社交ダンス
「アハハハハハハッーーーー‼︎ 」
リュゼは腹を抱えて爆笑していた。アーリアはそのリュゼに馬乗りになって無言でその胸を叩いている。顔を今にも頭から湯気が出そうなほど真っ赤にさせ、その瞳には羞恥からかそれとも憤慨からなのか、涙をも薄っすら浮かべているにも関わらず、今のリュゼにとってはアーリアのマヌケな表情すら笑いのタネであるようで、笑い声はより一層高まっていく。
二人の近くには足の甲を抑えて蹲る一人の騎士の姿が。薄灰色の髪を床につく程垂らして頭を擡げたまま一向に立ち直る気配がない。その騎士の名はヒース。近衛第八騎士団長その人だった。
※※※※※※※※※※
「よろしくお願いします」
フィーネに案内されて来た部屋に待っていたヒースに、アーリアは深々と頭を下げた。
今日は『ダンスレッスンの日』だ。いずれ行われるだろう夜会に向けて、必須種目『社交ダンス』をマスターすべく、この時間は設けられた。『アリア姫』はシスティナ国より親善を目的として皇太子殿ユークリウス殿下への輿入れを待つ身。先日は皇帝陛下への目通りも無事果たし、いよいよ皇太子殿下の婚約者としての『任務』に取り組まねばならないのだった。
皇太子殿下はアーリアを使って『穏健派』と呼ばれる貴族官僚たちの動向を探ろうとしている。そして、その『穏健派』と呼ばれる貴族官僚の方も『システィナ国の姫』に探りを入れて来ると思われた。
その場に夜会は最適であろう。
人の多く出入りする夜会では、様々な者が『言葉』と『目線』を武器に相手に探りを入れ、有意な情報を引き出す恰好の狩場なのだから……。
いずれ必ず来るその日に向けて、最低限のマナーを身につける事は、偽の婚約者アーリアにとっては必須事項なのだった。
「私こそ、貴女のような美しい女性の『初めてのパートナー』を務めることが出来て光栄です」
ヒースは今日もその笑顔が眩しいイケてる騎士だった。薄灰色の長髪に濃紺色の瞳が近衛の騎士服と相まって、その美形度を更に上げている。
「アーリア様は社交ダンスを……」
「全くしたことがないんです。すみません」
「そうですよね。これは貴族の嗜みですから、一般のご家庭ではまず習う事はないでしょう」
貴族社会でしか社会ダンスを踊る機会などない。アーリアからすれば皇族・貴族の生活など、絵本の中の出来事なのだ。まさか自分が体験する事態になろうとは、夢にも思ってはいなかった。
「せっかくの機会ですから、夜会で踊れないのは勿体ないですよ?取り敢えずは正確に踊れるまでいかなくても、男性のリードを受けてついていけるだけでも十分ですからね?今日は楽しんで練習して参りましょう」
「はい!」
ヒースの励ましを受けて、緊張に固まっていたアーリアはその肩の力を少しだけ抜いた。
「アーリア様、手を……」
ヒースは実に優雅な仕草でアーリアへと手を差し伸べた。その手にアーリアは添えるように右手をそっと置く。ヒースはアーリアの手を取るとやんわりと握りしめ、そのままスッと身体を引き寄せた。アーリアの左手を自分の肘へ置くように言うと、自分はアーリアの左肩に右手を添えた。
ヒースの吐息がかかりそうな程近づく。
ヒースの爽やかな香りに包まれる。
アーリアは緊張に一瞬呼吸することを忘れた。身体が密着し、己の心臓の鼓動がーーその高鳴りが、相手にまで聞こえてしまいそうだと考えてしまい、不覚にも、白い頬は徐々に羞恥から火照っていった。
ヒースはその初心なアーリアの表情にクスリと笑った。社交界デビューを果たした令嬢たちに、このような初心さはないからだ。
貴族令嬢にとって社交界は絶好のお見合いの場。己の爵位に合った結婚相手を探す場なのだ。より良い伴侶を得る為に自分を磨き、最大限利用する。美貌も肉体も駆使して、より美しく見える所作で相手を魅了するのだ。その為、自分に自信を持った令嬢が多い。自分自身の容姿と身体を武器にする事が『良し』とされているので、それを咎める者などいない。
ヒースは騎士はこれまで、そのような女性たちがユークリウス殿下に群がる様を、その現場を近くで見てきた。その女性たちの中には『女』を武器にしてくる者、言質を取ろうとする者、媚薬や睡眠薬まで盛って既成事実を作ろうとする者までいるので、それはそれは厄介な存在なのだ。自然、そのような女性には嫌悪感が生まれていったのは仕方がないだろう。 ヒースとてその被害者の一人であった。
