ひとりぼっちの夜
自動ドアが開くと外の冷えた空気が店内に流れ込んできた。気の抜けた電子音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
客は工事現場で働いているような風貌の男だった。白いタオルをバンダナのように頭に巻き、作業服を着ている。ズボンはダボダボで泥や塗料で汚れていた。まだ年は三十代といったところだろうが、服の汚れやヨレ具合からして、ベテランの風格を感じさせる。
男は店に入ってすぐに雑誌コーナーに向かい、週刊誌を手にとって眺めていた。
こんな日にも外で仕事か。大変だな、と素直に思った。朝見たニュースでは「今年の冬が始まって以来、最も寒い一日となるでしょう」とお天気お姉さんが言っていた。室内で働く自分にとっては大して問題ではないが、外で働く人たちにとっては大問題だろう。
お天気お姉さんはこうも言っていた。
「特に寒波の激しい今年は計測史上初、東京でのホワイトクリスマスになるかもしれません!」
そう、今日はクリスマス・イヴなのだ。
クリスマス・イヴにも仕事か、と同情した。いや、俺も働いてるけど、外の仕事に比べたらコンビニのレジ打ちなんて楽な方だ。
お天気お姉さんの笑顔を思い出し、溜息をついた。その笑顔とは裏腹に、俺はちっともホワイト・クリスマスなんて楽しみじゃなかった。
男はその後取ったカゴに週刊誌や缶ビールなどを入れて、俺のいるレジにやって来た。
いらっしゃいませ、と挨拶をして、商品をレジに通してゆく。すると缶ビールの影に隠れて、ミニカーが入っていることに気が付いた。
財布を持つ左手には指輪が見える。その汚れた姿から独身なのかな、と想像していたが、結婚していたのか。
会計を終えて店を出る男の後ろ姿を見送りながら、さっきまで男に同情していたというのに、今は羨ましいな、と思っていた。
これは俺の勝手な想像だが、きっとあの人は明日が日曜日でクリスマスだから、明日を休みにする為に今日一日中働いていたのだろう。ミニカーを買った事からして、おそらくまだ小さな子どもがいるのだ。
家に帰れば奥さんと子どもがいて、明日は家族で幸せに過ごすのだろう。そう思うとなんだか寂しくなってきた。俺は一人暮らしだから帰っても誰もいない。明日は何の用事もないからきっと誰にも会わないだろう。
クリスマスは小さい頃から好きだった。プレゼントが貰えるのもそうだが、テレビを付けても街に出かけても、みんな幸せそうな顔をしていて、自分も幸せな気持ちになってくる。
でも今年のクリスマスはいろいろ訳あって、一人で過ごさなくっちゃならない。いつもは楽しみなクリスマスが、全く楽しみでは無かった。なんだか自分がこの広い世界でひとりぼっちでいるような、そんな気がした。
二十二時にバイトを終えて外に出ると、突き刺すような寒さに包まれた。すぐに鼻の先が冷たくなる。風が吹くと、コートを含めて四枚も着込んでいるというのに身体が冷えた。無意識に歯がカチカチと鳴る。少しすると、後輩の古賀美希が店内から出てきた。
彼女は一つ年下の二十歳で、俺がこのコンビニでバイトを始めてからちょうど一年後に入ってきた。俺は今月で二年目、彼女は一年目になる。
彼女も俺と同じように地方から上京し、一人暮らしを始めて近くの大学に通っている。と言っても俺の通う大学とは違う大学だ。この辺の東京郊外には大学がたくさんある。
ここらはあまり治安がいい所とは言えなくて、夜に女の子を一人で帰らせるのも心配なので、この一年間、同じ時間帯にバイトに入った日は少し遠回りをして彼女の家まで送ってあげていた。
「寒いですねぇー」
美希がモコモコとしたマフラーに首を縮めるようにうずめ、手袋をした両手をこすり合わせながら言った。普通「寒いですね」なんて辛そうに言うものだが、その言い方はまるでこれから楽しい出来事が起こるのを待っているような、そんな言い方だった。
「うん」
「雪、降りますかね?」
「どうだろう。降って欲しい?」
「そりゃあ、もう!」
美希は子どものように純粋な笑顔で言った。俺は美希のそんな無邪気なところに好感を持っていた。
「ホワイトクリスマスなんて素敵じゃないですか。私、南の方出身だから、そもそも雪なんて見慣れてないんですよ」
「そっか。俺なんて新潟だから、ホワイトクリスマスなんてしょっちゅうだったよ」
「へぇー。いいなぁ」
二人で並んで歩きながら帰る。美希はその後、明日友人が家に来てクリスマスパーティーをするのだという話をしていた。ピザを頼み、シャンパンを飲むのだそうだ。美希はそれを本当に楽しみ、と言った風に話した。
