08 逃避行の終わり
首をもたげ牙を剥くその大蛇は、これまた規格外に大きい。胴体は丸太ぐらいの太さがあり、長さはもはや把握できない。闇に紛れて、木々に巻き付いている。
大蛇は僕らを見下ろしながら、チロチロと太い舌を見せてくる。
「え、な――」
突然の恐怖に僕の体が固まる。まさに蛇に睨まれた蛙だ。あの蛇なら――僕を丸呑みするのなんかわけないだろう。それに牙。長く伸びた二本の牙は、サバイバルナイフくらいの大きさがある。もしもあれに噛まれでもしたら――
そんな僕の恐怖を感じ取ったのか、人造人間の彼女は、蛇を僕から引き離すように刺突を繰り出して威嚇する。
一閃、二閃――蛇の頭部を白刃がかすめる。
「行ってシンカク! 後で追いつく」
化け物みたいな蛇に対しても彼女は勇猛果敢に向かっていくが、一方の僕は情けなくも動くことが出来なかった。
――なおも、彼女のレイピアが夜の森に舞う。
神速にして正確無比。蛇が噛み付こうとする瞬間を狙い澄まして繰り出される鋭い突き。月光を反射し、青白い光が闇の中を踊る。蛇の顔を狙い、相手が怯むように突きの弾幕を張る。
だが、決め手がない。
レイピアの刺突を弾く蛇の鱗は硬い。刃が徹るのは目や口の中くらいだろうが、さすがに、そんなあからさまな急所は安々と突かせてくれない。
「く、くそっ……」
僕は、恐怖を振り払って、体を起こそうとする。
けれど、膝が笑って上手く立てない。情けない。
お荷物な僕が逃げれば、少しは彼女の戦いも楽になるだろうか。
あの蛇は――追っ手なんだろうか。
確か蛇は熱を感知して獲物を追うという。正確には『熱を見て』だ。それならば、この深い闇で不利を被るのはこちらだけだ。僕が逃げたって、きっと追ってくる。残念ながら一人で逃げ切れる自信はない。彼女が僕を守ろうというのなら、僕も僕を守らなければ。この場で蛇を撃退するしかない。
どうにか立ち上がり、武器になりそうなものを探す。
「お、おい蛇! こっちだ!」
少しでも隙が出来ればと思ってのことである。
ただ、手の中にあるのは細い木の枝。
大蛇どころか、僕の柔らかい皮膚すら傷つけるのは難しいだろう。
心許ないにも程がある。
「シンカク!」
彼女が叫ぶのと同時に、蛇がこちらに回頭して地を滑るように迫りくる。速い。避けないと――
いや、間に合わない!
動けずに固まる僕。そこに、木々を掻き分ける音がして、頭上から何かが降ってきた。眼前に迫った大蛇の頭部に鋭い一閃。着地し、吠える。
目の前に降り立ったコヨーテの使い魔、ヨーヨーは、蛇の目に向けて爪を突き出す。
「シュアァアーー!」
大蛇は悲鳴のような音を発しながら、ヨーヨーを振り払って後退する。そこにレイピアの刺突が迫り、なおも下がる。
救援。二対一。
形勢は逆転したかに見えたが、
「ごふっ――」
白髪の少女は、くぐもった声とともに吐血した。薄闇の中でも、それは痛々しいくらいに赤かった。
彼女の胸には――背中から貫通した蛇の尾が見えた。胸元から、にょきりと角が生えたかのような、異形の光景。尾の先端は槍のように尖っている。貫いたのだ。あの鋭さで、背中から。
蛇の体は、彼女に巻き付こうと、うねる。
しかしヨーヨーが大蛇の喉笛に噛み付き、それを許さない。鱗を貫くヨーヨーの牙に、大蛇は血を流して悶絶する。尾は、ずるりと少女から引き抜かれた。支えを失って彼女は膝から崩れ落ちる。
「お、――おい!」
思わず駆け寄る。
「だ、大丈夫かよ!」
彼女の体を抱きすくめる。さっきも感じた儚い重み。
