皇太子殿下と宰相閣下
皇太子ユークリウス殿下は老獪な大貴族と向かい合っていた。
その者の名はブライス公爵レイ。エステル帝国の政治家・官僚の頂ーー宰相の位階を持つ能吏であった。現皇帝の在位前からその右腕として大陸随一の国土を誇る大帝国エステルの政治を支えてきた忠臣だ。
ブライス宰相閣下は『穏健派』と呼ばれる派閥に属している。穏健派は現在の『精霊信仰』を国内外に知らしめ、『魔法』優位な国家体制を維持するのを是としている。
一方、ユークリウス殿下は『改革派』と呼ばれる派閥を支持している。改革派は現行の制度を廃止して、新しく他国より『魔術』や『魔道具』などを取り入れ、国民の生活水準を上げようと画策している。
お互い名実共に各派閥の『長』なのだが、それを彼らは公にはしていない。ある派閥の長に皇族ーーしかも皇太子が傾倒し過ぎるなど、争いの種にしかならないからだ。だがそれは明らかに建前であり、貴族官僚間では暗黙の了解となっていた。しかしそれを表立って不満や悪態を吐ける者はこの帝宮にはいない。
誰しも自分の政治生命ーー貴族生命が大切なのだ。
ユークリウス殿下には三人の弟たちがいるが、現在どの皇子も兄殿下に対抗しようとする者はいなかった。それは兄と皇位を争いたくないからではなく、対抗出来るほどの派閥を擁していないからである。だがどの皇子も優秀で、その皇子たちを押し上げようとする貴族もチラホラと存在する。その者たちは『中立派』と銘打ってはいるが、実のところは『穏健派』よりの思考を有しているのだった。
しかし、ユークリウス殿下とブライス宰相閣下の二人は常に反目し合っている訳ではない。
ユークリウス殿下は十代で政治の世界へ参入してして以来、国内外の政にも広く通じ、自らも意見し行動する事で皇帝陛下の御代をよく支えている。改革派と呼ばれるように、新しい波を起こそうとはしているが、それも全ては国民の生活を豊かにする為。その志を認め、支持する官僚が後を絶たない。
ブライス宰相閣下に至っては長年エステル帝国を中から支えてきた能吏。近年こそ戦争を仕掛けてはいないが、五十年前までは他国に侵略を仕掛け吸収し、拡大してきた大帝国ーーその国土を維持する為の方策を立案し行使してきたのだ。彼の能力を認め支持する者は多い。
「……北の農地の復旧作業については、だいたい目処が立ちましたかな?」
ブライス宰相閣下の言葉に官僚たちは頷いた。
秋の長雨で川の堤防が決壊し、その水は田畑を押し流すという自然災害が三日ほど前に起きたのだ。堤防の補修工事の案は前々から出ていたが、時期を逃した結果、このような災害へと発展してしまった事を官僚たちは悔やんだ。田畑は荒れ、これから冬が来るというのに農作物が収穫できないばかりか、その普及に何ヶ月もかかるのだ。春の種まき迄に普及できるかギリギリの線だった。不幸中の幸いだったのが、民間人の死者数が少なかったことだ。それでも少なくない数の民が濁流に流されて亡くなったという。
「ーー追加で宜しいか?ブライス宰相」
「ユークリウス殿下、ご意見をお聞かせください」
ユークリウス殿下は軽く手を挙げると、ブライス宰相閣下に目線を送った。ブライス宰相は手元の資料から少しだけ目線を上げて寄越すと、ユークリウス殿下に発言を許可した。
「先ほどの復旧作業に於ける人員の確保の件だが、軍より人を回してはどうだろうか?」
「軍より、ですかな?」
「そのような事、承認致しかねますな!騎士は農民ではないのですぞ⁉︎」
ユークリウス殿下の提案に真っ先に食いついたのは軍務尚書だった。
「だが騎士も貴族も王族も、皆、農民の作る作物を食べている。北の農地の四分の一もが被害に遭ったのだぞ?しかもこれから収穫だという時に麦の大半が駄目になってしまったと言うではないか。これが来年度まで響けば我が国は近年に於いて初めて、他国より食料の輸入を行わねばならなくなる」
「それがどうだと……?」
「これまで散々侵略を繰り返してきた国からの援助要求に、快く応じる国がどこにあると言うのか……?」
「ぐっ……!刃向かう国など我が国の武力を持って屈服させ、掠奪を行えばよろしかろう!」
ユークリウス殿下は軍務尚書の言に眉をピクリと挙げた。目配せする事もなく、いち早くブライス宰相閣下が動いた。
「そんな簡単に戦争を起こす訳には行かぬ。我が国はそんな恥知らずな者の集まりではないぞ?軍務尚書」
「ーーブライス宰相閣下⁉︎」
「まずは国内で出来る方策を検討し、実行して後、それでも食糧難となれば他国の輸入に頼るしかあるまい。しかし安易な掠奪行為など以ての外。蛮国ライザタニアの真似など、私には到底できぬ」
「っ……!」
