舞踏会1
ー舞踏会ー
それは上流階級の社交の場。
参加者は燕尾服やイブニングドレスなどの夜会服を着て舞踏会に参加し、社交を深める。招待の際には正式な礼服や準礼服などドレスコードが指定されている。
エステル帝国の舞踏会では仮面をつけた仮面舞踏会が流行りであった。仮面は身分素性を隠す為ではなく、仮面を着けて精霊へと成り切るのだそうだ。その為、身につける仮面や衣装は精霊を模した物となっている。
今宵、仮面舞踏会の会場となるのはルスティル公爵邸。帝都ウルトの一等地、帝宮にもほど近い場所に建てられているその屋敷は、公爵家に相応しい堂々たる佇まいであった。バルコニーから見える大庭園は壮大で、噴水から吹き上げられる清水が美しい軌跡を空に描いている。夜空の中であっても月明かりに照らされたそれは、更に幻想的な雰囲気を醸し出してした。
アーリアは舞踏会の会場である二階の大広間、そのバルコニーにて噴水から巻き上げられる水飛沫を眺めていた。その目線は如何にも気怠げであったが、周囲の者からは『憂いを帯びた姿もまた良い』などと囁かれていた。
アーリアの気分は贔屓目に見ても最悪だった。一言で言えば『帰りたい』。これに尽きよう。
ルスティル公爵令嬢より舞踏会の『招待状』が送られて来たのは、本日より二週間前であった。通常ならば一月は前に齎されなければならない『知らせ』であるにも関わらずだ。
たかが舞踏会。されど舞踏会だ。貴族にとっては重要な社交の場。仮面舞踏会に参加となると衣装の準備にも時間がかかるのだ。その為、主催者側は通常一月前までに招待状を送るのが慣例である。
それなのに二週間前に招待状を届けるとは、なんと常識外れなことか。
さすが『悪役令嬢』と言わざるを得ない。
今や公爵令嬢リアナの名はユークリウス殿下の仲間内では『悪役令嬢』として名が通っていた。彼らーー殿下と殿下の忠犬たちーーは殺意を通り越して最早呆れ果てている。
『呪いの手紙』に始まり『誹謗中傷の噂』、『茶会での謀』、『暗殺未遂』ときての『時期を逸した舞踏会へのお誘い』である。リアナ嬢は典型的な悪役っぷりを発揮しているといえた。
当初より破綻している計画であっても、リアナ嬢はまだまだめげていないのだと伺えた。何とかアリア姫を陥れたいとするその意気込みにはガッツすら感じる。リアナ嬢当人が『全ての元凶』であるとユークリウス殿下率いる陣営には知れ渡っているのに、だ。本人はまだ自分の仕出かした悪事がバレていない、若しくは自分の身分故に見逃されている等と思っているのだろうか。
だが、それは検討が甘いというもの。
本来、皇族(王族)相手にこのような非道を行うなど、許されはしない。暗殺を企んだ段階で『死罪』確定である。
だがその悪業を知るユークリウス殿下が皇帝陛下へと奏上していない為に、罪が免れているだけに過ぎない。罪に対し罰を下すのは、皇帝陛下の務めなのだから。
皇帝陛下を始め帝宮の上層部ーー特に司法官たちはこの情報を掴んでいるだろうと、ユークリウス殿下はその可能性を示唆していた。彼らはこの事態を知っていて黙っているのだ、と。ユークリウス殿下が然るべき時を待っているように、皇帝陛下も然るべき時を待っているのではないか。それがユークリウス殿下の考えであった。
舞踏会まで二週間という間際に招待状を送ってきた公爵令嬢リアナ。彼女はアリア姫が舞踏会の衣装の準備が当日までに間に合わず、恥をかくことを望んでいるようであった。
そもそも王族であるアリア姫に対し時期を逸して齎された招待状など、突っぱねてしまっても良かった。『無礼な』と。だが、それもリアナ嬢にとっては計画の内ではないかと考えられた。その上で更に良からぬ悪巧みを練っている可能性もあったのだ。
アリア姫が最も効果的にリアナ嬢を追い落とすには『舞踏会に何食わぬ顔で参加する』こと。これに限られた。
しかし衣装が用意できなければ、そうもいくまい。
エステル帝国の仮面舞踏会には衣装の規定があったのだ。それは通常の舞踏会とは異なり、足首まで隠した裾の長いドレスではない。『精霊を模して』が主題となるエステルでの仮面舞踏会では、なんと淑女が通常隠す足首と脛を見せる丈のスカートが好まれていたのだ。
精霊を見たことのある者なら誰でも知っている事なのだが、精霊は膝上までのワンピースのようなものを纏った美少女または美女姿が多い。さすがに膝上丈は貴族令嬢として頂けないのだが『せめて足首を』となったそうだ。それでも大概だとアーリアは正直思った。変な催し物だと言わざるを得ない。
だがそう馬鹿にもしてはいられなかった。
ドレスは通常のスタイルの物とは異なる為、全てが特注となる。そこをリアナは突いたのだろう。
ドレスも用意できぬシスティナ産の姫を田舎者、と嘲笑いたかったに違いない。
