プレゼント
「ん?」
波根直樹〈はねなおき〉はおかしなことに気がついた。自分が今買ったのは百五十円の清涼飲料水。直樹は五百円玉を出して払った。しかしお釣りで返ってきたのは四千八百五十円。明らかに多すぎる。
コンビニでのバイト経験のある直樹は、すぐにこの研修中バッジを胸につけた女子高生店員が、レジに五千円と打ってしまったのだろうと予想がついた。しかも全く気付いていない。
『おい、黙って受け取っちまえよ』
直樹の心の中で悪魔が意地悪げに囁いた。
『いえ、いけませんよ。返してあげるべきです。でないとこの子は後で店長さんに叱られてしまうでしょう。クリスマス・イヴだというのにバイトだなんて健気な子ではないですか。指摘して、返してあげましょう』
そう言ったのは同じく直樹の心の中にいる天使だった。
「すみません、これ間違ってますよ」
店員はキョトンとした表情をした。
「あの、このジュースは百五十円で、僕は五百円出したんです。なのにこれお釣りが……」
「あっ、ごめんなさい!」
店員はようやく気が付いたようで、わたわたと慌てながらレジを操作し始めた。それでもどうしていいのかわからなかったようで「少々お待ちください」と言ってバックヤードから店長らしき人を連れてきた。その人はレジを操作して、正しいお釣りを直樹に渡した。
「申し訳ありませんでした」
二人が頭を下げる。「いえいえ」と胸の前で手を振って店を出た。
『けっ。取っときゃあよかったのに』
悪魔が言った。
『結局、自己満足だぜ。そんなのは』
(わかってるよ。でも、一人一人が優しい、他人を思いやる心を持てば、世界はもっとよくなると思うんだ)
『全くその通りです! 素晴らしい考えですよ!』
天使はオーバーリアクションと言っていいほどに感激していた。
直樹は駅へ向かう。高校時代から付き合っている彼女、藤城若菜〈ふじしろわかな〉と会う約束をしているのだ。
電車に乗るとちょうど席が一席空いていた。
『ほら、良い事をすると、良い事が起きるのですよ!』
天使が言う。
次の駅ではたくさんの人が乗ってきた。直樹の前で吊り革を掴んで立ったのは女性だった。その女性のカバンにはマタニティマークのキーホルダーが付いていた。妊娠中の女性が貰えるものだ。それが直樹の視界に入る。直樹はすぐさま立ち上がり「どうぞ」と席を譲った。
女性が会釈をして席に座る。直樹が吊り革を掴み立つと『嫌な事が起きたな』と悪魔が嫌味っぽく言った。
『嫌な事なんかではありませんよ。昔から言います、“情けは人の為ならず”。これは情けは人の為ではなく自分の為にするのだ、という意味です。巡り巡って自分に良い事が起こるからですよ。もちろん、わかっていますよね?』
天使が悪魔に説教をする。悪魔はフッと鼻で笑って『現実はそう上手くいかないもんさ』と言い放った。
待ち合わせ場所の最寄り駅まであと二駅というところで、ある出来事が起こった。
自分の右斜め前、座席の一番端に座って寝ている若い男。前の駅で乗ってきて相当疲れていたのか、座ってすぐに熟睡してしまったその男はビニール傘を持っていて、それを体の左側にある手すりに掛けていた。今日の夜は雪が降るかもしれない、と話題なのでその備えだろう。
男が傘を手すりに引っ掛けるところを直樹は見ていた。その傘を電車から降りる時に別の男が盗ろうとしたのだ。
直樹の後ろに立っていたその別の男はその茶色く長い髪をなびかせて、サッと素早く、まるで自分がそこに掛けたんだと言わんばかりに、堂々と盗った。
「ちょっと!」
直樹はとっさに声を上げていた。『あぁ~……』と悪魔が呆れたような声を出す。
『余計なことすんなって』
『いや、人の物を盗むなんてサイテーです! 許すまじ!』
天使は興奮したように言った。
直樹は茶髪男を止める為に電車を降りた。
「その傘、あなたのじゃないでしょう」
「はぁ?」
振り向いた茶髪男は露骨に嫌そうな顔をした。
「返しましょうよ」
直樹が傘の先端をつかむ。しかし茶髪男も傘を手放さなかった。
「んだよ、この……!」
二人がホームで傘の引っ張り合いを始めた。周りの人たちが何事かとそちらを注目しだす。
茶髪男が周りの視線に耐えられなくなり「クソッ」と捨てゼリフを吐いて傘を離した。急に傘を離されて、直樹は尻餅をつく。もうホームにはリリリリと、発車音が流れていた。
直樹は振り向いた。しかし扉は閉まり出していた。直樹は倒れた状態のまま、傘を電車の中に放り込んだ。
傘が電車の中に入ると同時に扉が閉まる。電車の中では騒ぎに気付いて起きた、傘の持ち主である男が傘を拾って窓越しにこちらを見ていた。
何が起きたのか分からない男はポカンとした顔で直樹を見た。直樹もどういう顔をしていいのか分からなくて、とりあえず微笑んだ。