『ライザタニア』の名に押し黙ったのは軍務尚書だけではない。彼に賛同的だった者もブライス宰相閣下の言にはたじろいだ。
ライザタニアは遊牧民の集まりだ。だというに近年は軍事方面ばかりが増長し、他国に侵略行為を繰り返している。元が遊牧の民。侵略行為は産業の延長線上なのだろうとも捉えられる。罪悪感があるかは定かではない。
エステル帝国に属する誇り高き者たちは、精霊や魔法の機微も分からぬ国と手に手を取り合う事など出来ないと考えている者が大半だ。またそのような情勢不安定な国に対して、こちらから仕掛けて行く気すら起こらないのだ。価値観が果てしなく違いすぎる。まだシスティナ国の方が文化的な分マシだと思う貴族も少なくない。
「これから冬になるまでが勝負だと言えよう。軍人は冬季の軍事訓練代わりに復興作業の手助けを行えば良いと私は考えるが、如何だろうか?」
ユークリウス殿下は軍務尚書の殺意溢れる視線を無視して、他の貴族・官僚たちに是非を問う。
「そうですな。近年は他国との小競り合いも少ない。積雪となる前に粗方、農地の復旧の目処が立つ事が望ましいですな」
顎鬚をさすりながらイグニス公爵が発言する。
「私も軍人の復興支援参入には賛成です。しかし軍人は貴族出身の者も多い。民間人との衝突もあり得るのでは……?」
「では近衛から数名、指揮官として派遣してはいかがか?」
「近衛から騎士投入とは大それたこと……!」
「玉命を受けた騎士をトップに据えるならば、軍人からの文句も出まい?もし反発する者がいたのならそれは逆賊。玉命を無視する者など、鋼鉄すればよろしかろう」
ブライス宰相閣下から『玉命』という言葉を受けて、これまで黙って聞いていた皇帝陛下が重い瞼を開けた。皇帝陛下が背を正すと椅子がギジリと軋んだ。
「北の農作物は我が国の食料の半数を供給している。その土地の回復を願うならば、近衛の派遣も当然と言えよう。また自国のことは自国にて解決するが望ましかろう。我が国には精霊の加護もある」
言葉を区切ると、皇帝陛下はチラリと軍務尚書を見た。その氷点下のような目線に軍務尚書はびくりと肩を震わせた。そして皇帝陛下はその表情を微塵も変えずにブライス宰相閣下とユークリウス殿下に視線を移した。
「近衛騎士からの人員選抜は宰相府に任せる」
「御意」
「軍人による農地復旧への参入方法はユークリウス、そなたが立案せよ」
「承りました」
皇帝陛下の命令にブライス宰相閣下とユークリウス殿下は頭を下げた。そこに最早、軍務尚書の出る幕などなかった。
「……それでは今日はここまでとしよう」
以降、誰よりも手が上がらぬと見て、皇帝陛下は気怠げに解散の言葉を発した。そして誰よりも早くその場から立ち去って行った。
※※※※※※※※※※
会議が終わった後、其々は自分の仕事場に戻って行った。だが会議室にはブライス宰相閣下とキーフクリフ宰相補佐、そしてユークリウス殿下とあと数名の貴族官僚たちが残っていた。
「さて、あの軍務尚書をどうなさいますかな?」
ブライス宰相閣下の言葉にユークリウス殿下は眉を上げた。
「それは宰相府の者たちで決めるがよろしかろう。だが、アレは使えぬと私は明言しておく」
「そうですねぇ。いささか軍事方面に傾倒し過ぎておいででしたからね?」
ユークリウス殿下の言葉にキーフクリフ宰相補佐が追加で述べた。その目はやれやれと軍務尚書への呆れを表していた。
「無能者などこの国には要らぬ。まして、軍事を預かる軍務尚書の座にあのような愚か者がおるなど許し難い」
イグニス公爵が些か声を荒げる。
侵略を繰り返して今の国土になったエステル帝国だが、現在は己から戦争を仕掛けたいと思っている者など早々いない。仕掛けられれば抵抗するだろう。だがそれだけだった。
精霊を信仰し魔法に傾倒してはいても、それが万能ではない事を知っているのだ。だが貴族の中にはどうしても自分たちが精霊に『選ばれた』と思っている者も多く存在するのだ。その中でも過激な思考に取り憑かれている者が一番厄介だった。先ほどの軍務尚書が良い例だ。
「いや、お見事でしたな?軍務尚書から本性を引き出すとは……」
ブライス宰相の目線を受けてユークリウス殿下は眉根を潜めた。
「……何のことだ?私にはトンと分からぬな」
「ハハハ!そう言う事にしておきましょうか、殿下?」
ユークリウス殿下が意図的に軍務尚書を追い落とす算段を立て、それに瞬時に乗ってきたのはブライス宰相閣下の方だった。二人は事前に打ち合わせなどしてはいなかった。ただ二人とも独自の情報を得ていたに過ぎない。軍務尚書の裏の顔を知り、何処かのポイントで退場願おうと考えていた折、偶々いいタイミングが転がってきたのだ。そこをたまたま二人が共闘したに過ぎなかった。