「玉井さんは明日はやっぱり、彼女さんと過ごすんですか?」
美希が聞いてきた。俺は「あー」と曖昧な返事をしながら「いや、明日なんか仕事みたいなんだよね」と言った。
「えっ……残念ですね」
美希は本当に残念そうに言った。俺は少し悩んで、本当の事を言うことにした。
「いや、実はケンカしちゃってさ」
俺は麗奈の顔を思い浮かべた。
神山麗奈に出会ったのは大学に入ってすぐのことだった。俺が入った映画サークルの新歓コンパで彼女のことを初めて見て、一目惚れ。麗奈は背が高く、その場にいた誰よりも綺麗で輝いているように見えた。ただそのせいで近寄り難く、少し浮いた存在のようになっていた。
たまたま座っていた場所が近くで、俺は酒の勢いも借りて話しかけることができた。「どんな映画が好きなの?」初めはそんな質問だった気がする。麗奈の言った映画は俺も好きな映画で、話していて同じ監督や作品が好きだということが分かり意気投合。話が盛り上がった。お互いにオススメの映画を教えあい、DVDを貸し合う約束をしてその日は別れた。
帰り道で友達に、麗奈がモデルの仕事をしているということを聞いて納得したのを覚えてる。
その後約束していたDVDを貸し合い、その感想を話そうという名目で一緒に夕食を食べる約束を取り付けた。そしてその日のうちに次に会う約束をした。映画を見に行こうという約束を。うまい具合に話は進み、半年後には告白して付き合い出した。
俺は麗奈と二人で一緒にいる時、それまでに感じたことのないような幸せを感じた。麗奈は気の強いところがあって、わがままや意地悪な事を言って俺を困らせてくる事もあったが、麗奈が自分のそうゆうところを俺に見せるのは愛情表現だと思った。
すれ違いを感じ始めたのは今年の秋頃だった。その頃から麗奈はモデルとしての仕事が増え始め、学校やサークルに顔を出さなくなった。それでも俺と会う時間は割いてくれていたし、彼女もモデルとしての仕事が楽しいみたいで、俺も素直に応援していた。
しかし日が経つにつれて、麗奈と俺が会う時間は少なくなっていった。
俺は不安を感じていた。麗奈は初めて会った時よりどんどん綺麗になってゆく。ヒールのある靴を履くと俺よりも身長の高くなる麗奈。買い物をしていて二人並んで歩いている時、店のショーウインドウに映る俺たち二人の姿を見たことがあったが、俺は直視できなかった。コンプレックスを感じていたのだ。自分の容姿に。
釣り合っていない、なんて初めから気付いてた。でも付き合い始めの頃からよりその思いは強くなった。麗奈が遠くに行ってしまう、そう感じていた。
こんなこともあった。十一月のある日、俺は友人と街で買い物をしていて、夕食を食べる為にレストランに入った。そこに麗奈がいたのだ。向かい側の席には見知らぬ男。
麗奈にはその日、仕事があるという理由で会えないと言われていた。俺は店に入ってすぐ彼女に気付いたが、咄嗟に顔を背け、隠した。なぜ自分がそうしたのか分からない。
彼女たちが店を出る時、そちらを見た。彼女の隣にいた男はヒールを履いた麗奈よりはるかに背が高く、凛々しい顔立ちをしていた。お似合いだ、と思った。
でも俺はそのことを彼女に言ったりはしなかった。言えなかったのだ。
そして決定的な出来事が起こった。十二月の始め、麗奈が夜だけ会えるというので彼女の家へ行った。俺はクリスマス、どうするのかを話すつもりでいた。
麗奈が一人暮らしをしているマンションの部屋に入り、リビングに通される。彼女は仕事から帰ってきてすぐだったらしく、いつもより濃いメイクをしていた。
彼女がコーヒーを出してくれて座る。俺はクリスマスの話を持ち出した。するとばつの悪そうな顔をして「それなんだけど……」と話し出した。
「仕事が入っちゃって。イヴも、クリスマスも。どっちも会えそうにないの」
その日の夜ですら、会うのは二週間ぶりだった。今月も、クリスマスも会えない。自分の中で、何かが冷めて行く気がした。
「もう別れたいなら、はっきりそう言ってくれよ」
自分でもあまり意識せずに、自然に言ってしまっていた。
「え……なんで……?」
「この前見たよ。麗奈が男の人と飯食ってるとこ。あの男と会うんだろ? クリスマスは」
自分でもびっくりするくらい、その時は饒舌だった。ずっと言ってしまいたかったのかもしれない。
麗奈は黙ってしまった。ふと彼女の方を見ると、目に涙を浮かべていた。
もう分からなかった。自分が麗奈の事が好きなのか、これからも付き合っていきたいと思っているのか、彼女は俺のことを好きなのか。
