桜咲く季節に
葵生りんさん主催「ELEMENT 2015春号」にテーマ創作として参加、寄稿させていただいた作品を、若干(いや、かなり?)改稿させていただいたものです。
テーマは、「桜」。
あれは確か、社会人二年目になったばかりの頃の、ある朝のことだったか――
穏やかな、春の朝陽。
昨日の、深夜までの残業のせいで、世界が黄色く見えた。
ぐったりとした体に連動するかのように、僕の瞼は中途半端にしか開かない。
瞳の奥にズキズキと痛みを感じながら、僕は部屋のカーテンを思いっきり開けた。
――朝の出勤の辛さは、サラリーマンの宿命だ。
フラフラする体と、しわくちゃなスーツ。
そんな状態でも、どんな状態でも、会社には出勤しなければならない。
僕は、まるでまだ夢から覚めない赤ん坊のような足取りで、アパートの玄関を、のらりくらりと通り過ぎた。
けれどそんなとき――
最寄りの地下鉄の駅を目指すはずの僕が、鼻の奥を心地よくくすぐるような、とてつもなく甘美な香りに、心を奪われてしまったのだ。
(桜の花の香り? ……どこからだろう? 回り道してでも確かめてみたいな)
そのときの時刻を考えれば、そんな余裕もないはずだった。
何故かそんな回り道をする気になった僕は、地下鉄駅への最短ルートから外れ、匂いのする方向へと歩みを進めてしまった。
頼りは、自分の鼻の感覚だけ。とにかく、歩く。
通勤ルートを東側に二本ずれた、やや賑やかな表通りに出たときだった。
「わあ、ここだ……」
そこに、僕の目指す「桜」の樹があったのだ。
辺りに立ち込める、美しい妖精の髪から発するかのような、艶やかな花の香り。
高さ三メートル程度の桜の木が、その匂いの強さとは裏腹に、地味な平屋建てのお宅の小さな庭の片隅に追いやられるようにして、こじんまりと立っている。
通勤途中の僕の足が、つい、止まってしまった。
と、突然、お宅の玄関の戸が、ガラガラと開いた。
そこから姿を現したのは、背中の曲がった、小柄なおばあさんだった。茶系の地味な服装に身を包み、白髪がちの髪を頭の上でくるりとまとめている。
おばあさんは、すぐ傍で佇む僕を認めると、長い人生の含蓄のすべてを溶かしこんだような優しい笑顔をこちらに向け、ぺこりと可愛く、お辞儀をしてくれた。そして、手にした小さな箒を操り、鼻唄混じりで庭の掃除を始めたのだ。
(何か、得した)
体の奥底から力が湧き出て来る――そんな気分。
僕は、急に軽くなった足取りで地下鉄駅の入口に辿り着くと、「強敵上司」の待つ我が戦場へと向かって行った。
❀
それからというもの。
僕は、桜咲く季節になるとその桜の匂いを嗅ぎに――いや、本当を云うと、おばあさんのその柔和な笑顔を拝みたいがために――少し遠周りをして、地下鉄への通勤路を歩くようになった。
五、六年くらい続いたと思う。
あんなに通ったのに、連れのおじいさんの姿はついに一度も見かけることはなかった。きっと、僕が初めて会った頃から、おばあさんはずっと一人暮らしだったんだろう。
そして、僕が係長に昇進したばかりの頃だった。
世の中から見れば取るに足らないほんの小さな昇進だが、おばあさんにちょっとだけ自慢したい気持を心に秘めた僕は、連日、風が吹くたび桜の花びらの舞うおばあさんのお宅の前を、朝も夕も通り過ぎた。
もちろん僕のお目当ては、僕が通る度にいつも向けてくれる、あの、しわくちゃだけどほっこりと優しい笑顔だ。
けれどその数日間、僕の前におばあさんは姿を現すことはなかった。
(おばあさんに、この姿を見て欲しいのに……)
その日、すっかり散ってしまった桜の花を尻目に、ちょっと値の張る真新しいスーツを身に着けた僕は、諦めきれない気持ちで、お宅の庭先を眺めていた。
ひっそりとした佇まいの平屋に、人気がまるで感じられない。
がらがらと音を立てて開くはずの玄関の戸も、ちっとも動く気配がない。
いつもおばあさんが使っていた箒だけが、寂しげに玄関横に立て掛けられたままだ。
結局その春、僕はおばあさんの姿を見ることはできなかった。
それから、数か月後のことだ。
――風の噂で、おばあさんが病気で亡くなられたと聞いた。
❀❀
単調な何年かが、音もなく通り過ぎていった。
あれから、あのお宅の敷地に人がいるのを、見たことはなかった。
おばあさんのいなくなったあの場所に、未練はない。未練はないのだが……
春が来るたびに辺りに漂う、桜の花の香り。
主がいないにもかかわらず、相も変わらず咲き続ける、桜。
あの香りを嗅ぐたび、僕の足は、勝手にそちらへと向いてしまう。
おばあさんがいなくなり、玄関横の箒の上に土埃がたまるばかりで、うら寂びていく庭。そこかしこは、雑草がかなりの勢いで蔓延っている。
けれど、あの桜の樹だけは、何の変わりも見られなかった。
それはまるで、桜の木があばあさんの亡くなったことを知らずに、もしくは知らないフリをして自分の仕事を毎年精いっぱいこなしている――そんな健気な様子に、僕には思えた。
こんな状態が永久に続くのだろうか――と思い始めた、そんな頃だった。
おばあさんのお宅をすっぽりと覆うようにして、工事用の鉄板と濃い緑色のネットが出現した。春も過ぎて、夏の初めに差し掛かったときだったから、僕は偶然その前を通り過ぎ、知ったのだ。
(え? 工事でも始まったの?)