アーリアもその事情を聞いた時、二週間で仕立て上げられるとは到底思えなかった。思わず頭痛が走ったほどだ。
だがその心配も杞憂に終わった。
何と、皇帝陛下より舞踏会専用のドレスを賜ったのだ。しかもそれを持って皇太子宮ーーアーリアの元へ来たのはブライス宰相閣下であった。
ブライス宰相閣下から笑顔で手渡されたドレスの箱を前に、皇族教育を施されたアーリアもどう反応して良いのかが分からなかった。どうにか笑顔を作って『有り難く存じます』と定型文を口にすると、ブライス宰相閣下は実にイイ笑顔で頷いたのである。
あの笑顔の意味が未だに分からない。アーリアの隣ではユークリウス殿下が爽やかな皇子顔を僅かに引攣らせていた事も。
要するにドレスの件はどうにかなってしまった。
だからと言う訳ではないが、ルスティル公爵家主催の仮面舞踏会にも参加せざるを得なかった。
ーーいや皇帝陛下よりドレスを賜った時点で不参加などできはしなかった。あれは『舞踏会に参加せよ』という皇帝陛下と高官たちからの無言の圧力であったのだ。
そして今宵アーリアはアリア姫に扮して仮面舞踏会へやって来た。
アーリアは羽扇で口元を隠しながら、もう何度目になるか分からない溜息を吐いた。
仮面舞踏会には社交界デビューを終えた貴族令嬢・令息なら誰でも参加できる。現に今、この会場には老若男女、数多くの貴族たちが集まっていた。
中央はダンスホールになっており、そこでは管弦楽の音楽に合わせて美しい令嬢たちが紳士と共に軽やかな舞を披露している。その周囲にはテーブルが設けられ、軽食が取れるようになっていた。白と赤のワインを配る給仕の姿もちらほら見えた。
何と煌びやかな世界だろう。
システィナ国では平民の魔導士でしかないアーリアは、このような世界を物語の中でしか知らない。まさか自分が体験する日がこようとは思いもよらなかった。だが実際にこれが仕事、それも義務になると苦痛でしかないものだ。
煌びやかな世界。でも、それはマヤカシ。幻影だ。ここは思惑渦巻く魔窟なのだ。
現実を知ってしまったアーリアは『これ以上夢を抱くのは止めよう』と思った。夢を見て傷つくのは自分なのだから。
アーリアは再び溜息を吐くと、ユークリウス殿下の去って行った扉の方に首を巡らせた。
そう。アーリアの隣にはユークリウス殿下の姿はない。
夜会や舞踏会にはペアが必要だ。淑女には紳士が必要なのだ。それが常識である。
アリア姫はユークリウス殿下の婚約者。勿論、アリア姫はユークリウス殿下にエスコートされてルスティル公爵家へと足を運んだ。しかし会場にて主催者ルスティル公爵とその娘リアナ嬢へと挨拶を終えた後すぐに、ユークリウス殿下は帝宮より呼び出しを受けたのだ。
『帝宮に侵入者あり。すぐにお戻りを』
その報にユークリウス殿下は怪訝な表情を浮かべた。
帝宮の警備に当たるのは近衛騎士たちの職務だ。その采配は近衛騎士団長に一任されている。エステル帝国では青騎士(一般の騎士)や兵士は軍務に所属しているが、近衛騎士団は独立した機関だ。その立ち位置は軍の上にある。
帝宮に不審者が侵入したのならば、近衛騎士団が総意を上げて引っ捕らえるだろう。それは皇族の意見や指示を受けるまでもない事だ。通常ならば皇太子ユークリウス殿下を呼び出す事はない。
それなのに舞踏会に参加しているユークリウス殿下を呼び出す理由。それは一体『何』を意図しているのかーー。
ユークリウス殿下は不信感を覚えつつも、その報に従わざるを得なかった。その報が宰相府より齎されたものだったからだ。
ユークリウス殿下は政治の世界に所属している皇族の一人だ。政治の世界では制度と各尚庁の権限が優先される。例え皇太子だとしても制度を侵すことはあってはならない。強大な権限をその身分により有してはいるが、だからこそ権限を振るうのは限られた事態のみ。
ユークリウス殿下は宰相府よりの報を完全に無視する事が出来なかった。確認の意味にもユークリウス殿下は一度、帝宮へ戻る必要があった。
本来ならば、ユークリウス殿下の婚約者であるアリア姫も一緒に退場するのが筋であった。だがそれは棄却されてしまった。
『帝宮に侵入者が出たのならば、アリア姫を帝宮から遠ざけておいた方が安全ではないか』
『ならば我が屋敷に於いてアリア姫を保護させて頂きたい』
ユークリウス殿下が退室の挨拶をした際、ルスティル公爵本人からそのように提案を受けた。これに関してもユークリウス殿下は深い不信感を覚えたのは言うまでもない。だがルスティル公爵以下、他の貴族たちからも同じように言われてしまえば、流石のユークリウス殿下も強く突っぱねる真似は出来なかったのだ。
それが罠の一つだと分かっていても。
ユークリウス殿下は不安そうなアーリアを一人残してルスティル公爵家を後にした。
