静けさの向こうに
システィナ国からエステル帝国へ『夜会』の為に訪れていたウィリアム殿下一行たちが帰国された。それまで賑わっていた応接室には波打つ夜の浜辺のような静寂が戻ってきた。
無言で応接室の机や椅子を元の状態に戻した騎士たちは、ヒースの指示で再び行動を開始する。
「アーリア、今宵は本当に良くやってくれた。お前の助力に感謝する」
ユークリウス殿下はアーリアに礼を述べ、その端整な顔に笑顔を浮かべた。
「合格、ですか?」
「ああ、合格だ」
アーリアがおずおずと尋ねるとユークリウス殿下は強く頷いた。
今宵の夜会。アーリアの『システィナ国のアリア姫』という役割は完璧に近い活躍を見せた。
焼き付け刃だと思えた礼儀作法に粗は見えなかった。それどころかアーリアの精霊を惹きつける瞳、集う精霊たち、そして持ち前の容姿も相俟って、逆に神秘的に見えた程だった。
アリア姫が偽の姫だと知る者たちも存在する中、誰も彼女を『偽物の姫だ』と騒ぎ出す者はいなかった。
それは誰かの指示だった可能性もある。しかし『精霊に愛される瞳』を持つアリア姫を害する気持ちを、エステル帝国に属する者は誰も持てなかったのだろう、とユークリウス殿下には思われた。
ここは『精霊信仰国』なのだから。
その上でアーリアの『アリア姫』としての振る舞いが、正しく『姫』であったこと。それがエステル帝国貴族たちの浅はかな策謀を起こさせない要因となったのではないだろうか。
だが、それとは別の思案と疑惑がユークリウス殿下の中に沸き起こっていた。
ユークリウス殿下の弟殿下たちがあの夜会会場に於いて、自分たちに一切その姿を見せなかった。ーーいや、参加していなかったとは限らない。帝宮主催の夜会だったのだから。彼らは会場内のどこかに居たのかも知れない。しかし、自分とアリア姫の前に挨拶に来る事はなかったのだ。
それは『誰の』思惑だろうか……。
「ではこれで、アリア姫は退室しても構いませんよね?殿下」
リュゼはアーリアの背後からそっと近づくと、アーリアの両肩に手を置いた。ユークリウス殿下はリュゼの言葉とその意図を汲むと一つ頷いた。
「ああ、話は一段落した。アーリアの退室を許可する。そのまま自室にて休んでもらって構わない」
ユークリウス殿下はアーリアの頬に手を添えると、いつになく優しい微笑みを浮かべ「ゆっくり休め」と声をかけた。
アーリアはユークリウス殿下に笑顔を向けて頷いた。
「じゃあ、そういうコトで!」
「ーーリュゼ⁉︎ 失礼します、殿下」
リュゼはそんなアーリアとユークリウス殿下の甘いやり取りを無視して、アーリアの背を軽く押すと、応接室から強引に退室させた。
ユークリウス殿下はそれに苦笑するだけで、リュゼのやや不敬な行動を止めようとはしなかった。
騎士たちの指示を出すヒースの間を抜けて歩くと、騎士たちはアーリアに軽く頭を下げて労いの言葉をかけていく。ヒースはリュゼと目線を交わすと、その意図をすぐさま理解したようだった。
「あ、ちょっ、ちょっと⁉︎ リュゼ?」
リュゼはアーリアの抗議の声を無視して人波を抜け、居住スペースのある宮へと歩みを進めた。
廊下をいくつか曲がって騎士たちが居ない場所まで来ると、アーリアの手を引いて歩いていたリュゼが突然足を止め、背後にいるアーリアへと振り向いた。そして徐にアーリアの両肩にポンと手を置いた。
アーリアを見つめてくるリュゼの顔にはいつものヘラヘラした笑顔はなく、嫌に真面目な表情だ。
「子猫ちゃん」
「ハイ⁉︎ 」
アーリアはいつもとは違うリュゼの様子と声音に驚き、上擦った声を上げてしまった。その内心は『何か怒られるようなコトしたかな?』と胸をドギマギさせていた。
「足、もう限界でしょ?」
「……はい?」
リュゼはアーリアの前にしゃがむと、いきなりドレスのスカートをペロンとめくり上げたのだ。スカートの隙間からはアーリアの細い足首が見える。
「〜〜〜〜⁉︎ 」
「あ〜〜やっぱり〜〜!めちゃくちゃ腫れてんじゃん!」
