魔法の師2
アーリアは自分の身体に起こった異変に驚きを覚えた。急に胸が締め付けられたかのように圧迫され、呼吸が困難になり、目の奥がチカチカと明滅し始めたのだ。しかも、精霊の囁き声が耳鳴りのように聞こえてくる。その声はだんだんと大きさを増し、アーリアの精神を圧迫した。
精霊の気が自分の意思を無視して身体に入り込んでいく。それはとても小さなアーリアの身体では受け止められない量だ。
ーやめて……!ー
『精霊に善悪などない』
『精霊に連れ攫われてしまうよ』
ユークリウス殿下のーーそして、師匠の声が浮かんでは消える。
「ゆ……でん……」
苦しげに呻くアーリアは、隣に立つユークリウス殿下を見た。殿下は怪訝な表情を浮かべている。その手には、髪につけていた筈の髪飾りがあった。エルフによる祝福が施された『幸運の花』。変わり者のエルフ族、リュシュタールがアーリアの為に咲かせた薔薇。
『この花がまたそなたと私とを繋いでくれるだろう。それに、それを身に付けておれば精霊の余計な干渉も受けることもない。この私が創った花を持つ者を揶揄うなど、愚かな真似をする精霊もそうはおるまいよ』
リュシュタールの言葉がアーリアの頭の中で木霊する。
ーああ、そうか……。これまで精霊に悪戯されなかったのは……ー
どんな高価な装飾品より、リュシュタールより賜った薔薇をつけた。それは無意識の自衛措置だった。そう分かった所で時は既に遅く、アーリアは己の中に入り込む精霊の気、その質量に耐えきれず意識を手放していた。
※※※※※※※※※※
※(アーリア視点)
「ああ、無理しなくても良い。ゆっくり開けてごらん」
差し込む光のあまりの眩しさ目が焼けてしまいそうだ。それでも私は、その優しい声にコクリ頷くと、瞬きを繰り返しながらゆっくりと瞼を持ち上げた。
途端、今まで感じたことのない圧倒的な光量に頭がクラクラした。暫くすると、ボンヤリと外に広がる風景と、身体を屈めて私の瞳を見つめてくる顔が目に飛び込んできた。
長い艶やかな髪、同じ色の瞳。自分を見つめて柔らかく微笑むその顔に、胸が熱く高鳴っていく。
生まれて初めて自分の瞳に映したもの。それは自分を天の国よりも素晴らしい場所へ連れて来てくれた、暖かな温もりを持つ天使さまの姿だった。
ー私が何よりも見たかったのは……!ー
「私が見えるかい?」
「はいっ」
「よかった。成功したみたいだね?」
その優しい笑顔を見た瞬間に弾けたある想い。その想いと共に、瞳から水分が溢れ出ていた。ハラハラと止めどなく流れる水ーーこれまで流したことのなかったこの水が『涙』なのだと、初めて知った。
「どうしたの!? 眩しすぎるかい?」
天使さまは涙を零す自分の姿に慌てると、窓からの光を和らげる為に薄いカーテンを引いた。外から齎される光と、雨の降る音が緩和された。
「いえ、ちがうんです。うれしくて……」
「そう……君に喜んでもらえたようで良かった。これで君も外の様子が分かるね?その色も形も……」
何度も、首を縦に振った。確かに目が見えない事は不自由で、幼い自分は常に誰かの手が必要だった。視界を能力で補ってはいても、一人で生きて行けぬというのは本当に苦しかった。兄や姉の人生を自分が振り回しているようで、辛かった。だけどそんな日常的な苦しさよりも、自分を拾ってくれた天使さまのお顔が分からない事の方が辛かった。
温かいぬくもりをくれた天使さま。
天使さまにお声を掛けて頂く度、温かな手を差し伸べて頂く度に、天使さまのお顔が知りたくて、見たくてたまらなかった。
「ちがうんです。私がいちばん見たかったのは、おシショさまです」
そう言うと天使さまーーお師匠さまは息を止めてこちらを振り向いた。それが驚いた時に見せる表情なのだと後から知った。
お師匠さまは私の側に膝をつくと、私の瞳から流れる涙を袖で拭いてから身体を両手でヒョイっと抱き上げてくれた。
「初めのご挨拶から始めようか……?」
お師匠さまのその言葉に驚いて、私は目をまん丸にした。そんな私の頭をお師匠さまは優しく撫でてくれた。
「初めまして、小さなお嬢さん」
「はい!はじめまして、天使さまっ」
「ハハ……私は天使ではないよ?」
その返事にお師匠さまは楽しそうに笑った。
その笑顔が嬉しかった。
涙で濡れる頬をお師匠さまは親指で拭うと、何度も何度も頭を優しく撫でてくれた。その大きな手の温もりが嬉しくて、でも少し恥ずかしくて胸の奥がくすぐったく感じた。
「改めて聞くよ……僕の娘になってくれるかい?」
「はい、なります」