この件についてこの二人はお互いに含む所などないのであった。
トントンと書類の束を整理して立ち上がったユークリウス殿下に、ブライス宰相から声をかけてきた。
「そうそう。ユークリウス殿下の婚約者、アリア姫は実にお可愛らしい方ですな?」
「なに……?貴殿、何処かで会ったのか?」
ヒースから一応の報告は来ていたが、会議が立て込んでいた為にユークリウス殿下はその報を放置せざるを得なかったのだ。
「体調を崩されたとお聞きしましてな。今朝方、お見舞いに参ったのですよ……」
「……ほう?」
「突然の訪問にも嫌な顔一つされず、対応してくださいました」
どこでその情報を?と聞くのは馬鹿馬鹿しい事だった。この王城に人の口に戸を立てられる場所などないのだから。
初耳だったのだろう。ユークリウス殿下とブライス宰相閣下以外は、その話に聞き耳を立てている。
ユークリウス殿下はアリア姫(=アーリア)の情報には最新の注意を払っていた。外部には漏れぬように、侍従や侍女、料理人に至るまで誓約書まで書かせての徹底ぶりだ。それでもこのように情報が漏れる時はある。
しかしアリア姫は皇太子宮より外に殆ど出ず過ごしている為、皇帝陛下拝謁の機会以来、その姿を見た者は殆どないと言えよう。そのような時にブライス宰相閣下より齎された『アリア姫体調不良』の情報には、皆、興味が惹かれたのだろうと推測できた。
「花束をお見舞いに持って行ったのですが、大変喜ばれました」
「ほう、花束を……?」
「『花束を貰ったのは初めてなので、とても嬉しい』と申されましてな!」
「…………」
ピシッと空気にヒビが入った。
そしてパキッとユークリウス殿下の持つ木のファイルが割れる音が響く。
ブライス宰相閣下の言葉ーー正確にはアリア姫(=アーリア)の『初めて花束を貰って嬉しかった』発言に、その場にいた他の者たちの視線がユークリウス殿下に向けられる。その視線のなんと生暖かい事か。
アリア姫はユークリウス皇太子殿下が己の妃にと自ら乞われ、見初められて隣国システィナより連れて来らろた姫なのだ。要するに皇太子殿下が一方的に惚れて連れて来たのだと、大半の貴族たちにそう認識されていた。
その姫が花束を今まで誰からもーーユークリウス殿下からも貰った事がないとはどういう事なのか。ユークリウス殿下はどのようにアリア姫を口説いたのか、などと有らぬ憶測がこの場にいた者たちの脳内に飛んだ。
様々な憶測が飛び交う中、その空気を一変さすべく言い訳を始めたユークリウス殿下に向かってブライス宰相閣下が容赦なく切り込んだ。
「彼女は甘味を好むのでな。私は帝都で流行りの菓子などを贈って……」
「ーーですが、やはり女性には美しい花こそが似合います。殿下も姫に見合う花を見繕っては如何ですかな?ずっと宮の中では姫も退屈されておいででしようからな」
言った⁉︎ 言っちゃった⁉︎ ーーその場にいた皆の心の声がハモったように思えた。
ユークリウス殿下の言い訳はブライス宰相閣下の言葉にバッサリと袈裟斬りにあい、虚しく散った。
それまでの冷静な顔から一変、ユークリウス殿下のコメカミには青筋がクッキリと浮かび上がった。手の中の書類にシワが増えていく。それがどれだけ重要書類であろうと、そのような些事を諌め突っ込みを入れられる勇者はこの場にはいなかった。
「そ、そうだな?私も貴殿に倣って彼女へ花を贈ろうか……」
「是非そうなさいませ。殿下……『女心は秋の空』と言うのですぞ?移ろいゆく女性の心を繋ぎ留めるのも、惚れた男の務めですからな……」
さすが百戦錬磨の大貴族。官僚歴40年の大ベテランの言う言葉には重みがある。そしてブライス宰相閣下はおしどり夫婦としても知られる『愛妻家』なのであった。
「貴方には敵わないな!ハハハハハ」
ユークリウス殿下は乾いた笑いを上げると足早に会議室を後にした。ユークリウス殿下の男のプライドは既に粉々だったと言わざるを得ない。
逆にそのユークリウス殿下の背を見送るブライス宰相閣下の目は十代の子どものような悪戯心を宿していた。その口はザマーミロとでも言いたげだ。
この夜、ユークリウス殿下がアーリアの自室を訪れた際、花瓶に飾られた花々を、そしてアーリアの手元にある一輪の白薔薇を見て絶句したのは言うまでもない。
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ブライス宰相閣下vsユークリウス殿下
一騎打ちはブライス宰相閣下の勝利となりました。
いつもは冷静沈着俺様天下無双の皇太子ユークリウス殿下も百戦錬磨のナイスミドルには敵いませんでした。年季が違うのでしょうね?
次話も是非ご覧ください!