Last episode. それぞれの円周率のあり方
深夜テンションで書き上げたあげく、推敲とか一切してない。
広大な荒野の中に線を引いたような一本道を、一台の車が走っていた。その車は、大型車でも小型車でも高級車でもなく、どこにでもある平均的な普通車だ。
しかし、それに乗っている人物は旅人だった。
旅路を行くには、その平凡な車では些か頼りないような気もした。それに、彼らは理由も目的地も特に定まっておらず、放浪者と呼んでも差し支えないような者であった。限りない距離を走るには、やはりその車では適さない事は確かだろう。
その車の搭乗者は二人。後部座席は荷物が満載で、運転席と助手席だけが人で埋まっていた。
運転席には、十代に見える女性が寂寥な景色が変わらない前方を、退屈そうに眺めながらハンドルを握っていた。終わりのない一本道を運転する事にうんざりしているのか、表情からは曇りの影が伺えた。優雅に微笑んでいれば、それだけで絵画のモデルでいられそうな彼女にしてみれば、これは少し残念にも思えた。
その女性の隣、助手席では柔和そうな老人が座席に深く腰を落とし、読書に耽っていた。その老人はいかにも紳士という敬称が似合いそうな雰囲気を纏っていた。しかし、それは単なる見かけ倒しであることを彼の知り合いならば当然知っていた。
荒涼とした道の凹凸に車が跳ねる。その度に運転手は恨めしそうに舌打ちをする。それに比べ助手席の老人は、物静かに読書に埋没しているのか全く意に介さないでいた。
老人が本のページを捲る。見晴らしの良い一本道ということで、遠慮なく速度を出す車からは轟音が鳴っていたが、それでも運転手には紙の捲れる音が微かに聞こえたらしく、横目でちらりと老人の方を見た。
「それにしても教授。よくこんな荒い運転の中で本なんか読んでいられますね」
教授と呼ばれた老人は、一瞬だけ彼女の方に視線を向けた。
「荒いと自覚しているなら、もう少し安全運転を心がけて欲しいものですね」
「見晴らしも良いですし、大丈夫ですよ」
「そういう問題ではありませんよ……。これではおちおち安心して本も読めません」
「読んでいるじゃないですか、平気で」
「まあそうですけどね」
女性はハンドルを握ったまま肩を竦めた。
「酔わないんですか、読んでいて」
その言葉に教授は悪戯好きな子供のようにいやらしく笑う。
「酔いませんよ、あなたではないのですから」
「何ですか、遠回しに嘲笑された気分なんですけど」
「ええ、私はあなたとは違って走行中の車で本を読んで酔うような馬鹿ではないので」
「まるであたしが馬鹿みたいですね」
「あれ、前に、目当ての本を買ったとかで、調子に乗ってそれを車の中で読んで気持ち悪くなっていた人は誰ですか?」
「ふひっ」
心当たりがあるのか女性の口角はいやに吊り上った。
その会話を最後に、また二人の間に前のような沈黙が広がる。
それから暫く経ち、老人は読み終えたらしく、本を閉じた。それに気づいた女性は今まで教授が読んでいた本の表紙を見た。
「あー、その本ですか……」
「何か?」
「ええ、少し嫌な事を思い出しただけです」
「そうですか。この本を読んでいる時に泥団子をぶつけられた時の事ですか」
「分かってるじゃないですか………」
女性は疲れたような溜息を漏らす。
「そういえば、あの少年の事はどうなったんですか、忘れていたので聞きませんでしたが」
「あの少年とは?」
「あー、もう引っかかりませんよ。分かっていらっしゃるでしょう?」
「いえ何のことだかさっぱり」
「だからあたしが捕まえた少年の事です」
「いえ、もっと具体的に言ってもらわないと」
「だから泥団子をぶつけられた時に思わず逆上して首を絞めちゃった少年の事です」
「よく覚えていませんね、もっと詳しく」
「まどろっこしいこと言うんじゃねえ! 車から突き落とすぞ!」
「しゅ、宿題を教えて欲しいと言われたので教えてあげただけですけど」
シートベルトを外そうとする彼女の手を阻みながら、顔に汗を浮かべて教授はそう言った。
「おうし、そのままきりきり説明しやがれ」
その女性は黙っていれば穏やかそうに見られるし、事実いつもは物腰柔らかなのだが、一度火が点くと止まらないのだ。教授もそれを十分理解しているので、彼女が落ち着くまでは、一切茶々を入れずに事の顛末を説明した。