「ありがとう。これから沢山の時間を一緒に過ごそうね?アーリア」
「? アーリア?」
「君の名だよ。嫌だったかな?」
「そんなことないです。とってもうれしいです!」
「なら良かった」
こんな私に『瞳』をくれた人間。
こんな私に『名前』をくれた人間。
こんな私に『居場所』をくれた人間。
身体を生み出し捨てたあのお方も、お師匠さまと同じ人間。だけどお師匠さまは、もっとずっと特別な人間。柔らかな暖かさーー温もりをくれるこの人間は私の全て。
「あ〜〜!師匠!成功したんすか?それなら早く言ってくださいっすよ〜〜」
この声音は兄のもの。賑やかな声と足音と共に来訪した男性が大好きな兄だと知れた。
兄は自分を見ると破顔し、文字通り私に飛びついてきた。髪を撫で、頬を撫で、頬づりし、まるで赤子のように愛でる。
「俺のコト、見えるっすか?」
「はい、兄さまのお顔がわかります!」
そう答えた自分に兄はニコリと笑う。
自分はそんな兄の髪に触れた。自分の髪と同じような感触。頬を流れる髪と同じ色。これが兄。同じ遺伝子情報を持つ7番目の男性個体。
兄は自分の目が見えるようになった事に心から喜んでくれている。そんな兄の様子を見る事ができて、とても嬉しい。
私に触れられていた兄は何やらそわそわし出して、「姉貴も呼んで来るっすわ!」と言って部屋を飛び出て行った。
「全く、忙しない子だね、君のお兄さんは……」
師匠は自分を腕に抱いたまま窓辺まで歩くと、先ほど引いたカーテンをシャっと開けた。眩しさに少しだけ目を細める。外には小雨が降っている。小さな雨粒が窓を濡らしていた。
「ああ、やっぱり。アーリア、虹が出ているよ?」
「にじ?」
「そう。あの空に見える色とりどりの橋。あれが虹だよ」
「色がたくさんある?」
「そう。アーリアの瞳と同じ色だよ。ほら、とても綺麗だ」
「私の瞳と同じ色……」
しとしとと降る雨の音。緑の木々のその奥、雲の隙間に所々見える青空の向こうにかかる虹の橋。
「おシショさま。ありがとうございます」
「どういたしまして。私の可愛い娘」
この人間の為に生きよう。
2つ目の生命をくれたこの人間の為に……
※※※※※※※※※※
意識を失ったアーリアのかしいだ身体を咄嗟に受け止めたユークリウス殿下は、戸惑いを隠せずにいた。
今の今まで元気に平気そうな様子で指導を受けていたアーリアが突然、引きつけを起こしたように呼吸困難に陥り倒れたのだ。そんな前触れは何もなかった。
「おい、アーリア!どうした……!?」
腕の中のアーリアの顔は顔面蒼白だ。なのに、瞳からは涙が溢れ出ている。
「ユリウス殿下!アーリア殿は……?」
ヒースとリュゼが異変を察知して慌てて駆け寄ってきた。ヒースは膝にアーリアの頭を乗せてしゃがみこむユークリウス殿下の側に膝をつくと、アーリアの顔を覗き込んだ。
リュゼはアーリアの蒼白な顔を見た後、ユークリウス殿下の手の中にあるソレに目を留めると、身分も忘れて叫んでいた。
「殿下!手の中の薔薇をアーリアに持たせて!」
「何……?薔薇?」
「その手の薔薇だよ!子猫ちゃんが髪につけてた薔薇の髪飾り!」
「あっ!これか?これが何……」
「あーもーイイから!貸してっ」
リュゼはユークリウス殿下の手から薔薇の髪飾りをひったくると、薔薇をアーリアの手に握らせた。すると、顔面蒼白だったアーリアの顔に少しだけ生気が戻ってきた。
アーリアはゴホゴホと小さく咽せると幾度か瞬きをしたが、またすぐにぐったりと目を閉じた。額には冷や汗が流れている。
「リュゼ殿、アーリア殿は……?」
「多分、精霊酔いだ。精霊の気に当てられたんだ……」
「なにぃ!? 今まで何ともなさそうだったではないか?」
「そうですよ、リュゼ殿。このように精霊に満ちた空間でも、平気そうになさっておいでだったではありませんか?」
精霊酔いとは精霊の気に満ちた空間に長くいると引き起こされる症状だ。
精霊の気は良くも悪くも人間の身体に影響を及ぼす。小さな子どもや敏感な者は特に当てられやすい。大人になるとその対処法が身につくので、倒れる程の症状を出す者は少ない。
帝国民であるユークリウス殿下、そしてヒースも、このように精霊の濃度の高い空間に長くいるのは実は辛いものがあったが、精霊避けの護符を身に付けているおかげで難を逃れていた。
精霊に好かれる事はこの国に於いて良しとされてはいるが、精霊が善悪のないモノだとも、よく理解されているのだ。
精霊に深く愛された者が精霊たちの国に連れて行かれたという話がある。連れて行かれたら最後、こちらの世界には戻っては来れない。だからこそ、力のある者はその対処を怠らないものだ。