「〜〜リュゼ⁉︎ ちょっと!何して……⁉︎ 恥ずかしいから! 」
「いーからいーから、ハイ、僕の肩に手を置いて。足はこっちに出して」
「〜〜良くない!」
こんな所を誰かに見られたらという焦りと、スカートめくりされた羞恥心とでアーリアは辺りをキョロキョロと見渡した。そんなアーリアの羞恥心と非難の声を丸っと無視して、リュゼはアーリアの片足を手に取った。そしてバランスを崩しそうになったアーリアの手を取り、自分の肩へと導く。
アーリアの足の甲やアキレス腱の辺りは擦れて赤くなり、足首は少し腫れていた。踵の高い慣れない靴を長時間履いていた所為だ。しかも夜会会場は室内とはいえ、大広間の中を何往復もしていたのだ。その間座る事は殆ど出来ず、立ちっぱなしの状態だった。夜会終了後も擦り合わせと称して、決して短くない時間を拘束されていた。
「リュゼ!大丈夫だから!その……恥ずかしいから……」
「なぁに言ってんの?こんなになるまで我慢して。ずっと痛かったんでしょ?」
「う、うん……そ、だけど……」
アーリアはスカートの裾を抑えながら恥ずかしがりながらも、リュゼの言葉には肯定を示した。
リュゼは本人の許可なくアーリアの足から靴を脱がすと、その小さな足を自分の膝へと置いた。そして……
「《癒しの光》」
リュゼはアーリアの右足に手をかざして回復魔術を施した。柔らかな翠の光が包み込み、足の傷を癒していく。
右足が終わると次は左足を。そうしてアーリアの傷にリュゼは癒しの術を施していった。
「あの場で『疲れた』なんて言えないよね〜〜?」
「う、うん」
「『休みたい』なんて絶対言えなかったよね〜〜?」
「うん……」
見知った者たちの中と言えど、アーリアには『疲れた』『休みたい』などという言葉は出せはしなかった。いや、言える雰囲気ではなかったのだ。
男性のリュゼでさえ、慣れない場と任務に多量の疲労感があるのだ。今宵の主役としてサーカスの動物より目立っていたアーリアには、相当な疲労が蓄積された事だろう。
誰かが気づいて、アーリアに休息を取らせられれば良かったのだが、状況がそれを許さなかったのだろう。
現にユークリウス殿下はアーリアの疲れた様子に気づいているのを、リュゼは分かっていた。しかし、ユークリウス殿下も主役の一人として大勢の貴族たちに囲まれ、アーリアを休ませる事が出来なかったのだろう。
だからリュゼがアーリアの退室をユークリウス殿下に取り付け、強引に自室に連れて帰る事に対して、ユークリウス殿下は非難の声を上げなかったのだ。それはヒースをはじめ、近衛騎士たちも同じだった。
ユークリウス殿下の騎士たちが守っているのはユークリウス殿下だけではない。アーリアもまた護衛の対象なのだ。騎士たちは外敵の察知だけではなく、護衛の対象である二人の様子の変化も、つぶさに観察している。その観察眼は大変鋭い。
勿論、アーリアの足に大変な負担がかかっている事は、彼女の歩き方から察していたのだった。
「夜会終了後、すぐに部屋に戻れたら良かったんだけどね?ウィリアム殿下との擦り合わせもあったしね。仕方ないとはいえね〜〜」
「うん……。でも仕事だから……」
システィナ国の王太子ウィリアム殿下がエステル帝国に来たことは、それほど異例だったのだ。
エステル帝国の内部に潜む不穏分子はシスティナ国との戦争の為にアーリアをーー『東の塔』の魔女を誘拐した。ユークリウス殿下に戦争の意思はないとはいえ、エステル帝国の中にはシスティナ国との戦争を望む不穏勢力が存在する事は明白なのだ。そんな敵国に、狙われている国の王太子殿下が来ること自体、危険極まりない行為なのだ。
だからこそ、システィナ国のウィリアム殿下はエステルに長くは留まらなかった。それは行きも帰りも魔宝具《転移》を使い、安全を確保する程の徹底ぶりだった。システィナ国のエステル帝国への信頼度は低い。
等級10の魔導士しか扱えぬ《転移》を魔宝具として創る事のできる魔宝具職人はシスティナ国でも限られている。その魔宝具の値段は馬鹿高いだろう。しかしそれを用いてでも、エステル帝国に来ることを是としたウィリアム殿下の英断には、ユークリウス殿下も感服していた。
