※裏舞台16※ 宰相の決断
窓のすぐ側を飛竜が横切り、窓枠を激しく揺らした。耳をつんざく咆哮。騎士たちの怒号。何処からか飛ぶ悲鳴。そのどれもが頭を悩ませる頭痛のタネだ。
宰相府にて飛竜対策に当たっていたイグニス公爵は、帝室からの呼び出しを受けたブライス宰相閣下がフラリと帰って来た所を捕まえた。
ブライス宰相閣下にはもう、先ほどまで宰相府で指示を出していた時のような苛烈な覇気はなく、その顔色は白を通り越して青くなっていた。イグニス公爵は宰相閣下の表情の変化に疑問を呈するよりもまず先に、ブライス宰相閣下が帝室よりどのような指示をーーまたどのような情報を得て帰って来たのかを尋ねた。やや急かして聞いた問いに対し、重い口を開いたブライス宰相閣下から齎された話は俄かに信じられないものであった。
「……その情報は、確かなのか?」
眉間に皺を寄せ怪訝な表情を見せるイグニス公爵の言葉に、ブライス宰相閣下は深い溜息と共に肯定を示した。
ブライス宰相閣下の機嫌はドン底。それは宰相閣下の眉間の皺の数を数えればすぐ分かる事だった。
「確かだ。恐れ多くも皇后陛下直々にお言葉を頂いた」
「それは……」
「なんと……」
イグニス公爵とライニー侯爵は驚きのあまり、口をぽっかり開けた。
皇后陛下は政治には介入しない。それがエステル帝国における暗黙のルールであった。しかしそれは皇后ーーつまり皇帝の伴侶が政治に無関心であっても良いという訳ではない。
皇后陛下は皇帝陛下の第一の側近として時に盾に、時に劔となり、皇帝陛下の精神と肉体をお守りし、お支えするのが仕事である。
皇后陛下は皇帝陛下の一番の理解者とあらねばならない。だがそれは、皇帝陛下に従順である事とは同意ではない。皇帝陛下がその道を違える時は身をもってそれを正すのが最も重要な役目なのだ。
「皇后陛下はこの事態の原因には、悲痛な面持ちであられた」
ブライス公爵は皇后エリーサ陛下よりの呼び出しを受け、直接お言葉を賜った。それはこのエステル帝国に於いて皇帝陛下に続くお言葉であった。しかも齎された情報が精霊に関係のある類のものであるなら、尚更、その信憑性は高かった。
皇后エリーサ陛下はユークリウス殿下の御生母。皇后陛下に流れる血は帝王に連なる深きもの。皇帝陛下とは従兄妹同士の間柄で、当然、精霊に愛されし血を持っておられる。ユークリウス殿下には皇帝陛下と皇后陛下の血が濃く現れていた。ユークリウス殿下の持つ深い紫の瞳がその証拠であった。
「この件には、キリュース殿下とラティール殿下にも関わりがおありになる」
「何⁉︎ あの殿下方もか?」
「ああ……」
苦い表情のブライス宰相閣下。目下、キリュース殿下とラティール殿下に脅され中、とは情け無くて口が裂けても言えない。なんと、双子の天使たちは宰相府の不正資料をネタに揺すってきたのだ。
『これを公に晒されたくなければ、兄上につけ』
……と。
それは以前、宰相府に入った鼠によって流出しそうになった『本物の書類』であったのだ。
「それで、貴殿はつくのか?ユークリウス殿下に」
「仕方がない。ーーいや、それしか方法はないであろう。何せ、この国の存亡がかかっているのだから」
エステル帝国が文字通り滅亡へと向かっている。千年の歴史に終止符を打とうとしているのだ。『多発する自然災害』『竜の暴走』には明確な原因があったのだ。
ーそれが『精霊女王の監禁によるもの』だ等と誰が思おうか⁉︎ ー
確かにエステル帝国は『精霊信仰国家』であり、精霊を神の遣いと崇めている。精霊は常に共にあり共に死ぬのがエステル帝国民の在り方だ。
だが、『精霊女王』は神にも等しき存在。その『精霊女王』を捕らえようなどとは、凡人ならば思いもよらぬ事であった。
帝王ギルバートと精霊女王が作った麗しの国エステル。精霊女王は帝王ギルバート亡き後も帝国に繁栄を齎した。