『はははは! こいつぁいいな! 傑作だ!』
悪魔は腹を抱えて爆笑していた。天使は『よくぞ盗っ人から傘を取り戻しました!」と褒めた。直樹は電車に乗りそびれてしまった。
直樹はその後に来た電車に乗って待ち合わせ場所に向かった。
そのままスムーズに行くことが出来たら遅刻はまぬがれるはずだった。しかしその後、直樹は降りた駅で、大きな荷物を持っていたお婆さんを階段で助け、泣いている子どもを駅員さんに預け、拾った財布を交番に届けた。待ち合わせの時間は迫っていた。直樹は走る。
待ち合わせ場所にまでもう少しというところまで来ていた。しかし、近道をしようと入った路地裏で見てしまった。体の大きな大学生くらいに見える男三人に囲まれ脅されている、ブレザーを着た男子高校生。
そこはゲームセンターの裏口の近くだった。走っていた直樹は通り過ぎてから気付いた。左腕に巻いた腕時計を見る。待ち合わせの時間を五分過ぎていた。若菜には少し遅れてしまうとメールはしてある。しかしーー
後ろから聞こえる怒号と弱々しい声。心の中で悪魔が呟く。『お前には関係ないだろう。それに、お前よりでかい男三人。かないっこねぇよ。逃げろ。逃げるが勝ちさ』
『確かに、あなたの力では三人を追っ払ってあの子を助けることは出来ないかもしれません。それでも……あなたは見逃すことが出来るんですか?』
天使は落ち着いた様子で言った。直樹は悔しそうに唇を噛んで、歩き始めた。
『そう、それでいい。……おい!? なにしてんだ!?』
歩き始めた直樹は十メートル程歩いて、くるりと振り向いた。そして大きく息を吸い「あああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」と叫びながら走り出した。
男達の内の一人に狙いを付け、少し前で跳び、体当たりをした。いい当たり方はしなかったが、直樹と体当たりをされた男は二人して倒れた。他の二人は何が起こったのか分からないように言葉を失っていた。
「逃げろ!」
直樹が叫ぶように言うと、男子高校生は逃げ出した。「待て!」と言って立っていた一人の男が追いかけようとしたが、直樹はその男の足に抱きついて邪魔をした。
「てめっ……!」
男たちは直樹をめちゃくちゃに殴って、蹴った。うずくまる直樹からカバンを奪い取り、財布から札を抜き取った。
「なんだこれ」
男の一人がカバンからラッピングされた小さな箱を取り出した。札を抜かれている時は横目で見ているだけで抵抗しなかった直樹だったが、男がこの箱を取り出した瞬間、直樹は最後の力を振り絞って飛び上がり、男の手に噛み付いた。
「いってえぇぇ! んだよコイツッ!」
噛まれた男が直樹の頬を殴る。直樹はまた地面に倒れた。小さな箱を抱えるようにして、丸くなった。
「行こうぜ」
男たちはその場を去った。
『言わんこっちゃねぇ。そうなることは目に見えてたろう。ヒーロー気取って生きようとしても、所詮現実。いいことなんてねぇよ。痛い目見るだけさ』
悪魔が嘲るように言った。
『直樹、あなたは勇気を出して、正しいことをしました。正しく生きようとすることが、生きる上で一番大事なことなのです』
天使は励ますように言った。
待ち合わせ場所に若菜はいた。もう待ち合わせ時間を一時間以上過ぎていた。足を引きずるようにしてやってきた直樹を見て、若菜は青ざめた顔をした。
「直樹っ……!」
「やぁ」
直樹は切れた口の端の痛みを堪えながら笑った。
「どうせそんなことだろうと思ったけど……また何かに巻き込まれたの?」
若菜は怒りと心配の混ざり合った口調で言った。
「まぁね」
「直樹のそういうところは人として尊敬できるけど、もう耐えられないわ。高校の頃からずっとこんなのばっか。直樹が待ち合わせ場所に時間通りに来たことは今までに一度も無かった。その間私がいつもどんなに心配してるのか、わかってるの? 直樹はいつも自分を犠牲にして傷ついてばっかり。もうそんな直樹見てるの辛い。今日はクリスマス・イヴなのに、こんな日まで……」
若菜は目に涙を浮かべた。
「ごめん……」
直樹が謝った。若菜は踵を返し、行ってしまった。
『正しく生きるってのは、大事な人を悲しませるのかね』
悪魔が言った。直樹も、天使も何も言わなかった。
直樹はコンビニに入った。財布を見ると小銭が入っていたので、アンパンと絆創膏を買って、近くの公園に入った。公衆トイレの手洗い場でハンカチを濡らし、泥と血を落とした。手やおでこに絆創膏を貼った。
ベンチに座り、アンパンを食べようと袋を開けようとしたところ、正面に座っていた浮浪者らしきおじさんと目があった。
『おいおい、まさかぁ』
悪魔が言う。