だからこそ、夜会後の打ち合わせは必須だったのだ。誰もが有無を言わずに断行した程に。
アーリアも勿論、ユークリウス殿下やウィリアム殿下と同じ気持ちだった。
「……けど、今日はほんっとに疲れたでしょ?」
「うん。でも、それは私だけじゃないから……」
「そうだろうけどさ。ーーあ、でも、お師匠サンの声聞けて良かったね?」
「うん……」
「僕はか〜な〜り〜ビックリしたケドね?子猫ちゃんも驚いたんじゃない?」
「うん、びっくりした……」
リュゼはアーリアの傷の癒えた左足に目線を落としながら、その足を優しく撫でた。
回復魔術は傷を癒すことはできても、怠さや重さと言った身体に蓄積された『疲れ』を癒す事はできない。
それは『筋肉痛』や『成長痛』といった物も同じだ。身体の成長を促す為に伴う痛みの為、傷の回復を目的とする回復魔術の効果には適応されないのだ。
『疲れ』を癒す為に出来る事はただ、ゆっくりと休む、睡眠をとる、入浴する、食事をする、といった単純な事ばかりだ。
アーリアはリュゼの優しい声音に、それまで張っていた神経が緩んでいくのが分かった。
『システィナ国の姫』として偽装工作する為にこの日まで散々準備してきたが、到底、足りるものではなく、アーリアの胸には不安が今日まで募るばかりだった。
元が平民魔導士なのだ。ちょっとやそっと勉強したからといって、生粋の王族になど成れる訳がない。それなのにイキナリ『姫』の振りなど無謀としか言えない。言い出した本人ーーユークリウス殿下には悪いが、とても正気の沙汰とは思えない。
それでも為さねばならなかった。
しかも『システィナ国の姫』として成るだけには留まらなかったのだ。
今夜の夜会では『システィナ国の姫』として来賓たちを騙しきり、更にはユークリウス殿下と共に裏工作まで為さねばならなかったのだ。
最後に行ったパフォーマンスの披露も、『システィナ国の姫』をエステル帝国に認めさせる為の最期の偽装工作だった。
ハッキリ言って過剰労働だ。
給料寄越せ!と言いたい。特別報酬を貰っても良いくらいだ。
だがその苦労も疲労も『師匠の声』で全部が吹き飛んだ。それはアーリアがエステル帝国に来て以来、ずっと聞きたかった声だったのだ。
アーリアはエステル帝国に来てから幾度となく師匠の夢を見ていた。それは何故か幼い頃の思い出ばかりだった……。
だからだろうか。アーリアは師匠の声を聞いた時、涙が溢れ出そうだった。もし一人きりで師匠と話していたならば、きっと泣いていただろう。それほどに思いがけず師匠と話せた事は、アーリアにとって嬉しい出来事だった。
「お師匠サンも相変わらずだったよね〜〜?あの面子に向かって言いたい放題!サスガだわ!」
「うん、そだね……」
「絶対、国王陛下から言質取ったんだよ、アレは。それか何か弱みを握ったか。あ、それとも恩を返せって脅したのかも⁉︎ どれもお師匠サンならやりそーだよね?」
「うん……」
アーリアはリュゼの柔らかそうな茶色の髪を真上から眺めながらクスリと笑った。リュゼと全くの同意見だったのだ。
きっと魔宝具を創って渡す代わりに脅したに違いない。そのくらいの権利はあると主張したのだろう。
師匠はアーリアが思う以上に『大魔導士』だ。師匠の実力は贔屓目に見てもシスティナ国に於いて五指に入ることだろう。それなのに国に所属せず、俗世との繋がりをあまり望まない。それは国という大きな枠組みに組み込まれない為だろうと思えた。
大きな力は災いとなる。本人の意図せぬところで巻き込まれていく。師匠は自分の為だと言うだろうが、決して自分の為だけではない。きっと国の為にも国の機関に属していないのだと、アーリアには思われた。
それさ自分がこのように渦中の人となって初めて、学んだ事だった。
「獅子くんには驚いたね〜〜?まさかウィリアム殿下の護衛として来るとは思わなかったよね〜〜?」
「う、うん……」