しかし目の前の女性ーー主である皇太子ユークリウス殿下の仮嫁にして仮の婚約者アーリアは、自分たちに利用される立場にありながら、何の文句も言わず教育を受けている。ヒースは姉のフィーネにも話を聞く機会があるのたが、フィーネの授業も文句一つ言わずに真面目に取り組んでいるという。好感度が上がるには、それだけで充分だった。
「男女がペアになってお互いを感じ、呼吸を合わせながら踊るのです」
バイオリンの音色に合わせてヒースはステップを踏み始めた。それにつられるようにアーリアは足を動かした。
男性が女性をエスコートし、女性はそれに応える。社交ダンスを通して、自然と異性への上品なマナーも身につくと言われるのはそれが所以だ。
社交ダンスには多様なダンスの種目がある。10種類以上の種目があり、種目によってそれぞれに特徴がある。曲調も違えば踊り方もステップも違う。多様性を持っているのだ。
「最初はステップを覚えることよりも、私の動きに身を任せてください」
アーリアはヒースの動きに精一杯ついていった。
器用にもヒースはアーリアへ踊りながら社交ダンスについて説明をしていた。
男女がペアになり、組みながら『二人で動くこと』を体感し、それに慣れる事が何よりも大切だ。それを『リード&フォロー』といい、男性のリードに対して女性がフォローをできるようになると、ステップがわからなくても男性に合わせて踊る事ができるのだとアーリアは教わった。
エステル帝国の夜会では主にワルツの音楽を選ばれる事が多い。最低限、『ベーシックステップ』を覚えておけば安心だそうで、アーリアは只今そのステップを練習中であった。
「異性のパートナーと意思疎通を図って踊ることは勿論です。しかし、踊っている最中も当然、周囲の者たちにも見られています。その状況も意識してくださいね」
「はい。でも、い、今はちょっと、ムリ……と、とと⁉︎ ーーす、すみません!」
ードサリー
アーリアはヒースの足を踏んで盛大に転んだ。ヒースは転んだアーリアの身体を受け止めて、手と肘を床についた。
「アーリア様、平気ですか?」
ヒースは受け止めたアーリアを下から見上げた。アーリアの長い髪が垂れてヒースの顔にかかる。
ヒースは怒る事なく、寧ろ笑顔でアーリアの謝罪を受け入れると片腕だけでアーリアを抱き上げ、それと同時に自分自身も立ち上がった。アーリアを床にそっと立たせると、アーリアの乱れた髪を梳いて、何事もなかったかのように手を差し伸べた。
「もう一度、同じステップでやってみましょう」
アーリアは無言のまま頷くとヒースの手を取った。今は練習中なのだと思い出し、羞恥を捨てて集中する時なのだと決心した。ヒースの色気に見惚れている暇などないのだと。
ヒースはもう一方の手をアーリアの腕から肩にかけて添えた。お互いの身体を合わせ、背筋を真っ直ぐに正す。そしてそのまま反るとお手本のような美しい姿勢となった。しかし、今のアーリアにその美しさを感じる余裕はなかった。
スタンダードの基本とも言えるワルツは三拍子に合わせて踊る。優雅で流れるようなステップは見る者を魅了させるのだが、アーリアが踊る様はまるで湖面で溺れそうになっている鴨だ。バタバタとばたつかせる脚が、見ている者になんとも笑いを誘う物であった。
「ふ……」
リュゼはアリア姫の護衛として『システィナから来た護衛騎士』という設定から、システィナより送られてきた騎士服を着て警護の任に就いていた。
リュゼはアーリア共々ユークリウス殿下に保護されて以降、ユークリウス殿下の護衛であるヒースからエステル帝国の騎士の在り方、騎士としての所作などを習っている。リュゼはヒースの部下ではないのだが、ヒースは実に面倒見よくリュゼに教えを与えた。
そんなリュゼは今日、アーリアの護衛として『ダンスレッスン』を見守っていた。レッスンを行っている広間にはアーリアとヒース、ワルツを奏でるバイオリニスト一人、そしてリュゼがいた。ヒースがこちらに居るので、今はフィーネがユークリウス殿下についている。
