間を生きる為にー
アーリアには皇帝陛下の言葉の後、禁苑を包む空気が変わったように思えた。肌を撫でる空気の流れが変化したように感じたのだ。
リュシュタールは皇帝陛下の言葉を受けて『生命の木』の袂に歩み行く。『生命の木』の根は、清水を湛えた泉の中に続いている。リュシュタールはその泉の淵へ膝を着くと、徐に泉の中に手を差し入れた。
「精霊女王。お迎えに上がりましたよ」
ーサワサワサワー
泉の水面が揺れ動き、波紋を作る。
「……む?これはなかなか……。ーーおお!そなた、此方へ参るがよい」
リュシュタールは訝しんだ後、直ぐに何かを思いついたようで、首を巡らすとアーリアに向けて声をかけた。満面の笑みのリュシュタールに手招きされ、アーリアは疑問符を頭に浮かべながらもリュシュタールの側に歩み寄った。そして示されるままリュシュタールの隣に膝をついた。
リュシュタールはと輝くような笑顔をアーリアに向けると、とんでもない事を言い放った。
「そなた、女王を呼んでまいれ」
リュシュタールはアーリアの背をトーンと押した。アーリアはアッと声を上げる間も無く、清水を湛えた泉へと頭から突っ込んだ。
ードボンー
「「「え……⁉︎」」」
背後から誰かの驚く声が聞こえた気がする。アーリアは清水に沈みながら、どこか冷静にその声を捉えていた。
ー前にもこんな事あったよね⁉︎ー
軽いトラウマに苛まれながら、アーリアは必死に手足をばたつかせた。
冷たく澄んだ清水はアーリアの身体を包み込む。咄嗟の事で息を止めずに飛び込んだ為、口や鼻から水が入り込む。
しかし不思議なことに、水の中であっても息に苦しむ事はなかったのだ。
『あれ?ここ、息ができる?』
アーリアは閉じていた瞳をそろそろ開けて、泉の中の様子を確かめた。
すると清水の中は薄ぼんやりと光っているではないか。まるでキラキラした光の粒が水に溶けているようで、何とも言えない神秘的な雰囲気が漂っている。
泉の中には『生命の木』の根が有象無象に伸びていて、それは遥か下方まで続いている。
ふと足元を見ると、根に絡みついた光の玉が目に入ってきた。注意深く観察してみると、その玉の中に人影が見えるではないか。
アーリアは水を掻くようにして、その光の玉にゆっくりと近づいていった。
『ここから光が溢れてる』
清水に溶ける光の粒は、この光の玉から発生している事が分かった。
アーリアは光玉に手を添えて、中をそっと覗き込んだ。
『ーー誰ぞ?』
光の玉から涼やかな声が聞こえた。若い女の声音だ。
『私はアーリア。精霊女王をお迎えに上がりました』
『アーリア。そなたはヒトのコか?ーーあぁ、とても懐かしい香りがする』
『……外でエルフ族のリュシュタール様がお待ちです。女王陛下をお迎えに来られたのです』
『リュシュタールが?』
リュシュタールの名を出すと、精霊女王を包む雰囲気に明るさが生まれた。
『リュシュタールが来ているのならば、いよいよ起きねばならんの?』
精霊女王の声音には嬉しそうな中にも少しだけ残念そうな響きがある。
アーリアには『はい』とも『いいえ』とも答え難かった。本音を言えば出てきて欲しい。しかし、それを自分が言うのには不遜な気がしたのだ。
『ここはとても心地が良かった。だが、もう出なければならんのぉ……』
アーリアは結局、その問いに頷きのみで気持ちを示した。
精霊女王にアーリアの気持ちが伝わったのだろうか。アーリアの触れた手の内側から、精霊女王の手の温もりが感じる事ができた。するとその掌の辺りからチリチリと熱を帯び始め、光の玉が徐々に膨張していった。そして……
ーパァンー
光の玉は泉の中で弾けた。それは色とりどりの硝子玉のように水中一面に広がっていった。光はまるでシャボン玉のように上空へーー水面へと上昇していく。
『嗚呼、その瞳は……!』
アーリアがその美しい光景に目を取られていると、涼やかな声が間近で聞こえた。目の前には、鮮やかな緑の髪を絹糸のように棚引かせた美しい女性が立っている。天上の女神のような神々しさ。雪のように白い肌。薔薇の蕾のような唇。そして虹色に輝く瞳。
