舞踏会の終わり
舞踏会の会場であったルスティル公爵邸は、先ほどまでの煌びやかな雰囲気は既になく、ルスティル公爵ワイルナーの捕縛という事実に一時騒然となった。
自分勝手な理由を喚き散らしていたルスティル公爵令嬢リアナの姿も、もうそこにはなかった。リアナ嬢は父ルスティル公爵同様、ユークリウス殿下の叱責に顔を青くして、騎士たちに連行されていった。また、ルスティル公爵家で働く者たち全員が捕縛の対象となった。一旦全員を精査する必要があったのだ。
そんな中、アーリアは急に力が抜けたてしまったかのように、突然、膝に力が入らなくなってしまった。カクンと膝を折ったアーリアをリュゼが腰と肩とに手を回して、膝が床につく前に身体を支えた。
「おっと!姫、大丈夫ですか?」
今まで気力だけで何とか身体を支えていたアーリアも、ユークリウス殿下の登場、そしてリアナ嬢とルスティル公爵の捕縛に気が抜けてしまったのだ。
アーリアは強い眠気を振り払うように頭を数回降ったが、一度気が抜けてしまった身体は、襲い来る強烈な眠気を追い払う事などできそうになかった。
リュゼがアーリアの顔を覗き込むと、そこには何とも眠そうでいて、トロンとした目をした顔があった。そしてリュゼは「ムリ」、「眠い」などと珍しく弱音を吐いて俯くアーリアのその呟きを耳にして、小さく肩をすくめて苦笑した。
「アリア、大丈夫か?」
騎士たちに指示を出していたユークリウス殿下も、アーリアのそのグッタリとした様子に気を掛けざるを得なかった。リュゼに支えられて何とか立っているアーリアの元に歩み寄ると、膝を曲げてアーリアの顔を覗き込んだ。
「殿下、姫は大丈夫ですよ。これはワインを飲んだ所為ですから……」
「ああ、成る程……」
「これでも頑張っている方だと思いますよ?以前は酒を飲んですぐに撃沈していましたからね」
睡魔に思考が停止し反論する気も起きないアーリアは、黙って二人を睨みつけた。だがその視線には何の威力もない。寧ろ、その火照った頬に蕩けた目元は返って変な色気を伴っている。
ユークリウス殿下はアーリアの頬に手を添えて小さく囁いた。
「すまなかったな」
アーリアを囮に使った事を謝っているのだろう。それが分かったアーリアは、首をゆるゆると振った。
アーリアがユークリウス殿下の囮である事は、ユークリウス殿下の偽の婚約者となった当初から決められていた必須項目。アーリアはそれを納得し、囮と自覚した上で行動していた。だからユークリウス殿下に謝られる事など何一つないのだ。
しかし、それをアーリアがユークリウス殿下に伝えようにも、口を開く元気も気力も全く残っていなかった。
「リュゼ殿、姫を表の馬車へとお連れください」
アーリアの様子を見兼ねたヒースが、リュゼに言った。
「了解。あ、でも……」
「分かっています。騎士の貴方では同じ馬車には乗れない。殿下もココが片付いたらすぐにお戻りくださいね」
その言葉にリュゼは勿論、ユークリウス殿下も納得していた。アーリアをこの場に置いておく訳にはいかないが、一人きりで帝宮へ帰らす訳にもいかなかったのだ。
「姫、失礼しますねー?」
リュゼは一応の了解を取ってアーリアの肩を抱き、膝裏に手を入れて、ひょいっと抱き上げた。抱き上げられたアーリアの膝を隠すように、ユークリウス殿下が自身の上着をかける。
「すぐ行く。それまで頼む」
リュゼはユークリウス殿下の言葉に苦笑した。
アーリアを守るのは本来ならば護衛騎士であるリュゼの仕事で、ユークリウス殿下に頼まれるまでもないこと。リュゼは今では仕事など関係なく、己の意思でアーリアの事を守りたいと思っていた。
