06 ホムンクルスと魔眼
しばらく森を進み、周囲を確認してから、僕らは狼の背から降りた。
「ヨーヨー」
少女は、呼ぶ声と目線だけで狼に指示を出す。
その合図を受けて巨大な獣は、僕らが進むのとは違う方向へと走りだした。
「え――」
まだ先の見えない暗い森の中。正直、狼は狼で恐ろしかったけれど、あの背中に乗ったまま森を抜けるものだとばかり思っていたので僕は戸惑ってしまった。
夜の森は不気味だ。三つの満月が照らす月明かりはあるが、その光は木々の間を縫ってわずかにしか届かない。すぐ隣にいる彼女の顔も、ようやく見える程度だ。吸い込む空気には、わずかばかりの湿り気と、夜の闇の静けさとが混じり合っていた。
恐ろしくも猛々しい――味方である内は心強い――あの狼が去って、急に心細くなった。
「行こうシンカク」
「は、はあ――」
僕の戸惑いなどお構いなしに、彼女は歩を進める。
「あの、ありがとう。君は……君は何で僕を助けて?」
彼女の背中に話し掛ける。
僕の発する声は女性のそれ。いつもより高く、そして細くて、まだ聞き慣れない。誰よりも近くで響く自分の声。普段は意識していないその声がまるで――いや、完全に他人の声なのだ。しかもそれが女性のものだというのは、どうにも落ち着かない。
「私はシンカクが欲しい。シンカクは神の卵。だから奪った」
「奪った? 欲しいって――僕を?」
女の子にそんな風に言われて、まあ悪い気はしないけども。
っていうかシンカクの『シン』って『神』なのか? 日本語?
「えっと、なんで?」
「私はシンカクの従者になりたいから」
従者? って何だ。さっきから何一つ理解できる単語が出てこない。
「私は人造人間だから。従者になって――人間になりたい」
「ホム……?」
「そこ滑る」
「え――えうわっ!」
苔むした岩肌に足を取られ、こけそうになる。
苔だけに。
というか歩きにくい。現代日本で暮らしてきた僕にとって、この獣道すらない森の中の行軍は堪える。更には、今の僕はわらじのようなシンプルすぎる足元である。裸足でなかっただけ幸運だったとも言えるけど。小男たちが履かせてくれたのなら、これには感謝してもいいかもしれない。
「あ、あのさ、さっきの狼に、そのまま乗って行くわけにはいかなかったのかな?」
少女は僕と同じか年下のように見えるし、思い切ってタメ口で話してみる。彼女も僕に遠慮している様子はないからいいだろう。
「コヨーテ」
「ん?」
「狼じゃない。コヨーテ」
「……ああ、コヨーテの『ヨー』を取って、ヨーヨー?」
「使い魔」
「えっと……使い魔の、コヨーテで、名前がヨーヨー?」
「そう」
喋りづらい。
相手にされてないとか、嫌われている感じはないんだけど――ごく最近そういう体験をしたので『そうではない』と言い切れる。人生、何事も経験だ――彼女は必要最低限の単語しか口にしないから、得られる情報量が少なくてもやもやする。
そもそも、それが必要最低限なのかすら僕には判断できない。肝心なところ――シンカクだの従者だのは、よく分からないし。
人造人間ってあれだよな、人工的な命……ってやつだよな。
「君って、女の子――なのかな」
「見て分かる」
そうだよね、と僕は頷いた。無感情に見えるけど、今の声は、ちょっとだけ怒っているようにも聞こえた。確かに無神経だったかも。
「早く行く。ヨーヨーが囮になっているうち」
「え、囮って――」
「たぶん追っ手が来る。その前に逃げる」
さっきの奴らの追っ手が、と彼女は告げる。
しかしなんで僕を……シンカクとかいうのと関係するんだろうか。それにこの子も。
「えっと、何て呼べばいいかな、君のこと」
これからの道中――それが何処までのことを指すのか、今は定かではないけれど――しばらくは同行させてもらうつもりなので、いつまでも「君」と呼ぶのは気が引ける。
「A6573―O03239333」
「はい?」
「A6573―O03239333」
僕の「はい?」は、「聞き取れなかった、もう一度言ってくれ」の意味ではない。
パードゥンではなく、ホワットのほうだ。
何だそれ――って意味だが、そのニュアンスは彼女に通じない。
「識別番号A6573―O03239333」
彼女は振り向いて復唱した。そして、左の掌を上に向け、手首を僕に見せる。そこにはバーコードに似たアザのようなものが、宵闇の中うっすら見えた。
「これが証拠」
「はあ」
気の抜けた相槌で申し訳ないけれど、他にどう言えばいいだろう。
全っ然ワカンネエ。
「だから名前は?」
「これが私の名前。A6573―O03……」
「いやごめん、もういいから……えっと、それ以外に何て呼ばれてるの?」
「それ、これ」
ソレコレ?