『そなたのその瞳。【精霊の瞳】ではないか……?それも我が母の……』
『えッ⁉︎』
アーリアは精霊女王に両手を絡みとられ、スルリと身体を引き寄せられた。
精霊女王はアーリアの頬に手を添え、愛おしいモノを見つめるようにアーリアの瞳の中を覗き込んできた。
『ほんに、懐かしい匂いじゃ。母の匂いじゃ』
アーリアは精霊女王から齎された言葉に固まっていた。
師匠から与えられた瞳。『精霊の瞳』と呼ばれるほどの力を持つこの瞳。何か特別な宝玉を用いて魔宝具として造られたのだろうとは思っていたが、まさかその素材が精霊女王の瞳とは夢にも思っていなかったのだ。
『あら?そなた知らなんだのか……?』
『……。ハイ。』
アーリアは精霊女王の呆れた表情と声音に、恥ずかしさから消え入る声で答えた。
『精霊女王は次代の精霊女王を産む時、そのチカラ、その記憶の全てを分け与えて枯れる。じゃが、残る物が二つある。一つは【生命の木】、もう一つは【精霊の瞳】じゃ』
アーリアは精霊女王の言葉に小さく頷いた。
図書棟で史実の書かれた本で読んで知っていた内容だが、『精霊の聖石』=『精霊の瞳』とまでは考えが及んでいなかった。
『器は大地に還っても、精霊女王の双玉だけは枯れずに残るのじゃ。それは伴侶となった者への変わらぬ【愛】であろう』
そんな大切な宝玉がアーリアの瞳ーー魔宝具の材料に使われていた。『師匠はどこでそのような貴重な宝玉を手に入れたのだろうか?』と思案したところで、その疑問は直ぐに判る事となる。
『我が母は前代の精霊女王じゃが、父と呼べる者はリュシュタールぞ?』
『リュシュタール様が⁉︎』
『そなた、リュシュタールより母の瞳を授かったのじゃなぁ……?』
なんと前代の精霊女王の伴侶はリュシュタールであったのだ。なれば、娘とも言える今代の精霊女王の失踪には、少なからず気を揉んだ事だろう。住み慣れた館を離れ、遥々エステル帝国まで探しに来る程に。
『ありがとうございます。この瞳は私に光をーー未来をくださいました』
アーリアは精霊女王の手をギュッと握った。精霊女王は不遜だと怒りはしなかった。
アーリアの人生は暗闇の中から始まった。しかし師匠がアーリアに光と未来を与えてくれた。そのおかげでアーリアはこれまで様々な人に出会う事ができた。そしてこれからもこの瞳はーー光はアーリアの行く先を照らしてくれるだろう。
その光は、元を辿れば精霊女王の形見の品。リュシュタールの思い出の縁であった。その貴重な縁にアーリアは溢れる想いがこみ上げてきた。どれだけ感謝してもし足りない。それほどにアーリアの胸は想いで溢れ、胸は強く押しつぶされていった。
『それはほんに良かった。何よりじゃ。リュシュタールのこと、ただ飾っておくより誰かの役に立つ方を選んだのであろう』
『……』
『……だからもう泣くでない、雛鳥よ』
アーリアは精霊女王の温かな手を握りしめ、ポロポロと涙を零していた。虹色の瞳から溢れ流れる涙は光る泡となり、上へ上へと登っていく。
『わたし……この瞳が、なかったら……』
『よしよし。そのように喜んで貰えたならば、我が母も嬉しく思っているだろうて』
精霊女王はアーリアの頭を押し抱いて我が子にするように背を撫でた。何度も何度も。アーリアは精霊女王の温かさに身を委ね、涙が止まるまでその胸に甘えた。
『さて。そろそろ外で皆が痺れを切らしておるはず。アーリア、共に出るとしようか?』
『はい。お供致します』
泣き止んだアーリアの瞳をとっくり眺めた精霊女王はふんわりと笑んだ。その笑みは母性に溢れ、生命の母ーー精霊女王の貫禄を感じさせた。
アーリアが頷くと精霊女王はクンッと手を引いた。ゆっくりと二人の身体が泉の中を上昇していき、そして……
ーザバァー
泉下よりアーリアと精霊女王は飛び出した。