しかし、帝国では身分と立場とが邪魔をして、リュゼの思う通りにアーリアを守れない現実があった。しかも、今のアーリアの立場は『ユークリウス殿下の婚約者』。そして自分の立場は『アリア姫の護衛騎士』だ。その段階で既にユークリウス殿下に勝ちを譲っているのに、このようにユークリウス殿下から婚約者を託される言い方をされると、余計にリュゼの心を騒つかせるのだ。
それでもリュゼは、ユークリウス殿下を嫌いにはなれなかった。ユークリウス殿下とヒースには恩があると自覚していたからだ。加えて、ユークリウス殿下には冷徹な判断を平気に下す面がある一方、時に驚くほどの愛情を示し、良き保護者ぶりを発揮する面がある事に、リュゼは気づいてしまっていた。
ユークリウス殿下は当初、アーリアを囮に使う事に何の躊躇いもなかった筈だ。しかし実際にアーリアを囮に使う中で、小さな罪悪感が生まれてしまったのではないだろうか。少なくともリュゼにはそう思えた。難儀な人だ、とリュゼは内心首をすくめた。
リュゼは「了解」と簡素に返答すると、アーリアを腕に抱いて玄関ホールを目指した。
アーリアを腕に抱いたリュゼが廊下を行くと、何人もの近衛騎士がすれ違いざまにギョッとした表情を見せた。しかし、どの騎士も二人の姿に一度は目を瞬かせ、その後には苦笑して道を譲っていった。どうやらアーリアが酒に弱いという事実は、第8騎士団に知れ渡っているようだ。
それは勿論、ヒースの指示であった。舞踏会に於いて一般客として紛れ、アリア姫の護衛を受け持っていた騎士たちは姫を影から見守り、酒が配られぬよう細心の注意を払っていたのであった。
「リュゼ、これ、はずかし……」
「恥ずかしかったら目でも閉じてなよ。それに姫、今物凄く眠いんでしょ?」
「うん……」
「寝てていーよ。もう帰るだけなんだしさ。ちゃーんと側で見張っててあげるから!」
今にも落ちそうな意識の中、アーリアはリュゼのその態度と言葉に文句が言いたくなった。そして眠さのあまり、本来の口調でリュゼを責めた。
「リュゼ、さっきはいなくなったじゃない……」
「ん〜〜アレはね〜〜。言い訳してイイ?」
「ダメ」
「え〜意地悪!あ、意地悪は僕かな?ほら僕ってさ、長い物に巻かれる性格してるでしょ?だからさ〜〜」
「それ、知ってる」
珍しくアーリアは「何を今更」とプンスカ怒り出した。そのいつになく幼子のようなアーリアの仕草に、リュゼは漏れ出そうになる笑いを堪えた。
眠い+酒=幼児化しているのかも知れない。『ヤバイ。ソレ、可愛すぎるっしょ?』ナドとリュゼが内心思っている事など、本人には秘密だ。きっと今言っても本気には取られないに違いない。
「アレはさ〜〜突然現れたあの兄さんがいけないでしょ?」
「……?エバンス?」
「あの兄さん『エバンス』って言うの?へぇ〜〜」
リュゼはアーリアにやたらイチャイチャと絡んでいた優男を思い出していた。青年紳士のアーリアに対しての余りのベタつき振りに、リュゼは青筋を浮かべて止めに入ろうとした所、何故かカイトに制止されてしまったのだ。カイトからその事情は詳しくは教えられはしなかったが、『エバンス』という名が偽りの名だと言う事をリュゼは知っていた。しかし彼はその偽名以前に、近衛第8騎士団からしてみれば、要注意人物だったようだ。
まあ、エバンス(偽名)の存在のおかげで、アーリア(=アリア姫)は目立ち過ぎず丁度良かったのではないか、とも捉えられる。リュゼが側にいれなかった分、エバンス(偽名)がアリア姫を守っていたとも取れなくはない。が、しかし……
「あのイチャつきっ振りはイタダケナイけどさッ」