いや違うのか。
そこにある『それ』、ここにある『これ』――という意味なのだろう。
本当にそんな風にしか呼ばれてないとしたら、まるで奴隷だ。ほとんど物だ。
「それが常識なのか? 番号とか、『それ』とか呼ばれるのが……」
「違う。私は人造人間」
だから、これが名前――と彼女は言う。
「いいのかよ、そんな呼ばれ方で……」
彼女が名乗った『名前』。まるでスナック菓子の袋にでも書いていそうな機械的な記号。ただの文字と数字の羅列じゃないか。そんなものは名前じゃない。
こちらの世界のルールは知らないけれど、きっと、無表情で話していいことではないはずだ。
人造人間とやらが実際何なのか、知る余地もない。けれども確かなのは、彼女は僕を助けてくれた、体温を持った女の子だということ。無愛想だけど無感情じゃないはずだ。
無感動に識別していい存在じゃない。
少なくとも、僕にとっては。
「なあ……従者ってのは神様に従うものなのか?」
「そう。服従」
「僕は神様――みたいなもんなんだよな」
「そう。シンカク」
「じゃあさ、もし君が僕の従者になったら、別の名前付けてやるよ」
「別の?」
彼女が不思議そうな顔をする。
「そんな名前じゃ不便だろ。僕も呼びづらいし」
「私の、名前?」
「そ。君の名前。一緒に考えたっていい。神様ならそのくらいしたってバチは当たらないだろ。……っていうか、誰が神様にバチを当てるんだって話だし」
「名前……」
僕の言葉を反芻し、彼女はしばし考え込む。
「いい名前にしようぜ。そんなのが君の名前とか、悲しいこと言うなよな。まあ君が気に入ってるんなら無理は言わないけどさ」
「うんシンカク。名前。私も人間になったら――名前欲しい」
彼女は僕を真っ直ぐに見て笑った。ぎこちないけれど笑顔を見せた。
造り物ではない笑顔だと思う。思うだけかもしれないし、そう思いたいだけかもしれないけれど。そうであって欲しい。
「おう――って、どうすりゃいいか、まだ何も分かってないけどな」
しかし、今の境遇を思い出して僕は頭を掻く。
「まずは逃げる」
「そっか、逃げなきゃな」
改めて彼女の顔をまじまじと見る。
その勇ましさから初めは男かと思ったが――目はきりりとしていて、口はきゅっと閉じている。鼻筋は通っているが嫌味はない。無表情だけど愛嬌のある顔をしている。有り体に言って可愛い。ロシアンブルーの子猫みたいな雰囲気だ。
女子になっちゃった僕の身長は今現在、どのくらいなのか分からないけれど(縮んでいたとしても比較対象がなくてよく分からない)、彼女はそんな僕を見上げてくる。
さあっと木々が揺れて、彼女の碧眼を月の光が照らす。
彼女は急に、
「はにゃあ――――」
なんて気の抜けた声を漏らしたかと思うと、僕にしなだれかかってくる。
彼女の儚い体重が、すべて僕に預けられる。
「え? え?」
フォークダンスでしか女子にタッチした記憶のない僕に、彼女はもたれかかってくる。
脱力した身体を慌てて抱きとめる。
「シン、カク……」
彼女は、哀願するように僕を呼ぶ。先ほどまでの平坦な声と打って変わって、艶っぽささえ感じる甘い声。聞こえてくる小さな吐息。僕の胸の中で、熱っぽい目をして彼女は、
「…………して」
「!」
して? してって何だ!
お好きにどうぞか? アズユーライクか?
この場合は。えっと――
うん。
…………好きにしていいのか?
僕は本当に手を伸ばしそうになって(どこへかは聞かないで欲しい。プライベートな内心の情報だ)、すんでのところで踏みとどまる。命の恩人に対して恩を仇で返すわけにはいかない。
でも、でも――!
女子に恥をかかせるのか? 僕は腰抜けか?
あ。
僕は今、女の子なわけだし……ありか!
耽美な感じでありなのか!
ありだな!?
ありって言えよ!
「ぬ、ぐ、ぐ……」
長い葛藤。目からは血の涙。歯を食いしばるあまり、あやうく奥歯を噛み砕きそうになった僕の熱を、彼女の言葉が冷ましてくれる。僕の目を覚ましてくれる。
「……シンカク。離して」
「ひゃ、ひゃいっ!」
声が裏返った。
つーか、もしかして、誘いを無下にされて怒ってらっしゃるのだろうか。もう言うまでもなく、僕は女心の機微を捉えられるほどの経験値を持っていない。
助けて、恋愛の神様。
「〈魅了〉……」
彼女は僕から一歩離れて、俯きがちに言う。
「? みりょう?」
「シンカクの力。魔眼」
「魔眼?」
「そう。魔法よりもっと上の――神様パワー。たぶん」
神様パワーってそんな雑な……と。そうではないのか、大事なのは。
魔法のような、魅了する力?
「シンカクは特別な能力を持っている。あなたの場合は〈魅了〉――なんだと思う」
「じゃあ君の様子がおかしくなったのは――」
「〈魅了〉に引っ掛けられた。不覚」
ナンパに引っ掛けられた、みたいな言い方をすんな。
しかし、魔眼。
僕が見つめて、彼女が魅入られた――神様の力で。
「急ぐ。余計な時間だった」
先ほどまでの甘い雰囲気の余韻などなく、彼女は大股で進む。
少し残念に思う僕だったけれど、置いて行かれるわけにも行かなかったし、追っ手とやらに捕まるのも御免だったので、彼女の後を追って歩き出した。