アーリアも自分らと同じ様な方法を取っているとばかり思っていたユークリウス殿下とヒースは、自分たちの価値観こそご常識であると思い込んでいた事実に気がつかされた。
ここは『精霊信仰』の国エステル。
システィナ国とは根本たる常識が違う。
「この薔薇をつけていたからだよ。因みに僕は鈍感なだけ」
ユークリウス殿下とヒースの目線がアーリアの手に持たせた薔薇に向けられた。鮮やかな真紅の薔薇はまるで今手折られたかのような瑞々しい。とても作り物のようには見えぬ細工に、二人はそれがこの宮に来てから宝石商より取り寄せた装飾品だとばかり思っていた。元来、男はこういう装飾品には疎いものなのだ。
「この薔薇は……?」
「僕も前に一度聞いただけだけど、この薔薇、エルフに貰ったらしいよ?」
「エルフとは……誠か!?」
エルフとは上位種族。人間とは異なる時間軸で生きる者。その容姿は天上の神が遣わしたのではないかと見まごう美しさがある。一部の学者の間では、エルフは精霊の上位種ーー妖精の化身ではないかという説すらある。エステル帝国では精霊に次いで崇められる存在であった。
エルフは人間の世界には滅多に現れない種族。そのエルフに会ったなどと俄かに信じられない言ではあった。
「ホントの所は後で子猫ちゃんに聞いてみて。ーーそれで、この薔薇はそのエルフが子猫ちゃんの為に咲かせたものらしい。何でも、迷子になってた所を助けてもらったらしいよ?」
「ま、迷子……」
「アーリアらしい……いや、待て。その迷子とは、精霊に誑かされたのではあるまいか?」
迷子と聞いて思わず呆れていたユークリウス殿下だが、直後思い至った考えにリュゼは肯定を示した。
「そうみたい。で、この薔薇をエルフがくれた。……子猫ちゃんは迷子防止のアイテムみたいに言ってたケド、実は精霊避けでもあるんじゃないかな」
「この様子だと、そうだみたいだな……。すまない、俺が迂闊なことをした」
ユークリウス殿下は頭を下げて謝罪した。
アーリアの髪から不用意に薔薇を取ってしまったこと、アーリアの体調を慮らなかったこと、その二点についてユークリウス殿下は素直に反省し、後悔した。己はアーリアの『魔法の師』と名乗ったというのに、その『魔法』を扱う上での基本を蔑ろにするとは何事かと。
「謝罪なら後で。今は子猫ちゃんを休ませなきゃ」
「そうだな。このような場で話す事ではなかった」
ユークリウス殿下はリュゼの手を遮ると迷わずアーリアを抱き上げた。アーリアの顔色は最悪よりはマシな程度で、嘔吐していないのが不思議なほどだ。
意識がないにも関わらず、アーリアの閉じた瞼の隙間から止めどない涙をが頬を伝っている。その涙をリュゼの指が拭った。
「『精霊の瞳』か……」
『精霊の瞳』は精霊を無条件に惹きつける。輝くその色彩に、溢れる輝きに、魅せられ惹きつけられた精霊たちは、その瞳を持つ者の魔力を欲する。華の蜜を吸うごとく。
それは人間が持つには過ぎた代物ではなかろうか。人間には限られた生命ーー限られた魔力しかない。彼ら精霊を満足させられるだけのモノは持たない。
「ヒースさん、この王城でなるべく精霊のいない場所ってある……?」
「そのような場所はございませんが、精霊酔い対策はいくつかございますので……」
精霊のいない場所などこの帝宮にはない。しかし、精霊酔いに対して取れる手段があった。幼い子どもなどは精霊に良いように振り回されてしまいがちになる為、その対策は用意されてあるのだ。
「精霊避けの香を炊こう。ヒース!」
「準備して参ります」
ユークリウス殿下の指示を受けてヒースが足早に鍛錬場から出て行く。その後をアーリアを抱いたユークリウス殿下はリュゼを伴って、訓練場を後にした。
『可愛いヒト。どうしたの?目を開けて。私たちと遊びましょう』
アーリアの周囲を飛び交う精霊に、その無邪気な笑顔に、ユークリウス殿下は生まれて初めて嫌悪感を抱いた。『精霊』とは、それほど崇めるべき存在なのかと。それは、『精霊』を信仰する大帝国エステルの皇太子殿下が口にして良い言葉では、決してなかった。
お読み頂き、ありがとうございます!
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アーリアと師匠との過去から、師匠がアーリアにとってどれ程大切な人かを窺い知ることができます。
エルフ兄さんから貰った薔薇は意外にも重要アイテム⁉︎
次話も是非ご覧ください!