思わず心の声がダダ漏れていたリュゼにアーリアが小首を傾げたが、リュゼは「何でもないよ」と笑顔で返した。
「それにさ。『馬を水辺に連れて行けはしても、水を飲ませる事はできない』って言うでしょ?」
「……?」
「リアナ嬢とルスティル公爵からしてみれば、ものすっごく焦ったんだろーね?アリア姫に何を仕掛けても上手く引っかかってくれないからさぁ……」
「よくわからない……」
「まぁ、もうイイじゃん?終わったコトなんだしさ」
リュゼは玄関ホールを抜けて正面に待機してある馬車の御者に目配せした。馬車の側面には帝宮の紋章があり、一目で皇太子殿下の馬車だと分かった。
御者はアリア姫の姿に目を留めると恭しく頭を下げ、馬車の扉を開けた。
リュゼは腕の中のアーリアごと馬車に乗り込むと、赤いベルベット生地の敷かれた長椅子にアーリアを横たえた。そしてアーリアの姿が外から見えぬように、後ろ手で馬車の扉を半分閉める。
「リュゼ……私、まだ、言いたいことが……」
アーリアはゆっくりと瞬きをしていたが、遂には瞼を開けている事が億劫となっていった。
「明日、いくらでも聞いてあげるよ?子猫ちゃん」
そう言うとリュゼはアーリアの頭に手を置いて、そっと撫でた。前髪が目にかからぬように梳き、横髪を流して、額を何度も何度も繰り返し撫でる。アーリアの頭を撫で続けるリュゼの顔には、いつものにやけた笑みではなく、愛おしい者を見つめる柔らかな笑みが浮かんでいる。
「さぁ子猫ちゃん。もうお休みの時間ですよー」
いつもよりずっと優しいリュゼの仕草、そしてその柔らかな声音に、アーリアは抗えずに目を閉じた。アーリアはリュゼの温かな手の温もりを感じながら、ゆっくりと意識を手放した。
「よく頑張ったね。おやすみ、僕の姫」
リュゼは眠りに落ちたアーリアの額に一つ、唇を落とした。
※※※※※※※※※※
どれくらい経ったのだろうか。ガタガタと揺れる振動でアーリアは重い瞼を開けると、そこは薄暗い室内だった。頭の下と肩に置かれた大きな手が暖かい。もぞっと身体を動かすと頭の上から柔らかな声が降ってきた。
「ん……どうした?」
「……?」
「まだ寝ていて良いのだぞ?」
アーリアがゆっくり瞬きしながら見上げると、そこにはやけに整った青年の顔があった。暫くして、その青年がユークリウス殿下だと気づいたアーリアは、のろのろと起き上がろうとした。だがそのアーリアをユークリウス殿下の手が軽く押し戻した。
「そのまま寝ていろ。疲れただろう?」
ユークリウス殿下は押した手でそのままアーリアの前髪を撫でるように梳いた。その優しい手つき、ユークリウス殿下の指先から伝わる温もりに、アーリアはまたウトウトとし始めた。
「……すまなかったな。お前を囮に使った。罠だと分かっていたんだ。俺をおびき寄せる為の罠だと……。だが分かっていて、誘いに乗った」
帝宮に賊の侵入があったこと。
その賊は自分を帝宮に呼び寄せる為の布石であること。
アリア姫から自分を引き離し一人にすること。
真の狙いはアリア姫の命であること。
仕組んだ者はルスティル公爵家当主ワイルナー。
彼は実の娘リアナをユークリウス殿下の妃ーーしかも皇太子の正妃にする事が狙いであった。己が将来の皇帝陛下の義父となる為に。
その為に娘のリアナに皇太子の正妃となるべく教育を施したのだ。
その教育は洗脳と呼べるものだったのだろう。リアナ嬢には『お前こそが皇太子の正妃に相応しい』と何度も呟き、刷り込みのように思い込ませていったに違いない。
リアナ嬢本人は父ルスティル公爵に洗脳されたという自覚はなかったのだろう。リアナ嬢は『自分こそが皇太子の正妃に最も相応しい』と言ってはばからなかった。そして遂には『恋い焦がれている』と言うユークリウス殿下にさえ食ってかかったのだ。