アーリアは美しい淡いパールのドレスを身につけていた。《偽装》を施した金の髪と美しく輝く虹色の瞳とがよく合っている。背中と胸元の大胆に空いたドレスはアーリアの白い肌の美しさを際立たせていた。
「くく……」
当初リュゼは扉の前に直立不動の騎士スタイルで二人の様子を観察していたのだが、1時間経っても上達の気配のないアーリアにだんだんと笑いが込み上げてきていた。
社交ダンスにはそれ程激しい動きはない。柔軟さも然程必要ない。普段の生活ができる体力があればある程度踊れてしまうものだとリュゼはヒースに聞いていた。だからどんなに運動神経がなくても、ステップさえ覚えてしまえば数分で踊るようになるのだと聞いたのだが、アーリアはその例外を行くようであり……。
「あ、また転んだ……」
本日、もう幾度目かも分からぬアーリアの転倒に、リュゼは笑いを耐えながら呟いた。初めは転倒の回数を律儀に数えていたのだが、途中から笑いを耐える方に意識がいって、それどころではなかった。
リュゼの視線の先にはアーリアと、アーリアを支えるヒースの姿が見えた。視界の端にはバイオリニストは苦笑している。ヒースの表情も笑顔こそ張り付いて見えるが、何処と無く余裕がなくなってきたように感じた。
アーリアがヒースの足を踏んだ回数は転倒回数の比ではない。いくら体重の軽いアーリアだといっても力加減なくヒースの足を踏んでしまっているので、そろそろ足の感覚がなくなってきているのではないだろうか。
すると再度アーリアとヒースが立ち上がり、またステップを踏み出したが束の間、アーリアの右足が自分の左足に引っかかった。
「ひぃぁッ⁉︎ ヒースさん、すみません!」
「だ、大丈夫です……」
ここまでがリュゼの限界だった。
「くっ……くははは!ムリムリムリ!アハハハハハ‼︎」
護衛として比較的にマトモな顔を作って立っていたリュゼは、その表情を破顔させて爆笑した。瞳には涙まで浮かべて。
するとそのリュゼの笑い声に、床に膝をついていたアーリアと足を押さえていたヒースが一斉に振り向いた。
「ええっ⁉︎」
リュゼの破顔した顔を見たアーリアは吃驚した。出会ってから今日まで、リュゼがこれ程までに素を曝け出した事などなかったからだ。確かに今のリュゼは護衛騎士としてあるまじき姿勢だ。
アーリアとリュゼは、エステル帝国で隙を見せる訳にはいかない立場。アーリアは彼の主として窘め、その行いを咎めなければならなかった。しかし、そんな事も忘れて仕舞う程にアーリアは驚愕していた。
「ちょ、ちょっと⁉︎ どうしたの、リュゼ⁉︎」
アーリアはヒースを気遣いながらもリュゼに声をかけるが、リュゼの笑いは治らない。
「だ、だって……くく…ひ、姫……くくく……」
「えぇ〜〜〜〜⁉︎ 」
「ふ、ふつー自分の足に引っかかるとか……くくく……アハハハハッ!」
リュゼも一応はこの場が『公共の場』だと分かってはいるようで、アーリアを『姫』と呼んではいる。しかし、その笑いを止める気はないようであった。
リュゼは呆気にとられているアーリアとヒースの様子にを丸っと無視すると、いつもの足取りでのらりくらりと近づいてくる。そして、アーリアの腕を掴んで立ち上がらせると、何故かアーリアの側を通り過ぎて蹲るヒースの前に跪いた。すると、何と、リュゼはヒースの足の甲を指でツンと押したのだ。
「リュゼ、何をして……?」
「ーーーー⁉︎ 」
ヒースは驚愕の表情でリュゼを見たが、それも束の間、自身の足の甲を抑えて蹲った。
「アハハハハハハーーーー!」
「リュ、リュゼ……それヒドイ!」
「ヒ、ヒドイって……アレは姫の所為でしょう……くはははッ!」
「そ、そうだけどっ⁉︎」
「ひ、姫のあの動き……カニみたい……!」
「かにぃ〜〜〜〜!」
リュゼの『カニみたい』という一言にアーリアはキレた。以前、兄弟子にも同じ事を言われた事があったのだ。あの時も自分としては真剣に取り組んでいた護身術の練習を笑われ、自身喪失した覚えがある。今回とてアーリアなりに一生懸命なのだ。
ここ毎日、やれ淑女教育だ、やれ国史教育だ、やれテーブルマナーだと慣れない勉強と訓練の連続だったアーリア。その全ては『自分とリュゼの命を守る為』だと思い、真剣に取り組んできたのだ。それなのに、当のリュゼに揶揄われる事になろうとは思いもよらなかった。