直樹は一瞬考えたが、また立ち上がって「食べます?」とアンパンを差し出した。
おじさんは「いやぁ」と断る仕草を見せたが、目はアンパンを見つめていた。
「あんまりお腹空いてないんですよ。よかったら食べてください。すぐそこで買ったやつですから、安心してください」
直樹はおじさんにアンパンを渡した。おじさんは「ありがとう」と言って笑顔でそれを受け取った。
『いい事をしました。きっとおじさんも人の優しさに触れ、嬉しかったことでしょう』
天使が言った。
直樹はもうお金を持っていなかった。交通系電子マネーも残高が少ししか残っていない。歩いて帰ることを決めた。
『で、結局ボロボロになって、お金も無くって、彼女にフラれたと』
悪魔が嬉しそうに言う。
信号のある横断歩道で止まった。しかし車の通りのあまり無い道だった。みんな信号を無視し、渡っている。止まっているのは直樹だけだった。
『早く渡っちまえよ』
言ったのはもちろん悪魔だ。
(いや、信号を守るのは当然だ。そもそも僕は今急いでいないし。それに……あの小さな子ども。初めはキチンと信号を守っていたのに、大人達が信号を守らないから、渡っていいものだと思って渡り始めてしまった。子どもはいつも大人の真似をするから、大人は子どものお手本にならなきゃいけないのにーー)
その時、直樹から見て斜め右側にある路地から車が飛び出してきた。明らかに法定速度を超過した速さで、後輪を滑らせた、いわゆるドリフトする形で横断歩道のある道に突っ込んできた。甲高いブレーキ音が響く。大人たちはほとんどが道を渡り切っていたが、少し遅れて渡り出した子どもは道の真ん中にいた。そして向かってくる車に気付き、固まってしまった。
直樹は何も言わずに走り始めた。姿勢を低くし、子どもを抱きかかえて走り抜けようとした。悪魔の声も、天使の声も聞こえなかった。善悪の区別もなく、反射的に(あの子どもを助けなくてはならない)と思った。
子どもの元まで来たところで直樹は気付いた。間に合わないことに。直樹はとっさに子どもをドンと強く押した。とほぼ同時に、直樹の体に衝撃が走った。身体に車体がぶつかり、吹き飛んだ。
直樹は痛みも無い消えゆく意識の中で、走り去る車と、駆け寄ってくる子どもを見た。
微笑みかけて言った。
「大丈夫だよ」
真っ暗な中で、声だけが聞こえた。
『あきれたお人好しだぜ。いつか後悔するぞ。欲に忠実に、自分の幸せのために生きる。これこそ正しい生き方だと思わないか? それは悪なんかじゃない』
悪魔の声だ。
(うん、それもわかるよ。間違いじゃないし、悪じゃない。君も、僕の為に言ってくれてたんだよね。ありがとう)
『ケッ』
そう言って悪魔は行ってしまった。直樹はそれを感じ取った。
『今日まで、たくさんの良い事をしてきましたね。今日もそうです。あなたは絶対に、死にませんよ』
天使の声だ。
(君が助けてくれるのかい?)
『いえ、私じゃありません。“情けは人の為ならず”ですよ』
天使は行ってしまった。それを感じ取った。
目を覚ますと、そこは病室だった。手に温もりを感じた。直樹の手を握っていたのは若菜だった。
「直樹……!」
「若……菜……?」
若菜はボロボロと泣き出した。
「僕は……?」
若菜が説明をした。車に轢かれた直樹の怪我は奇跡的にそんなに悪いものでは無かった。しかし頭から出血していたため、救急車を呼ぶのが少しでも遅かったら、死んでいたかもしれなかったらしい。救急車を呼んだのは、音を聞いて公園からやってきた浮浪者のおじさんだった。おじさんは車に轢かれた直樹に気付いて、公園に備え付けられた公衆電話で救急車を呼んだ。そして直樹は救急車で病院に運ばれた。直樹の携帯の着信履歴には若菜の名前が並んでいたため、病院の人が若菜に電話をし、若菜が病院に駆けつけた、という事だった。ひき逃げ犯は捕まったらしい。
「そっか」
「子どもを助けたらしいね。さっきその子どもと両親が来たわ。何回も『ありがとう』って頭下げてた。私、直樹のことを誇りに思うわ。でも、もっと自分と私のために生きてよ。死んじゃったら何もかも終わりじゃない。一人取り残された私はどうなるの? お願い。自分の幸せのために、生きて」
若菜の頬を涙の粒がポロポロと転がるように落ちた。
「ごめん。うん、僕自分の幸せのために生きるよ。僕にとっての幸せは、僕のそばに君がいてくれることだよ」
そういって、右手でポケットの中から小さなラッピングされた箱を取り出した。それを若菜に渡す。若菜はそれを開けた。中に入っていたのは銀色に輝く指輪だった。光を反射して、自らが光を発しているようだった。
「結婚しよう」
直樹がそう言った時、外ではちょうど雪が降り始めた。
天使の羽のように、ゆっくりと舞い落ちた。