03 歪み
塔也に置き去りにされた僕は、まずポケットからスマートフォンを取り出して今日の日付を確認した。木曜日だ。あの遊園地の日から四日経っている。ただ、僕にはそんなに時間が経過した実感はない。
教室に戻って塔也と顔を合わせるのも気まずく、結局、のろのろと廊下を歩き、一階にある保健室の前までやって来た。体調は悪くはないけれど、気分は悪い。青のこと、塔也のこと、訳の分からないことばかりが僕の周りで渦を巻いている。
とてもじゃないけど、授業を受けるようなテンションではない。
そんな理由で休ませてくれるだろうか。少し躊躇した後、僕は引き戸を開ける。保健室は静かだった。
「…………あれ?」
窓際の机に先生の姿は見えない。養護教諭である林先生の姿は見えない。静かだ。校庭からの生徒たちの声が、微かに聞こえるだけだ。
(ベッド、勝手に使っていいのかな――)
僕は保健室のお世話になったことがあまりない。勝手が分からない。まあ別に薬を使おうってわけじゃないし、大丈夫だろう――とベッドを囲うカーテンを開ける。
――ただ、この辺が僕の僕たる所以というか。
勝手が分からないくせに勝手に使おうとするからこういうことになる。カーテンが閉まっているんだから誰かが寝ている、ということに僕は思い至らない。
そのベッドには先客がいた。しかも女子だ。
「あ……ごめ……」
反射的に謝ろうとする。
女子がベッドで寝てるってだけで刺激が強い。見ちゃいけないものを見た気になる。しかも、タイミングの悪いことにその子は目を覚ましていて――声を押し殺して泣いていたのだから。
その子――二年C組、遠藤鈴。リンちゃんは泣いていた。
「リ、リンちゃん?」
「え――成馬くん?」
思わぬ遭遇に身を固くする僕と、上半身を起こし、目を見開くリンちゃん。
「ごめん、すぐ出るから――」
慌てて回れ右をして立ち去ろうとする僕の制服を、リンちゃんの手が掴んだ。
「ま、待って! 成馬くん――」
首だけで振り返る。ベッドの上で僕の背に手を伸ばしたリンちゃんの、真っ赤になった目が視界に入った。
「え、えっと……」
こんな状態の女子を上手く慰める自信なんてない。けれどそれ以前に、今はリンちゃんとどう接していいか分からない。僕の記憶はあやふやだし、何よりも塔也の話を聞いてしまっている。
僕がおかしくなったのか、塔也が別人になったのか、それとも――
「ねぇ、成馬くんは……成馬くんだよね?」
リンちゃんは、何かに怯えているように見える。
「そうだよ……成馬。榧本成馬」
そんな僕の答えに、リンちゃんは何を思ったのだろう。まだ不安そうな顔のまま、
「私……私のことは、分かる?」
分かる。知っている。遠藤鈴。リンちゃん。
でも、僕の知っているリンちゃんなのかは分からない。あの日、遊園地で皆で過ごしたあの日から、僕の認識は何か、どこかがズレている。
――けれど。
僕はおかしくなってしまったのかもしれないけれど、分かる限りを話そう。知っている通りに話そう。だって、今の彼女は――まるで迷子になった子供のような、消え入りそうな泣き顔で僕を見ている。そんな彼女に嘘や誤魔化しを言うのは違うと思った。
「分かるよ。リンちゃん。二年C組。いつも笑顔の、僕みたいなのにだって優しい――」
塔也の彼女だ――と僕は言った。
途端、彼女の目からほろほろと大粒の涙がこぼれて、白いシーツにぽとりと小さな染みを作った。
僕は、背中を掴む彼女の手をそっと外して、体を向けた。
「リンちゃん――何があったの? 僕、実は遊園地で倒れてからの記憶がほとんどなくて……いや、あるにはあるんだけど……夢のようというか、なんというか」
曖昧なのだ。
「塔也の言っていることと、僕の記憶も違ってて。その……、リンちゃんのこととか」
リンちゃんは顔をくしゃくしゃにして俯いたかと思うと、突然、僕の胸に抱きついてきた。僕の胸の中でリンちゃんはむせび泣く。
背中に手を回すのは憚られて、僕は彼女の肩にそっと手を添える。彼女の体は沸騰したかのように熱い。蒸発して、消えてしまうんじゃないかというくらいに、儚い。
そうして、くぐもった声で彼女は、
「分からないの。塔也くん、急に私のことなんて知らないって……ただの同級生だって。『遠藤さん』って…………呼ぶの」
嗚咽混じりの声。
「それに……それに、姫花と付き合ってるんだって、言うの」
「姫花……雪代さんと? 塔也が?」
「うん……塔也くん、ずっと前からそうだって。今日も放課後にデートだって……」
「僕は――」
僕はそんなこと知らない。塔也が雪代さんと?
「ちょ、ちょっと待って。あのさ、先週の日曜日、四人で遊園地……行ったよね?」
リンちゃんは顔を上げて僕に答える。
「……うん」
「その時は、塔也とリンちゃんが付き合ってて。僕は雪代さんに――えっと、避けられて」
『嫌われて』とは、何となく言いたくなかった。
「そして僕は倒れて……で、合ってる?」
「うん。そうだった。そうだったのに」
「その後から、塔也の様子が変わった?」
「…………うん。次の日から」
リンちゃんは頷いて、また僕の胸に顔を埋め、肩を震わせた。
――合っている。
僕と彼女の認識は揃っている。では、おかしくなったのはどっちだ? 塔也と雪代さんのほうか、それとも僕とリンちゃんのほうなのか。
どこで何が狂った? 遊園地に行ったあの日、僕はちょっと苦い思いもしたけれど、それでも楽しかったんだ。みんなと過ごせて嬉しかったのに。これは何だ? なんでリンちゃんはここで泣いているんだ。
塔也――お前は。
リンちゃんはか細い声で言葉を紡ぐ。
「……成馬くん、もう分かんないよ。――助けて」
どうやって?
どうすればいいのかは分からない。でも。
「分かった。リンちゃん、だから落ち着いて」
顔を上げさせて、僕は彼女の目を見て言う。
「僕が何とかする。なんでこうなったのか分からないけど。絶対、元に戻してみせる」
〈魅了〉の魔眼は発動しない。けれども彼女は頷いてくれた。僕の言うことに頷いて、根拠のない約束を信じてくれた。
これは、彼女のためであると同時に、僕のためでもある。もう一度、あの四人で遊園地に行こう。今度は僕も上手くやる。二人のデートをフォローする。倒れもしない。みんなで笑おう。だから、どうにかするんだ。
「待ってて、リンちゃん」
そう言い残して僕は、リンちゃんを休ませて、カーテンを閉めた。
決意を胸に、保健室を出た。