今になってアーリアは『無理にでも一緒について行けば良かった』と考えていた。
『アリア姫』であるアーリアの側には、参加者に混じって近衛第8騎士団の者が潜んで警護を担当している。だが、それはあくまでも警護であり、人目に付かない事が前提なのだ。必然的にアーリアは一人で取り残されている状態が出来上がってしまっていた。
システィナ国より皇太子殿下との婚姻の為に単身エステル帝国へと参ったアリア姫には、エステル帝国内に知り合いなどはいない。『アリア姫』の偽装工作上の設定の為だ。
アリア姫は王家の血は引く姫。しかし近年まで辺境伯の領地で暮らしていた為に社交界には明るくない、となっているのだ。
またアリア姫は皇太子殿下の婚約者。皇族との婚姻を控えた姫なのだ。ユークリウス殿下の噂も相俟って迂闊に声をかけてくる強者はいなかった。
しかしその実は他の意味も含まれていた。
精霊を模した柔さな色合いのドレスを身に纏い、細く美しい足首を晒したアリア姫の姿にーーその可憐な美少女の佇む様に誰もが溜息を飲み、声をかける勇気ある紳士がいなかったのだ。
アリア姫の仮面から覗く瞳は不思議な魅力を含んだ虹の宝石。緩く編んだ金の髪の隙間から覗く白い首筋は、異性の目を釘付けにしていた。そしてその憂いを帯びた表情に庇護欲を掻き立てられた貴族令息も多い。
貴族の装いになって護衛を受け持つ近衛騎士たちがさりげなくその視線から庇おうと動くが、それは逆効果になってしまっていた。
人は隠されたモノを暴きたい本質を持っている。
本当なら『紳士に置いていかれた可愛そうな娘』になるところが、大誤算。一躍、注目の的となっていたのだ。
アーリアは自分が周囲からそのように見られている事など、想像だにしていなかった。アーリアの中にある本心はただ一つ『早く帰りたい』、それに尽きるのだから。
近衛騎士ヒースに習った社交ダンスであったが、披露せずに済むのならそれに越した事はない。そうアーリアは思っていた。社交ダンスだけは他の教科と違い、ほぼ毎日、取り組んできた。しかしその練習量に反比例して、ダンスへの自信は降下していったのだ。いくらヒースから『随分とお上手になられましたよ』と褒められても、それは社交辞令なのだとしか思えなかった。
アーリアの中にある傷ーーリュゼに『カニみたい』と罵られ大爆笑された事での心の傷は、決して癒えることはなかったのだ。
「あ、あの……!」
物思いに耽っていたアーリアの意識を引き戻したのは一人の若者の声だった。
「はい……?」
「お嬢様、一曲如何でしょうか⁉︎」
燕尾服に身を包んだ年若い青年ーーといってもアーリアとは同年代だろうーーは、若干上擦った声でアーリアをダンスへ誘ってきた。仮面の上から見ても分かるほど顔を赤らめているその貴族令息は、腰を90度に曲げてアーリアへと手を差し伸べてきた。
青年貴族の背後では「アイツ行きやがった!」、「抜けがけずりーよ!」、「サッサとフラレやがれ!」といった声が上がっている。どうやらこの貴族令息はこの場の空気を読まず、一人抜けがけしてきたようだった。
周りの騒がしい雰囲気にも、貴族令息たちがクスクス笑う仕草にも、貴族令嬢たちの羽扇の中にある含み笑みにも。その全てにアーリアは心底呆れ、ドン引きしていた。
この貴族令息の申し出を受けても断っても、結果は同じとなるだろう。
アーリアが踊っている間にまた違うアクションが起こる筈である。いや、必ず起こるだろう、と確信にも似た思いを持っていた。彼女ーーリアナ嬢はまだ諦めていないのだから。
アーリアがこの申し出を取りあえず断ろうと口を開けかけた時、貴族令息の背後より一人の紳士が割って入ってきた。
「ーー私が先約だ。君は姫とのダンスを諦めてくれないかな?」
騎士のような機敏な動き。背筋のピンと伸びたスタイルのいい身のこなし。漆黒の燕尾服姿だが、その所々に施された刺繍から高級感が醸し出されている。だがそれが決して嫌味に見えず、青年紳士には大層似合っている。
仮面の中からは意志の強い瞳が輝き、貴族令息に向けて威圧を放っていた。
その紳士はアリア姫(=アーリア)と貴族令息との間に割って入ると、アリア姫の前に跪き、その白い手を取ってそこに唇を落とした。
「アリア姫。私と一曲、踊って頂けますか?」
画面の中に光る美しい瞳。妖艶な色気を放つその紳士の仕草に、アーリアは驚きのあまり手の中にあった羽扇を取り落としていた。
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舞踏会1をお送りしました。
ついにアーリアのダンスがお目見えになるのでしょうか?
アーリアに手を差し伸べたのた紳士の正体は?
次話も是非ご覧ください!