「ははーん。それで素直に答えを教えたんですか?」
説明を聞いた女性の第一声はそれだった。教授の人を食ったような性格を知っている彼女の質問としては当然の物だった。
人に頼みごとをされ、この老人が今までどのような対応をしてきたのかを横で見ていた彼女は、また今度も嘘の答えでも教えたのだと考えているのだ。
「ええ。しっかりと正解を教えてあげましたよ」
――しかし、彼女の予想は外れた。
「え、本当ですか?」
女性はいまいち信用できず、測るような声で教授に確認をとります。
「ええ、勿論。私は紳士なので、嘘の答えを教えるような悪戯はしませんよ」
自分の考えを穿つような物言いに女性は思わずうめき声をもらした。
「え、えっと」
「勿論、途中式がでたらめで、答えだけは合っているだなんてこともしていませんから」
「………さいですか」
舌に乗せていた言葉を完全に見透かされ、女性は少し居心地が悪い気持ちに陥った。
そうだよな。教授だっていつもいつも、意地が悪い対応をするわけじゃないよね。子供にまでそんな酷い事をするわけないか。あー、何か疑っていた自分が恥ずかしい。
女性は罪悪感からどう教授に声をかけたものか分からず、踏み切れずにいたが、何かが吹っ切れたように頭を掻いた。
「疑ってすみません」
「分かってくれれば良いんですよ」
教授は屈託のない穏やかな笑顔でそう返した。その表情がまた女性の心にぐさりと何かを突き刺した。
「そういえば、最後に自分で問題を作るやつがあったんでしょう」
「……ええ」
教授は次の本を探すために後部座席の荷物を漁りながら女性にそう答えた。
「それにはどんな問題を書いたんですか?」
「その話はやめましょう」
後ろに手を伸ばし、本を探していた教授の体が急に全く動かなくなった。
「えっ?」
明らかに急変した教授の態度に、女性は横目で不審な目を向ける。
「あのー……、どんな問題を作ったんですか? 勿論小学四年生が解けるようなものですよね」
「えっと、小学生は絶対に解けないような問題を作りました」
「謝ったあたしが馬鹿でした………」
溜息を吐きながら、女性は緩やかな道のカーブに合わせハンドルを右に曲げた。
教授を疑った彼女の予想は――やはり当たっていたのだ。
「それで、一体どんな問題を作ったんですか」
その質問に教授はあっけらかんと答えた。それはこの世界では未だ解かれていない数式だった。
「馬鹿だ馬鹿だとは思っていましたが………そんな新定理をあの子に教えるなんてあなたは本当に馬鹿なのですか……」
「いえいえ、褒められると照れます」
「うっせえ、ぶん殴るぞジジイ」
「老人虐待も良いとこですな」
彼女はまた溜息を漏らした。いつも教授と話している時は、大抵溜息をついているな、と彼女はふと気づいた。いつもの気苦労を思い出すと、尚いっそう疲労感が肩にたまるのを彼女自身が自覚していた。
「そんなことしたら大変なことになるんじゃないんですか、もう」
「そりゃそうでしょうね。天才児とか言われるのではないでしょうかねえ」
目当てのものが見つかったらしく、教授は新しい本を開いた。
「あの子の人生、めちゃくちゃになりますよ」
「その前に彼自身が事実を言えば問題ありませんよ」
ですが、それがまた問題でもありますけどね。と教授は付け加えた。
意味ありげに呟いたその言葉に、女性は眉を顰める。
「あの少年は、本当の事を言い出せずに、今回のような事に陥ってしまったのでしょう? なら大騒ぎになった時に、優柔不断な彼は事実を言えるのかどうなのかと、思いまして」
「それは大いに賛同しますが、追い込んいでるのはあなた自身じゃないですか!」
「まあそうなんですけどね。ただ、まあ前途ある若者を今のうちに痛い目に遭わせるのは良い事ですよ」
教授は言う。
「これでいくらか、あの甘えた考え方が変わってくれれば良いんですけどね」
「良い方に変わるとは限りませんよ」
「それはあの少年次第でしょう。薬になるか毒になるかは」
その言葉でこの話の区切りと見なしたのだろう、二人の間に再び沈黙が訪れた。