――大丈夫なわけがないだろう。
いくら人造人間だとかいう、未知の人間であっても。さすがにこれは――まずい。
『グガウッッ――!』
ヨーヨーの咆哮がした。僕がその方向を振り向くと、ヨーヨーの眼光から逃げるように、大蛇は森の奥へと消えていった。大蛇を撃退した雄々しい獣はこちらに近づいてくる。
『我が主は無事か』
水中で聞く音のような、不思議な響きがした。
『助かりそうか』
もう一度、その声がした。
『彼』の仕草と見比べて、その声の主に思い至る。
「え、この声……ヨーヨー?」
『如何にも。して、我が主の様子は』
彼は言いながら、落ち葉を踏みしめて近づいてくる。
「あ、ああ。血が、血が止まらない。胸に、胸に穴が……」
彼女の肩を抱きすくめながら、僕はそう答える。
右手を彼女の赤い血が濡らす。闇の中でも分かる赤。
温かい。
温かくて赤い、僕らと同じ血。
人間になりたいと言った彼女の血が、命が、さらさらとこぼれて落ちていく。
「なあ、おい! ほら、蛇はヨーヨーが追い払ったぞ?」
見て分かる致命傷。僕の視界が滲む。会ったばかりだけど、何も知らないけれど、こんな簡単に死んでいいはずないじゃないか。名前が欲しいって笑ったじゃないか。怖い。命が目の前で失われていく感覚が、怖い。
腕の中の少女は、僕を見て口を開く。
「だい、じょうぶ? シンカク……」
「僕は大丈夫だよ! 傷ひとつない。君のお陰でだ!」
「よ、かった…………」
良くない。良くねぇよ。
何だよ、何で僕の心配をしてんだよ。僕を守っても、君が死んだら意味がないだろ。何のためにお前、戦ってたんだよ。
「よ、ヨーヨー! 早く病院に」
『間に合わん』
彼は首を振る。
『今から森を駆けてもその傷ではもう間に合わん』
「っ――そんなこと――!」
『なぜ泣く』
獣は、静かな声で問うた。
『シンカクならば従者などいくらでも見つけられるだろう。我が主である必要はないはずだ』
「んなこと知らねぇよ!」
僕は声を荒げる。
「僕を守って、戦ってくれたんだ。こいつは……放っとけるかよ!」
ああもう、何だよシンカクって。神様ならこんな穴くらい塞いでみせろよ。何なんだよ、僕。この瞬間にも、じわじわと彼女の血は滲み出てくるっていうのに。
『契りを――』
躊躇いがちにヨーヨーは言う。
『契りを交わせば助かるかもしれん』
「契り……」
『血と魂の契約だ。従者は神の力を得る。神は――シンカクは従者の魂を得る』
「それで……助かるのか?」
僕は震えた声を絞り出す。
使い魔は鋭い瞳を僕に向け、あくまで落ち着いた声で告げる。
『分からぬが可能性はある。ただし――』
「ただし?」
『人造人間と契りを交わしたシンカクの話は、聞いたことがない。人間よりも低次元の生命体である人造人間。神への冒涜。人の罪。……最悪、お互いが消滅する可能性もある』
消滅ってなんだ。
お互いが……消える?
『それでも我が主は、人間になることを望んでいた。しかしシンカク。貴殿にその覚悟はあるか』
「覚悟なんて――」
今の僕に、ただの高校生の僕にそんなものはあるのか。他人のために犠牲になる覚悟はあるか。
そんな覚悟なんて――
『なければやめておけ。別の従者を探せ。それがシンカクのためだ』
「でも、じゃあこの子は――」
『私が連れて行く。シンカクも――森の外まで乗せて行こう。それで終わりだ』
それで終わり。ヨーヨーは言った。
逃避行の終わりで、人間になるという彼女の夢の終わり。
彼女の終わり。
記号の羅列で識別されたまま、彼女は終わる。
僕は。