06 覆う泥
閉ざされた視界と掠れゆく意識の中で、僕が耳にしたのはいつか聞いた咆哮だった。
「なっ……!」
ゼパルの動揺。
そして突如現れた大きな気配。
『ナル、無事か』
水中に響くようなヨーヨーの声がした。あの森で別れて以来の、彼女の使い魔。
ヨーヨーは、僕に巻き付く赤い帯を力任せに引き剥がす。
「がはっ……げほっ!」
ようやく僕は、充分な空気を肺へと送り込むことが出来た。視界も戻った。四肢も解放されるが、まだズキズキと痛い。アザが残るくらいでは済みそうにない。
「……な、なんでヨーヨーが……」
『私は使い魔だ。主の求めに応じて馳せ参じた』
僕が呼んだのか? いやでも――
『私の主は彼女だ』
途端、僕の背後から何かが疾風のような疾さで追い抜いていく。青い光を放つ人型が、黒いローブの魔術師へと突進する。
「くっ――!」
ゼパルは慌てて両手を突き出し、呪文を唱えて、六角形の盾を創成する。
「〈綾花の園は鏡壁にて隔つ〉!」
ギィン――という金属同士のぶつかる音がして、青い光の突進は止まる。その人影は騎士のように勇ましい出で立ちで、一見、男性のようにも映る。しかし、僕はもうその姿を見紛えない。
目の覚めるような青い髪に華奢な体躯。
右手には細く鋭い刀身のレイピアを握り、そして纏うは神の加護。
僕は彼女の名を呼ぶ。
「青――!」
僕の声に反応するかのように彼女はレイピアを横薙ぎに振るい、六角の盾を砕いてみせる。ゼパルは舌打ちをしながらバックステップで距離を取る。
「ひさしぶり、ナル」
「ひさしぶり、か?」
あちらとこちらで時間軸がズレているのだろうか。
「そう。私にとっては百年ぶり」
「ひゃ、百年?」
「まだ一週間だけど。私にとっては百年」
「そっか……じゃあひさしぶりだな」
「うん」
青と僕はそう言って、ニヤリと笑い合った。男の僕に会うのは初めてなのに青は何の違和感も持っていないようだった。なぜだかそれは、とても嬉しいことのように感じられた。
ゼパルは乱れたローブを直し、
「ふふ、まさか従者と……使い魔までこちらに来るとは。魔術師でもないのに、よくぞシンカクの異世界渡航に随行出来たものだ」
「違う。追いかけて来た」
「追いかけて――」
「そう。ナルが……ナルカミ様が呼んだから」
助けて欲しいと願ったから――と彼女は言う。
シンカクが祈って、従者が現れる。なんだか反対のような気もするが……。でも主従は逆転していないのかもしれない。僕が呼んだから彼女は来た。馳せ参じた。それならば順当といえるのかもしれない。
僕は、苦痛を訴える両足に鞭を打ち立ち上がる。
「ゼパル。お前は何がしたいんだよ。ネクロアを……雪代さんを追い詰めて何になるってんだ」
雪代さんは焦点の合わない目でうずくまり、ガタガタと震えている。ゼパルの操る赤い光の帯が、彼女の周りを周回しながら警戒している。それは主を守る動きというよりは、獲物を横取りされまいとする爬虫類の執着に見える。
「シンカクとはあくまで卵……しかし、栄養の豊富な、殊更魔術師にとってはまさしく、天上から賜った奇跡の雫なのです。それを異世界の小娘ごときがその身に独占するなど――これは世界にとって大きな損失だ」
己の主人を見下ろしながら、ゼパルは苦々しげに吐き捨てる。
「ならば――容れ物を壊せばいい。中身だけを私がいただく。未熟な小娘の精神は、実に脆くて打ってつけだ」
雪代さんはゼパルの声に耳を塞ぐが、きっとそれは無駄なのだろう。悪魔の声は、体の芯まで響くのだから。
「罪悪感と、暗い愉悦に浸りながらこの女は、ゆっくりと壊れていくはずだった。そしていつか真実を知った時、器は壊れる。そうして彼女の力ごと、彼女の存在ごと私が貰い受ける。……そういう意味ではあなたに感謝しなくては、お美しいシンカク。計画より少々早まりましたが、あなたが最後のひと押しをしてくださったのですから」
今度は僕を見て、心底気持ちの悪い笑みを浮かべる。
「青……あいつと戦えるか?」
「もちろん。ナルが言うなら、私は何でも。不可能なんてない」
「じゃあ、あの胸くそ悪い笑いを――止めろ!」
僕の声を合図に、青とヨーヨーは同時に地を蹴る。
直前、ゼパルは叫ぶ。
「遅い――!」
公園の乾いた土から無数の赤い帯が生えて伸びる。その様子は植物のようでもあり、動物的な動きのようでもあった。そして瞬く間に、ゼパルと雪代さんの周囲を包む。それは赤光のドームとなり、青たちの突撃を阻む。
「こんなもの……」
その半透明の壁に青のレイピアが打ち付けられるが、壁を切り裂くどころか傷ひとつつかない。ヨーヨーの牙や爪も同様だった。
不吉という不吉をすべて孕んだかのような赤。そのドームはまさに、邪神を降ろすための儀式の庭。
「ふふふ。邪魔をされては困るのですよ。これから私とネクロア様はひとつになるのですから……! ははははは!」