それから暫くの間、その空間には車が発する轟音だけが響いていた。運転席の女性は変わらない景色をうんざりしたように睨みながら運転をし、助手席の老人は時折本のページを捲った。
「そういえば」
唸る排気音の中、しわがれた声が女性の耳に届いた。
「あなたは円周率を使って計算するときにどのように習いましたか?」
「一体何ですか、急に」
老人の不躾な質問に些かの疑問を感じながらも、暇だった彼女はそれに答えた。
「小学生の頃は3,14で、中学になってからはπを使いましたけれど。それが何か?」
「そうですよね、普通はそうですよね」
教授は快活よく笑った。自然に笑うことで、逆に何か意図があるように思え不自然な反応に思えた。
「何が言いたいんです?」
「知っていますか? 最近では、小学校では円周率を3として計算するんですよ」
「へえ、びっくりですが。それが何か?」
「いえ、それってどうなのかと思いまして」
「そりゃ、まあ、良くないんじゃないですか?」
彼女は投げやりな口調で返した。
「劇では皆が主役を演じる。徒競走では皆が仲良く同時にゴール。テストでは満点ではなく赤点を取らないように頑張る。妥協しているのですよ、適当なところで」
教授は一度間を置いてからそう言う。
「あの少年にはそれと同じような匂いがしたのですよ。だから考えさせたかったのですよ」
「ふうん、教授にしては偉い親切ですね」
老人の行動はあまり親切には感じられない対応だったが、彼女が知る教授からすれば、恐らくそうだったのだろう。
「そういうあなたも、大分ご高説を述べていましたね」
「え、何ですか。ありましたっけ?」
「処世術としての謝罪がなんたらと」
「うー」
あーと女性はうめき声を漏らす。
「まあ、ただ根は良さそうな子だったので忠告しただけですよ」
「私もそれと同じですよ。ただ子供の行く末を案じただけです」
教授は続けて、
「3で妥協するのか、0,14まで掘り下げるかは、後は彼次第ですよ」
とそう言った。
ふーんと、女性は適当に感心したような相槌を打った。それで、この話もまたお開きとなった。
そんな会話から少し経った後、教授はページも半ばで本を閉じた。運転席の彼女もそれに気付いたのか、声をかける。
「あれ? もう本読まないんですか?」
「ええ……」
教授はどこか沈んだ様子で返事をした。そしてバツの悪そうな表情で更に付け加える。
「実は恥ずかしながら酔ってしまって」
「本当に恥ずかしいなーおい!」
車から轟く排気音よりも大きな怒鳴り声をあげる彼女。
「あなた馬鹿なんですか……。あれだけ豪語しておいて」
「あ、あんまり喋らないでください……、頭に響きます」
「もう怒る気概なんて起きませんよ、もう………」
車は道の途中で、徐々にスピードを落としながら、じきに止まった。こんな一本道で車を止めるのは、通せんぼをするようなものだが、生憎見える範囲に人の気配は全くないので問題はなかった。
「背中とかさすった方が良いですか? それともエチケット袋とかいります?」
「い、いえ。そこまでではないです。ただちょっと休ませてください」
「はあ………」
「すみませんね、迷惑かけて」
「そう思うなら迷惑かけないようにしてくださいよ、もう」
「これで分かったでしょう?」
「何がです」
「私の言う事を鵜呑みにしてはいけないと」
「………」
その言葉に彼女の何かの栓が切れたのか、急に車のアクセルを踏む。
「そんなことを言っていられるなら、大丈夫ですね。発進しまーす!」
「い、いやその。まだ駄目だというか」
「またまたご冗談を! もう鵜呑みにはしませんよ!」
「ヒィーーッ!!」
発進した車の音よりも更に甲高い悲鳴が辺りには響いた。
助手席には、顔が青白い老人が座席に深く腰掛け、伏し目がちに苦悶の表情で前を見ていた。
その隣の運転席では、女性が鼻歌交じりに楽しそうに運転をしている。
広大な荒野の中に、線を引いたような長い一本道を、その車は煙と轟音をあげながらどこまでも走っていった。
正直今回はオチとか考えずにリアルタイムでその場のノリで考えていたので適当感がハンパないです。
いやもう、オチ後回しにしたんで、どうにか終わらせたような臭いも漂ってますし。
とりあえず後の黒歴史になりそう。