その考えは正しかった。
通りに向けて張り出された、「解体工事」と記された工事看板。
ついに、桜のお宅の、おばあさんのお宅の、解体工事が始まったのだ。
(桜の樹が切られちゃう?)
それからしばらく、あの家の前を通って出勤、帰宅を繰り返した。
気が気でない――そんな状態だったと思う。
日を追って、進んでいく工事。けれども、現場を囲む薄い鉄板とネットで、桜の樹の様子はおろか、中の状態はほとんど見えなかった。
(囲いが、そろそろ取り外されるのかも……)
そう思った時から、僕は、あばあさんの家の前を通ることができなくなってしまった。あれほど気になって、毎日毎日、訪ねていたというのに。
きっと、桜が無残にも切り倒されてしまった姿など見てしまったら、それに耐えられるかどうか、僕には自信が無かったからだろう。
――次の日から、僕の通勤時間は少しだけ短くなった。
❀❀❀
再び巡って来た、春の季節。
この年の春ほど、僕の人生の中で気の重い到来は無かったと思う。
実は、この年の春前に、僕はお嫁さんを迎えていた。
狭いアパートではあったけど、まずは僕が住み慣れた場所で二人の生活を始めることにしたのだ。
彼女は持ち前の明るさで、春先の僕の重い気持ちを優しく包み、そして癒してくれた。
彼女にその意識は特になかっただろうけど、本当に助かったと思う。
(今は、桜の季節。でもどうせ、あの桜は切られてしまっただろうし……前を通りたくなんて、ないよ)
ある日の朝、そう思ってアパートを出た瞬間だった。
僕の鼻孔をくすぐる、あの懐かしくも芳しい香りが、街のそこかしこを占領していたのだ。
(ん? まさか……)
思わず走り出した、僕。いや、両足が勝手に動き出した、っていうのが真相に近い。
たぶんその頃の自分としては、もうこれ以上は無理、っていう位のスピードだったと思う。
匂いを手繰るようにして辿り着いた先――実は辿らなくても到着可能な場所だったが――それは、真新しいコンビニの駐車場だった。
(コンビニになってたんだ……)
自分の嗅覚が間違っていないことを実感した僕の目前には、忘れもしない、あの懐かしい桜の樹が一本だけ、これ以上ないくらいの不自然な感じで、駐車場の一部分を贅沢に占拠していた。
周りの景色は変われども、桜の樹の枝ぶりは変わらず。
まるでこの春を独占するかのように薄桃色の花びらを温かい風に乗せ、辺りに撒き散らしている。
(きっと、ここのオーナーの粋な計らいに違いない!)
思わずコンビニへと飛び込んだ、僕。
「いらっしゃいませぇ」 若い女性店員さんが、声を張り上げた。
素早く幾つかの物を籠に入れ、レジへと進む。
それは、昼食用に買ったサンドイッチとおにぎりを一つづつ、それと、ペットボトルのお茶を一本だった。
「ありがとうございます」
バイト店員の彼女の元気な声が、僕の全身ををふんわりと包み込む。
「いえ……こちらこそ、ありがとうございました」
僕の返答に、店員さんが戸惑った表情を見せる。
「え? 何ですか?」
「いえ、何でもありません。こちらのことなんです。とにかく……本当にありがとう」
「はあ……」
頻りと首を傾げる店員さんからお釣りの小銭を貰うと、僕はすっかり春の陽気真っ只中となった外の世界へ、飛び出していった。
❀❀❀❀
あれから、何年が経ったことだろう。
新婚時代を過ごしたあのアパートから、もうだいぶ前に、近くのマンションに移り住んだ。ちょうどその頃、娘という家族が一人増え、三人家族になった。会社では、数年前から、管理職になっている。
でも一つだけ、変わらないことがある。
桜咲く季節には、桜舞い散るコンビ二の前を通って、最寄り駅に向かうことだ。
最早、僕の血となり、肉となった、習慣。
僕がこの街に住んでいる限り、それは永遠に続いていくことであろう。
〈了〉
お読みいただき、ありがとうございました。