アーリアと精霊女王とは手を取り合って、地上の楽園へと舞い戻った。アーリアの白き髪と、精霊女王の緑の髪がフワリと空中に靡く。まるで精霊女王が二人同時に顕現したかのような光景に地上にいた者たちは目を見開き、その美しい光景を凝視した。
精霊女王は先ずその虹色の瞳にリュシュタールの姿を捉えると、感謝の意を示した。
『リュシュタール。出迎えご苦労じゃ。大儀であった』
「構わぬ。寝坊助を起こすのは私の役目であるから……」
精霊女王相手にこの態度。流石にエルフ族、リュシュタールであった。精霊女王もそんな父の態度には慣れたものなのか、一々、咎めたりはしなかった。
次に精霊女王はエステルの皇帝と四人の皇子たちをその目に写した。
『精霊を崇めし一族。精霊女王の血を持つ者。永き刻を超える夢の民。エステルの子どもたちよ』
皇帝陛下を始めユークリウス殿下、エヴィウス殿下、キリュース殿下、ラティール殿下、そしてブライス宰相はその場に膝をついて頭を垂れた。
『この楽園を千年に渡り守るそなたらを我は誇りに思う。ほんに居心地の良い場所であった』
「有難きお言葉にございます」
『しかし、世界に枯れぬ木がないのと同じく【生命の木】も枯れゆく。命は巡るのが諚』
ミシ、ミシと『生命の木』から不気味な音が聞こえてくる。外は若木に見えるが、中は空洞になっているのだろう。なんとか千年、その命を繋いできたように思えた。
ー愛する子どもたちの為にー
『雛鳥たちよ、未来を見よ。さすれば精霊はそなたらに未来を示そう』
精霊女王はアーリアを地上ーーリュシュタールの側に下ろすと、『生命の木』に向かい唄を詠った。
『ー神来の森ー
ー生命の息ー
ー腕の水ー
ー禮拝の衣ー
ー永久の刻ー
ー永遠なる樹ー
ー巡り巡りて集え 我が精霊たちよー』
パシンと乾いた音が響き、『生命の木』に亀裂が入った。その亀裂はみるみる内に広がり、巨木は袂より爆ぜて虚空に消えていった。
「嗚呼ーー!」
皇帝陛下は驚愕も露わに、その光景を食い入るように見遣った。そしてその瞳から滂沱の涙を零した。その姿を目に留めて、精霊女王はその瞳を嬉しそうに細めた。
『生命は巡り巡り巡れば、また未来を紡ごう。ほら、このようにな……』
精霊女王は聖母のような笑みを浮かべた。精霊女王が指差す先には若木が。なんと、『生命の木』の袂から、若木が顔を覗かせていた。
「嗚呼、なんたる事か……!」
皇帝陛下は咽び泣き、地面に額を擦り付けた。
精霊女王はお茶目にもアーリアとリュシュタールに向かってウィンクすると、蝶のようにひらりと舞い上がった。
『その若木は生命の揺り籠ではない。しかし精霊の拠り所にはなろう』
精霊女王は再び同じ場所で産まれる事は決してないという。それは精霊が世界と共に巡る存在だからだ。
『だが、忘れるでないぞ?精霊は世界と共にある。世界を愛する民なのじゃ』
決して帝国だけに肩入れする事はない。そう言い切った精霊女王に、ユークリウス殿下は深く深く頭を下げた。
エステル帝国は精霊に傾倒し過ぎている。精霊を愛する事は勝手だ。しかし、精霊の愛は決して自分たちだけに与えられている特別なチカラではないのだ。自分たちエステルの民は時を経て、精霊を己の物と勘違いしてきた。その意識を変えねばならないのだ。
徐々にでも良い。変わろうとする事が大事なのだ。
ー導くのは俺の仕事だー
ユークリウス殿下はそう胸に誓った。
『では、さらばじゃ。人間の子らよ』
精霊女王はそう言うと、最後にリュシュタールの頬に唇を寄せアーリアに一つ抱擁をしてから、空へと舞い上がった。
精霊女王は数多の精霊たちを引き連れ天高く飛び立った。その跡には美しい虹の橋が空へと向かって掛かっていた。
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帝国の未来1をお送りしました。
精霊女王の解放と共に、帝国は新しい時代を切り開く未来を選びました。これからがユークリウス殿下はじめ、四人の皇子たちの時代です。
帝国の未来に幸多からんことを。
次話も是非、ご覧ください!