いや、もしかしたら父ルスティル公爵の思惑にリアナ嬢が気づいていた可能性はある。リアナ嬢には自分のワガママが全て通る居場所が必要だったのだ。父ルスティル公爵という自分のワガママの通る人物も。彼女は実に自分に正直な令嬢であったと言えよう。
リアナ嬢はルスティル公爵ワイルナーの思惑通り、皇太子の正妃となる為の障害を取り除く為、行動を開始した。
それがアリア姫の排除だ。
初めはアリア姫の殺害までは思い至っていなかっただろう。手紙や噂といったものを使ってアリア姫の存在を貶め、アリア姫が『皇太子の正妃に相応しくない者』と帝宮(=政治機関)に思わせたかったに違いない。それが成功していたならば、帝宮はアリア姫を拒絶し、アリア姫をシスティナ国へ送り返す事となっていた筈だ。
だが実際にはその思惑通りにはならなかった。だからリアナ嬢の計画は残忍さを増していったのではないだろうか。
リアナ嬢にはそうするしかなかったのだろう。一旦初めてしまったその計画を、途中で止める事などできはしなかったのだから。
舞踏会でリアナ嬢はアリア姫を貶める為、招待状を舞踏会の直前に送った。貶める為にユークリウス殿下をアリア姫から引き離した。だが言ってしまえばそれだけだった。この段階でリアナ嬢がアリア姫の殺害まで考えていたかは定かではない。
しかし、ルスティル公爵ワイルナーの方はここに来て、無謀な策とも言える行動を起こした。
ワインに毒を混ぜたのだ。
自分の振る舞ったワインを飲んでアリア姫が死んだその後、ルスティル公爵はどのように弁明するつもりだったのだろうか。真意は分からない。その未来は潰えたのだから。
「知ってた……平気……気にしないで……」
額を撫でるユークリウス殿下の手の温かさに、アーリアはゆっくりと目を閉じていった。ユークリウス殿下の手の温もり。優しく撫でられると、とても気持ちが良かった。幼い頃に師匠に撫でてもらった手を思い出した。
アーリアはユークリウス殿下の策に乗ったあの日から彼の手駒だ。囮なのだ。
アーリアはユークリウス殿下の本当の思惑を知らない。アーリアはユークリウス殿下の味方ではないからだ。
アーリアはシスティナの所属だ。アーリア自身にシスティナに所属しているつもりはないが、立ち位置はそうなのだ。だから、ユークリウス殿下がアーリアに教えられる事には限りがある。
それはアーリアにも同じ事が言えた。ユークリウス殿下にシスティナの事ーー例えば『塔』の《結界》の仕組みなどーーは教えられる筈がない。
そういう事なのだ。
アーリアはユークリウス殿下の思惑など知らなくても良いとも思っていた。役割を熟す事に、命令を下した当人の思惑など関係がないからだ。アーリアは自らユークリウス殿下の思惑に乗って、望まれた役割を果たす。今はまだ、それだけで良いのだから。
裏で、アーリアの知らない計画がある事など当たり前なのだ。それはアーリアも、そしてリュゼも百も承知だった。
「役割、だから……」
「……そうか。それでもアーリア、お前に感謝を」
吐息と共に柔らかな感触が頬に降りた。
アーリアはそれが何かを考えるより先に、また意識が沈んでいった。
お読み頂きまして、ありがとうございました!
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舞踏会が無事?終了しました。
アーリアはよく耐えたと思います。
リュゼの揺れ動く想い。
ユークリウス殿下の変化する想い。
今後どうなるのか、それは当人にしか分かりません。
次話も是非、ご覧ください!