ゼパルの哄笑が辺り一面に響く。空から垂れ込める赤い光が一段と毒々しく強くなる。
「いや……! いやああああ!」
雪代さんの絶叫。彼女の足元に、悪意の塊のようなどす黒い泥が広がっていく。
どろどろと、どろどろと。
泥は、まるで意志を持ったかのようにうねり、雪代さんの足を飲み込んでいく。
「雪代さん!」
僕は思わず駆け出し、拳でドームの壁を叩く。
「――っつう!」
「ナル! 離れて」
青に引きずられ、激痛が走った自分の手を見る。ドームに触れた部分が焼けただれて皮がめくれていた。じわりと、血がにじむ。
「うぅ、くっそ……何なんだよこれは!」
ズキズキと痛む。骨にまで響くような疼痛。
『これはただの魔法ではない。シンカクと従者が混ざり合い始めている』
「混ざり?」
ドームの中では、泥が一面に広がっている。よく見ると、雪代さんはその泥に飲まれているのではなかった。雪代さんが泥に変わっているのだ。彼女の足が溶け、腹が溶け……彼女の質量では考えられない程の大量の泥に。おどろおどろしい意志を持った黒い泥に変換されていく。
そしてその黒い泥は、ゼパルを中心に渦を巻き始める。
「ははははは! さあシンカクよ! 私とともに来なさい! 今こそ、その芳醇たる理の外の力を、私に!」
ゼパルの体が、狂喜に満たされるかのように打ち震える。彼はこの狂騒の中心で、自らを悪魔に変貌させようとしている。
シンカクの力をもって、自らの悪意をもって。
泥は彼に絡みつき、その肉体を食らう。まるでスプーンでくり抜かれるかのように、彼の体が、泥に食われて消失していく。代わりに、泥の体積が幾何級数的に膨れ上がり、ドームを満たす。雪代さんの体は、完全に泥へと変換されてしまった。
「雪代……さん」
僕は痛みも忘れて、ただ呆然と、目の前の光景に息を飲むしかできなかった。
突然、赤いドームが爆ぜて四散する。
僕らは身を伏せる。
中からは、ゼパルの姿。髪はざんばらに伸び、肌は氷のように青白い。手や足は不自然なほど長く、胴と比べてバランスを欠いている。黒いローブはそれ自体が生き物のようにぞわぞわと這い動いている。
黒い泥から生まれた悪魔は、産声を上げる――
『はは、ははは、はははははははっははは!』
ゼパルの嗤う声が反響する。魔法も使えない、ただの人間に過ぎない今の僕ですら、彼が発する魔力が尋常でないことが分かる。大気が震える。地面が脈を打つように跳ねる。世界の色という色が――反転する。
『ははは……、さて――』
ゼパルが歪に伸びた人差し指をヨーヨーに向けると、
『グギャウッッ――!』
ヨーヨーの巨体が見えない何かに弾かれて飛ばされる。数メートルどころではない。公園の端、数十メートル先まで吹き飛ばされた。
「ヨーヨー!」
僕は思わずその方向に目をやるが、
「ナル! 視線を逸らさないで! 構えて! 無防備に受けたら……死ぬ。私の後ろから離れないで」
青は緊張に張り詰めた声で僕を叱り飛ばす。
『ふふふ、ははは、ははははははは――!』
ゼパルが指をくるくると回すと、僕と青の足が宙に浮く。そして大気が撹拌されたかのように、僕らは掻き回される。洗濯機に放り込まれたかのように、天地が分からなくなる。
「う、あああ――!」
僕の体が地面に投げ出される。青は頭を強打したのか、うめき声をあげる。
『ふふふ。シンカク。私はあなたの力も欲しいのです。あなたを殺さずに絶望へと沈めるには……その従者を壊せばよいでしょうか? ふふふ』
ゼパルの爪が、ついと青のほうを向く。
「や、やめろ!」
僕が何をしたってどうにもならないことはわかっている。それでも、彼女の命が失われていく姿なんて、もう二度と見たくない。
そんな衝動が僕を突き動かす。
まだ悲鳴を上げている三半規管を押さえつけながら僕は、青に被さるようにする。
ずぐん、と。
槍のように伸びたゼパルの指が、僕を貫いた。熱い感触が僕の脇腹から侵入して、内臓をかき回し、突き抜ける。僕の体など大した盾にはならない。僕を貫いた黒い槍は、そのまま青にも突き刺さる。青の悲痛な声が聞こえて、僕は思うわず彼女の名を呼ぶ。
「あ、青……」
その頬に手を伸ばす。白くて温かな彼女の肌。
僕の指を、熱いものが濡らす。
「ナル……だめ……死ぬの、だめ」
彼女は泣いていた。胸を貫かれた時も、僕が置き去りにした時にだって涙を見せなかった青が――泣いている。僕の体は貫かれ、もう冗談じゃなく死に向かっているけれど、悲しくはなかった。怖くはなかった――青の涙と比べれば。
誰だ、青を泣かせたのは。ふざけるな。シンカクも従者も関係ない。
誰が踏みにじった? 塔也を、リンちゃんを、そして雪代さんの思いを。
誰かが嗤っている。黒い空に向かって笑っている。
許せるか――許せるものか。
僕は僕のために――
何が悪魔だ。僕は女神だ――僕の名前はナルカミだ――
次の瞬間、僕の体は無数の稲妻になった。