帝宮の中心部には女王の遺した『生命の木』があるという。その木は精霊を惹きつけ呼び寄せ、数多の精霊によるチカラはエステル帝国内に精霊の加護を満たしている。特に帝宮、帝都ウルトに精霊の気が濃いのはその為だとされている。
しかし『生命の木』は『精霊女王』同様、お伽話のように雲を掴む話だ。建国記で習う内容であっても、それらが存在を確信する者はあまりない。何故なら、その存在を己の生ある間に自分の目で確認する事など、出来はしないからだ。それは『千年の間に埋没した遺産ではないか?』とも言われているほどあやふやな存在なのだ。
しかしその例に漏れる存在がいる。
エステル帝国の帝室の住人ーー皇族はその存在を後世に伝える神の使徒。彼らはエステル帝国の宝を代々受け継いでいる。
帝室の住人、その最たる皇帝陛下が精霊女王を捕らえ『禁苑』にて隔離している。なんとも眉唾モノの情報だが、それを齎したのが皇后陛下ならば、疑うことなどない。
「陛下は何の為に女王を……?」
ライニー侯爵の呟きに即座に反応したのはブライス宰相閣下だった。
「決まっておろう。それは帝国の為だ」
皇帝陛下ほど精霊を愛し、帝国を愛している者はいない。そうブライス宰相閣下は確信を持っていた。生涯をかけてお仕えした皇帝陛下。陛下の御心が崇高なものである事をブライス宰相閣下は誰よりも知っていた。
ブライス宰相閣下の言葉にイグニス公爵も顎の髭を撫でながら強く同意した。
「儂は漸く確信を得た気がする。宰相殿もそうは思わないか?」
「確かに。精霊女王がこの帝宮におわすのならば、この精霊濃度の高さも、近年多発する自然災害にも納得がいくというもの」
この近年、エステル帝国内で多発する自然災害。今年は秋の豪雨に誘発された洪水、作物の不調は甚大を極めている。昨年は大寒波に見舞われた。一昨々年は干魃。続いて起こった自然災害に、エステルの大農耕地帯は大打撃を受け、常備蔵を解放しようと国民全員を食わす事は叶わない。いよいよ他国からの『食料輸入』に頼らねばならない状況だ。
近年は鳴りを潜めた他国との戦争だが、エステル帝国が食料難と知って仕掛けてくる国もあるだろう。これまで散々エステル帝国から仕掛けていたのだ。エステル帝国の国力が弱体化したと知られたならば、嬉々として攻めて来る国があると予想される。その中には隣国ライザタニアも含まれるだろう。
元々遊牧の民だったライザタニア国が軍事面を増強させ、他国を侵略せんとしている事は誰の目にも明らかなのだ。二年半ほど前にはシスティナへ一方的に攻め入ったという。その時、迫り来るライザタニアの脅威からシスティナを守ったのが『システィナの東の魔女』だというのだ。
その魔女は今、このエステル帝国にて皇太子殿下の婚約者ーー偽の姫を演じている最中だ。
「この時期にアリア姫が帝宮におられないのが、益々悔やまれますね!」
「陛下の腰巾着どもが!莫迦も休み休みにすれば良いもののッ!」
ライニー侯爵とイグニス公爵が同時に唸った。
システィナの姫アリアーーユークリウス殿下の婚約者は今、エヴィウス殿下の指揮する大山調査隊に組み込まれ、大山行きを余儀なくされ、3日前に帝宮を飛び立った所であった。今頃、大山の寒空の下、調査に赴かされている事だろう。
それもこれも、皇帝陛下の腰巾着と呼ばれる『中立派』貴族たちの策謀であった。彼らは皇太子からも見限られ、ブライス宰相閣下からも距離を置かれ、最早、政治に関心のないエヴィウス殿下を擁立するしか先がない状況にまで追い込まれていた。
『神聖精霊党』ーー通称『新党』と呼ばれる宗教組織が『中立派』貴族たちの背景にあるというのは暗黙の了解だ。エステル帝国でも一番過激な思想を持つ『新党』は、精霊女王を神と讃えている。
その『新党』は先日、第三、第四皇子たちを暗殺者に襲わせている。また噂ではユークリウス殿下やアリア姫にも、その手は伸びているという。