そこにいるのがもう耐えられなくて、俺は部屋を出た。我ながら情けない男だと思う。
麗奈とはその日以降、連絡を取っていない。
美希に全てを打ち明けると、何だかあれからずっと胸の内に溜め込んでいたモヤモヤしたものが晴れて、スッキリしていく気がした。このことは今まで誰にも言ってなかったから。
しかし美希はとんでもない事を聞いてしまった、という風に「そうだったんですか……」と言って沈み込んでしまった。
「なんか暗い話しちゃってごめんね」
俺が謝ると、美希は手をいやいや、という風に動かしながら「そんな……」と言った。
「話聞いてもらえただけでなんか吹っ切れた感じがするよ。なんか楽になった」
俺は両手を上げて伸びをした。深く息を吸い込むと、冷たい空気が肺を満たした。その全てを吐き出すようにふーっと息を吐く。息は白い煙のようになって顔の前に現れ、すぐに消えた。
「明日は布団に一日中入って、テレビでも見てようかな」
強がりなんかじゃなくて、本当にそれでも悪くない気がしてきた。
美希のアパートの前に着く。
立ち止まり「じゃあね、おやすみ」といつものように挨拶をすると、美希が「あのっ!」と思い切ったように言った。行き過ぎようとした俺は彼女の方を振り返る。
「明日、友達来るんですけど、えっと……友達にはよく玉井さんの話とかするんですよ。それであの子、玉井さんに会ってみたいって前から言ってて……。よかったら明日、家来ませんか?」
予想外の展開に俺はすぐに返事をすることが出来なかった。美希は少し焦ったようにもじもじしながら続けた。
「あ、いや、嫌ならいいんです。でも、何も予定なかったら……。来てくれたら、私も嬉しいです……」
アパートの近くに立っている電信柱に取り付けられた外灯の明かりに照らされた美希の顔は赤らんでいるように見えた。雰囲気を感じ取った俺も釣られて少しドキドキした。何か言わなきゃ、と少し焦る。
「ありがとう。嬉しいよ、本当に。正直、落ち込んでたから」
美希は少しうつむき、俺の言うことを聞いていた。
「……明日、また連絡するから。ちょっと待ってくれるかな」
美希の誘いはもちろん嬉しかったが、麗奈のことが心の中で引っかかっていて、ゆっくり考えたかったのだ。
「はい」
美希はしっかりとこっちを見て、笑顔で返事をした。彼女のことは今までまるで妹のように接してきたから、今向かい合っている美希はいつもと少し印象が違って見えた。
「それじゃあ」
俺が後ろを向くと美希は「あっ!」っと声を上げる。
もう一度振り向くと、美希は何かを言いよどむように躊躇した後、「えっと……メリークリスマス」と言った。少し恥ずかしそうに、照れ笑い混じりに。
俺も笑いながら「メリークリスマス」と言い返す。一度手を振り、帰路についた。
美希は俺に好感を持ってくれている。と思う。相談事にもよくしてくるし、二人で食事に行ったことも何度かある。
でも美希のことを、そういう見方で見たことは無かったな。でも彼女の底抜けに明るく無邪気なところはとても魅力的だし、背丈的にも二人並んで歩いたらいい塩梅だろう。
美希の方が俺には合っているのかもしれない。
……いや、何を考えてるんだ俺は。まだ麗奈との件にけじめをつけていないのに。
麗奈に電話をしようか。今まで彼女とケンカをしたことは何度かあったが、いつも俺が謝ってきた。そんなこともあって俺は向こうから連絡を取って来ない限り、自分からは動かないと決めていた。でも、もう十分待っただろう。もう時間切れだ。
麗奈ともう一回話して、別れるならちゃんと別れよう。
携帯に手を伸ばす。するとちょうど電話がかかってきた。麗奈かと思ったが、違った。電話をかけてきたのは大学に入って初めて出来た友人、拓だった。
電話に出ると拓は「よぉー! 今いい?」と威勢良く聞いてきた。
「いいよ。どうした?」
「明日さぁ、クリスマスじゃん? 俺良い子がいるって言ってたけどさ、ダメになっちゃってよぉ」
拓はこの前合コンで一緒になった子と仲良くなってその子とクリスマス・イヴを過ごすと言っていたのだ。てっきり今頃、その子と楽しんでいるんだろうなぁと思っていたが。
「バックレだよ、バックレ! いやぁハズレだったな!」
拓の後ろからは賑やかな声が聞こえてくる。何人かと飲んでいるようだ。
「裕一は今麗奈ちゃんと居るんだろ?」
「いやぁ……」
俺は拓に、麗奈との間に起こった出来事を簡潔に話した。拓は「マジかよぉー!」と笑って「裕一、麗奈ちゃんとケンカしたんだって」と一緒に飲んでいるメンバーに説明するように言った。誰と飲んでいるんだ?