「あーでも、そーいや獅子くんってば近衛に復帰してたな〜〜って。あの顔で近衛騎士だよ?サギだよね〜〜?いや、この場合キザの方が合ってるカナ⁇ 」
アーリアの顔にジークフリードの顔が浮かんだ。金髪碧眼の美青年。素晴らしく『王子面』だ。ウィリアム殿下と並んでも何ら遜色なかった。
以前アーリアはジークフリード本人に聞いたのだが、アルヴァンド公爵家には王家の血が濃く流れているそうだ。だから王家の特色である金髪碧眼を持っているのだと言う。そして、アルヴァンド公爵家の人間は王家の有事の際に『身代わり』となる事が求められている。つまり、王族の囮として『死』を持って忠誠を示す事が望まれているのだ。
ジークフリードがウィリアム殿下の護衛騎士としてエステル帝国に来たのは、そのような有事をも見越してのことだろう、とアーリアは理解していた。
ウィリアム殿下の背後に控えていたジークフリードを見留めたアーリアは、一瞬驚きのあまり、息をすると事も忘れた程だった。それほど驚いていた。
たがジークフリードの任務を察して、納得もした。
そしてそんなジークフリードを見てアーリアもまた、望まれた仕事をしっかりと果たそうと思ったのだ。
結局ジークフリードと直接話す事は出来なかったが、帰還間際に視線を交わす事はできた。アーリアにはそれで十分だった。
「今日はホントに色々あったね?」
「うん……」
「本当に疲れたよね?」
「うん……」
「……ここには誰もいないし、ちょっとくらい休んでいても大丈夫だよ?」
察しの良いヒースのことだ。リュゼの視線の意味が理解できた筈だ。暫くの間この区間には誰も、人が踏み込む事はないだろう。
部屋に帰ればフィーネを始め、侍女たちがアーリアの世話をする為に待っている。アーリアは侍女たちの前でまた、『アリア姫』を演じねばならない。
就寝時間まで休める暇などありはしない。
「……だから、ここでなら泣いてもいいんだよ?」
リュゼは顔を上げるとアーリアの頬を両手で包んだ。そしてグッと自分の肩へと抱き寄せる。アーリアの何かをグッと我慢しているようなその歪んだ表情を見たリュゼは、アーリアの頭を両腕で優しく包み込んだ。
「もーー無理し過ぎだよ〜〜子猫ちゃん。まぁ、仕方ないんだけどさっ」
リュゼはアーリアの頭と背とを優しくさすった。するとアーリアの身体は小さく震え出した。
リュゼに優しくされて、アーリアの中で内包していた様々な想いが混ぜこぜになり、不意に溢れ出してきたのだ。一度溢れ出した想いは、アーリアには止めようがなかった。
「……ゴメンね?僕の所為でもあるよね?」
アーリアはリュゼの肩に顔を埋めたまま、ふるふると首を振った。
リュゼを人質にしてユークリウス殿下がアーリアを脅した事。その為にアーリアはユークリウス殿下との取引に応じた事。リュゼがその事を言っているのだと、アーリアには瞬時に理解できた。
しかしリュゼがそのように思う必要はないのだと、アーリアは震える声でリュゼに伝えた。全ては自分の所為だと。
「ダーメ!責任は半分こにしよって言ったでしょ?僕の責任を取らないでよね?」
リュゼは己の肩で啜り泣くアーリアの頭に自分の頭をコツンとつけた。アーリアの柔らかな髪がリュゼの頬に触れる。
リュゼはそのまま暫くアーリアの髪を梳きなが頭を撫でると、徐にアーリアの身体を腕で支えて抱き上げた。
「子猫ちゃんはオンナノコなんだから、時には泣いたっていいんだよ?」
「泣くときはいつでも僕の胸を貸してあげるからね」とリュゼはアーリアの耳元で囁いた。
アーリアはリュゼの肩に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
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普段チャラいリュゼも、たまには男らしい姿を見せる時があります。
アーリアもリュゼも本来とは違う役割に一杯一杯です。それでも二人で成長して乗り切っていくでしょう。
次話も是非ご覧ください!