「大方、エヴィウス殿下にアリア姫を娶らせようという算段であろう」
自分たちが擁立するエヴィウス殿下に皇帝の座を勝ち取らせ、そして『精霊の瞳』を持つアリア姫を娶らせる。
「浅はかな!」
「無謀だとしか思えませんね!」
「どう言い訳するつもりか⁉︎ システィナがこの事態を知れば、流石に抗議の一つや二つ、あるというものをっ」
「そもそも女性にその身一つで大山へ赴けなどとは、正気の沙汰とは思えませんよ」
イグニス公爵とライニー侯爵の憤りは最もなもので、ブライス宰相閣下はそれを嗜める気にはなれなかった。ブライス宰相閣下とて憤っているのだ。それどころか、この問題山積みのエステル帝国に於いて、自国の利益の為ならぬ己の利益のみで動く輩など害悪でしかない!と滅殺したい気分満々であった。
『中立派』貴族たちーーいや『新党』の莫迦どもはエステル帝国の内情を蔑ろにし、政治をーー帝宮を己の富の為に私物化しようとしているのだ。
エステル帝国に半生をーーいや、人生を捧げて来たブライス宰相閣下からすれば、『巫山戯るな!』と叫ばざるを得ない状況なのだ。
だが、『精霊女王』を神と崇める『新党』ならば『精霊の瞳』を持つアリア姫をもその手中に収めようとするのは、考えに硬くないのも事実。
「難儀な姫だ……。次から次へと巻き込まれ……」
ブライス宰相は目頭を押さえながら呟いた。その苦痛な呟きにイグニス公爵とライニー侯爵はなんとも言えない渋い顔になった。
「だが……やはり輸入を頼るならばシスティナが良いだろうな?あの国は港もあり、食料も豊富。我が国とは恒久的な停戦も望んでいる」
「条件さえ合えば、システィナはこちらの要望に応えてくれるだろうが……。アリア姫の件で苦言を頂く事は必須。しかし……」
「ああ。ユークリウス殿下のして来られた政策がこうも功を奏すとは……。いくら精霊信仰を脅かそうとも、殿下のやり方を受け入れざるを得まい」
今、システィナ国との繋がりを持つのは帝国に於いてユークリウス殿下しかいない。
ユークリウス殿下がどこまで見通していたのかは分からないが、システィナ国との親善目的でシスティナの姫を娶るパフォーマンスも、今となっては誰も馬鹿にする事ができず、それどころかその事実がエステル帝国の今後を左右する命綱ともなる現実に、ブライス宰相閣下は目眩を覚えてならなかった。
「ユークリウス殿下はどこまでーーいや、いつからこの事態を見通しておられたのかッ……!」
ブライス宰相閣下は額を押さえて瞑目した。ここまで来ると、自分がユークリウス殿下の才覚を見誤っていた認めざるを得なかった。
システィナ国の王太子との繋がり、親善目的の婚姻を望みバックをつけ、対抗勢力を潰し、精霊信仰国家に魔術をーー魔宝具導入を検討している。
それは全てエステル帝国の未来の為、エステル帝国をこれから千年先も存在させる為の政策だ。
「エステル帝国を私たち代で滅ぼす事などあってはならん」
それはエステル帝国の貴族官僚ーーいや国民の総意だ。宰相府は政治機関の最高峰。その長たるブライス宰相閣下の双肩には、エステル帝国何千万人もの命がかかっている。一つの判断ミスも許される立場ではないのだ。
ブライス宰相閣下は腹を括ると、椅子から立ち上がった。
「ブライス宰相殿、どちらへ参られるのか?」
イグニス公爵の言葉にブライス宰相閣下は振り返る事なくハッキリと答えた。
「未来の皇帝陛下の下へ」
その背には最早、迷いも憂いもありはしなかった。
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裏舞台16 をお送りしました。
ブライス宰相閣下は帝国の未来の為に決断を下しました。苦渋の決断。それは忠誠を誓う皇帝陛下を慮ったが為のもの。
しかし、これでユークリウス殿下は最後の鍵を手に入れた事になります。
次話も是非ご覧ください。