「いつものメンバーだよ。クリスマス・イヴに誰も一緒に過ごす人がいない奴どうしで傷舐め合ってんのよ!」拓の後ろで一際大きな笑い声がした。
「裕一も来いよ! 今日から明日まで、ずっと飲んでんぞ! おれんちで!」
拓の後ろで、いつも一緒につるんでいるメンバーの賑やかな声が聞こえた。「来いよ!」「おいでー!」と。思わず笑ってしまった。
「ありがとう。麗奈との件がきっちりカタがついたら、連絡するよ」
「おう!」
拓との電話が切れた。少し前までこの世の終わりのように悩み、落ち込んでいたというのに。俺はもう自然に笑うことができるようになっていて、自分でも驚いた。
改めて携帯を見ると留守電が入っていることに気付いた。留守電を入れたのは、麗奈だった。電話のあった時間を見ると、バイト中にかかって来ていたようだ。
留守電の再生ボタンを押し、スピーカーに耳を押し当てた。久しぶりに聞く麗奈の声だった。
「もしもし、裕一? ……ごめん。最近仕事がたくさんもらえるようになって、チャンスだと思って自分なりに頑張ってたんだけど……裕一はいつも許してくれるから、私無視するようなことしちゃって。……謝るの遅くなっちゃったね。本当にごめんなさい……。もう一回ちゃんと話がしたいから。また電話するね。……おやすみ」
驚いた。あの気の強い麗奈が謝ってくるなんて。
このままケンカ別れになってしまうのか、と思っていたからもう一回ちゃんと話せる事は嬉しい。
それで二人の関係がどうなるのかは、まだ分からない。
自分が住んでいるアパートに着く。階段で二階に登り、自分の部屋に入る。
「ただいま」
シンと静まった室内で静かに呟く。室温は外とほとんど変わらない。
コートとマフラーを脱ぎ、ストーブを付ける。少しするとチッチッチと音がして、白い煙を少し吐きながら熱を放ち出した。掌をかざすと、かじかんだ指が痺れた。
電気ケトルに水を入れ、台にセットする。食器棚からマグカップを取り出し、キッチンに置いてある粉末状のレモネードの素を出す。冷蔵庫からは冷凍の肉まんを出して、レンジに入れた。
電気ケトルのお湯が沸いた。マグカップに注ぐと白い湯気が立つ。レモネードの素をサラサラと入れ、スプーンでかき混ぜると甘酸っぱいいい匂いがする。熱いレモネードを少しづつ口に入れると、喉元を通り胃に流れ込んでいる感覚が分かった。胃が温まることで全身が暖まってくる。
レンジが肉まんを解凍したことを音で知らせる。開けると、まるで蒸したてのような肉まんが出来ていた。一口頬張ると、ふわふわとした生地と肉汁を多く含んだ具が口の中で混ざり合った。はふはふと食べていると、口の中から蒸気が溢れた。
肉まんを食べ終え、まだ十分に暖かいレモネードの入ったマグカップを持って窓際に行く。窓はあっという間に結露に覆われていた。暖まった掌で、目の高さの結露を拭くように触れると、やけに冷たく感じた。隣の一軒家を飾ったイルミネーションが輝いて、その光で結露によって出来た水滴がキラキラ光っていた。
ポケットに入れていた携帯の音が鳴る。何かと思えば母だった。母は最近LINEの使い方を覚えたらしい。『メリークリスマス!』スタンプも使いこなしている。俺も同じようなクリスマスのスタンプを送る。すると「暖かくして寝るんだよ。風邪引かないように」とまた返事が帰ってきた。
「ありがとう」
文字を打ち込むと同時に、口に出して呟いた。
暖かい、ひとりぼっちの夜だった。
さぁ、明日はどうしようかな。