運動神経が死んでいるのは自覚している。だが『カニみたい』はアーリアにとって禁句なのだった。
「〜〜〜〜!」
「……イタイ! ひ、姫ぇ⁉︎」
アーリアはリュゼに詰め寄ると、その胸をポカポカと叩き出した。アーリアは顔を真っ赤にして怒っていた。その瞳を怒りに潤ませてリュゼを見上げてくる。
「アハハハハハハ!ひ、姫、その顔ーーーーアハハハハ!」
突き押しながら叩いてくるアーリアの身体をリュゼは支え損なって、二人は床へ倒れ込んだ。リュゼはアーリアの腰を支えて上手く受け身をとる。しかし、アーリアの怒りは治りがつかない。リュゼを見下ろすアーリアの怒りに染まった顔に、リュゼの笑いのツボもまた、刺激されてしまったのだ。
ーこんなに笑った事が今までの人生であっただろうか……?ー
リュゼはそんな事を頭の隅に思ったが、今はそれどころではない。一度出た笑いがもう自分では止められなくなっていた。
アーリアの怒りも未だ治らなかった。アーリアはリュゼの腹に馬乗りになったまま、己の中で爆発した怒りを拳に乗せて発散した。
この状況は様子を見に来たユークリウス殿下が来るまで繰り広げられたのだった。
※※※※※※※※※※
社交ダンスは優雅な見た目の割にとても運動量が多い。手足だけでなくお腹も背中も目一杯動かし、普段使わない筋肉を使ったようで、アーリアは練習が終わる頃にはヘトヘトだった。
正確には、社会ダンスの練習のみで疲れた訳ではないのだが……。
「ーーで、何故あんな状況だったんだ?」
アーリアはユークリウス殿下との食事の後、応接室で紅茶を飲んでその日にあった出来事を報告していた。
晩餐はユークリウス殿下と共に摂り、そしてその後は報告会という流れができていた。その間、リュゼとヒースは部屋の外で警護だ。
ユークリウス殿下はあの状況に至った理由をヒースから聞いてはいたのだが、改めて本人から事情を聞いてみる事にしたのだった。
「そ、その……?」
「……何だ?」
「リュゼに『カニみたい』って言われて……」
「カニってあの蟹か?」
「そうです……」
ユークリウス殿下の問いにアーリアは俯きながら答えた。アーリアは憮然としていて、心底、リュゼの言い分を認めていないようだった。
ユークリウス殿下は軽く笑うとアーリアの手を取った。そしてアーリアをエスコートし立たせると、その背に手を添えた。いきなり身体が密着状態になったアーリアは、慌てた声を出した。
「ユリウス殿下⁉︎」
「踊ってみりゃ分かるだろ?」
ユークリウス殿下はそう言うとステップを踏み出した。アーリアもユークリウス殿下の動きに吊られて足を動かした。
音楽のないままユークリウス殿下とアーリアは1、2、3、1、2、3と3拍子のリズムを踏んで踊り出す。初めはユークリウス殿下の強引さに慌て、次に殿下の胸の中で息苦しさに緊張していたアーリアも、ユークリウス殿下の滑らかなリードに、だんだんと肩の力が抜けていった。
「何だ、踊れるじゃないか?」
「あれ……?」
ユークリウス殿下の胸の中でアーリアは呆けた声を出した。
十分程の間、蝋燭の火の揺れる柔らかな灯りの中で二人、ワルツを踊った。アーリアとユークリウス殿下の周りにはいつの間にか精霊たちが現れ、二人の動きに合わせて踊り出す。銀髪の皇子と白き髪の姫の闇夜のダンス。見る者がいれば、それはさぞ幻想的な風景に見えただろう。
その間、アーリアは一度もユークリウス殿下の足を踏むことはなかった。
「お上手ですよ、我が姫」
「ユリウス殿下……!」
「ハハハ!ーーまぁ、これで俺とお前の相性が良いって事が分かったな?我が愛しの姫」
そう言うとユークリウス殿下はアーリアから身体を離し、アーリアの手の甲にキスをした。そして手の甲に唇を押し当てたまま、何時ものニヒルな笑みをアーリアに投げかけたのだった。
アーリアはユークリウス殿下の魅力的な仕草に、不覚にもまた胸をドキリとさせてしまうのだった。
お読み頂き、ありがとうございます!
ブックマーク登録など、大変嬉しいです!感無量です。励みになります!
ダンスレッスンをお送りしました。
リュゼの馬鹿笑い話でもありました。
ユークリウス殿下は流石『皇子様』ですね?彼の『皇子様スタイル』は標準仕様です。女性に好かれようとしている訳ではありません。
次話も是非ご覧ください!