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想い巡りメグる旅人  作者: 出口入人
二章 学びの里 ―You should not make swallowing―
7/8

episode.3 巡リ会ウ3と0,14

肩、凝った。

 その人は、見た目から既に、知的なオーラが滲み出ていて、こんな片田舎でくすぶっているような人ではなく、外からの来訪者であることは一目瞭然でした。


 カフェテリアのパラソルの下、イスに軽く腰掛け、優雅に読書に耽っている女性。一体、何を読んでいるのかは定かではありません。しかし、その手にあるのが、自己啓発本とか、何かのハウツー本だとか、ましてや漫画本であったとしても、恐らくその趣旨な光景は揺るぐことはないでしょう。陽光が絶妙に明暗のコントラストをなし、一つの絵画として既に完成している。そう確信させられる程の情景でした。


 それはまるで、彼女さえそこにいるならば、それだけでそのアートは成り立つような安心感さえあります。


 と、僕と同じような感想を抱いたのかは認知の外ですが、周りのケンジ君達も件の旅人さんを訪ねに来たのは良いが、いまいち声をかけあぐねいている様子でした。豚さんも裸足で逃げ出すほどの猪突猛進なケンジ君にしては珍しい状況です。そういえば豚さん成長して大人になったのが猪、ってことで良いのですよね。


 理科の授業を頭の教室で催していると、このままでは埒が明かないと思われたのでしょう、ケンジ君が一歩出ます。僕としては「突進だぜブヒィ」とか言ってくれたらさぞ燃えたことでしょう。………自分で言っておいて意味が分かりません。


「あのー……」


 ケンジ君が、とりあえず様子見の感動詞を投げかけようとしていたところに、何か黒い絵の具が、額縁の中の世界がお似合いな彼女に投擲されました。土地柄が一00%ふんだんに含まれたその泥団子は旅人である彼女の顔、ど真ん中に寸分狂わず命中して、景気よく泥を爆ぜさせました。


「「………」」


 その場にいた誰もが固まりました。格好よく言うと、『ターゲット沈黙』とかいうアレです。いやどうでもいいのですけどね。ちょっと今、混乱中ですので。


「よっし。大命中!」


 どう反応すれば良いのか不明で、石像と化した仲間達の中で、いけしゃあしゃあと一人騒ぐゴロウ君。先ほど、旅人さんを絵画の中の住人と比喩しましたが、それを言うなら、ゴロウ君も絵に描いたようなイタズラっ子そのものでしょう。対抗せずともよいのに……。


 犯人はこの中にいる。なんて慣例の割出作業をせずとも、犯人自らが自供していました、それも悪びれもせず。ゴロウ君………やはりあなたでしたか。諦めというか納得です。


 さてここで問題です。泥団子をぶつけられた女性は一体どのような行動をとるでしょう。僕が《とうけい》で集めた情報によると、『泥パックみたいで素敵ぃ!』という声が上がればいいな、という願望が殆どでした。アンケートの対象者は勿論僕達です。


 泥メイクの女性は本を静かに閉じ、緩慢な動作で立ち上がります。


「おい………」


 その口調はどう贔屓目に考えても穏やかではないです。泥メイクのお礼をして下さっても宜しいでしょうに……。お礼というか、今にも復讐されそうな雰囲気ですが。


 そして、復讐ならぬ八つ当たりの筆頭候補は僕でした。


逃げろー、とか退散ーとか、そういう悪ガキチックな合図はなく、いつの間にか周りにいた友達は各々で勝手に引き返し、一目散に逃げていました。いや、本当、いつの間に……。


出遅れた感はありますが、では、僕も便乗して華麗なスタートダッシュを決め込みましょう。


 全速力で逃げます。かの女性に追われます。あははー、捕まえてごらーん。


 ぐへ、捕まりました。襟元を後ろから引っ張られ思わずうめき声が漏れ、ると同時に勢いよく後ろに派手に転倒しました。


頭と全身を打ちつけた地べたは、運悪く石のカーペットだったらしく、全身が痛みに襲われます。


 倒れた時に反射で瞑ってしまった目を開けると、これほどかというほどの怒気で形作られた、鬼のようではなく、鬼そのものの形相で睨んでくるその女性とばっちり目があいます。そういえば、猛獣とは視線を合わせてはならないとか、そんなことがぽっと思い起こされます。今の僕としてはそれが走馬灯ではないことを祈るくらいしか出来ません。


「あっ、あのー………」


 険しい表情で見下ろしてくるそのお方に一応、弁明しておこうと思います。声が震えているのはきっと、地層が揺れているのでしょう。先ほどの優美なお顔が記憶から焼き払われる程の、怒気の迫力に震えているわけではありませんよ。


「僕はもう、見ての通り、大きい方の小学生なので、泥団子遊びはしないんですよ」


「………」


 無言です。超怖いです。


「え、えとその、泥団子投げたのと、僕とは全くの無関係なんですよお」


「へえ………」


 何か凄惨に笑っています。超怖いです。 


「いや、その、本当は、珍しい旅人さんを、その、歓迎しようと思って……」


「有難い歓待どうもありがとう。《泥パックみたいで素敵ぃ》」


 皮肉です。皮肉が飛んできました。超怖いです。


 怒りに歪んだ顔が近づいてきます。その瞬間、彼女に《ふちゃく》していた泥が、僕の顔にべたりと滴り落ちてきやがります。それが合図だったわけではありませんが、地面に頭を擦りつけます。所謂土下座というやつでした。


「ご、ごめんなさい」


 下手な言い訳は、僕の優柔不断さに拍車をかけ、相手を苛立たせ、《ふんまん》の思いを募らせてばかりで、どうも逆効果でした。こうなれば素直に、実直になるのが一番でしょう。もう謝り倒すしかこの場を収める術は思いつきませんでした。


「許さん」


 その術も、夢に散ります。霧散というか無残でした。思わず女性の非常に有難いお言葉に薄い悲鳴がもれます。あ、誤植がありましたね。非常に有難いお言葉ではなく、非情な言葉の間違いです。


 急に頭を掴まれたかと思うと、ぎりぎりと万力のように、片手だけで頭を締め付けられます。


「い、痛いいたい痛いっ!」


 教育的指導という名のしごきに不慣れだからかどうかは解しませんが、思わず口から、両親以外では初めて受ける体罰の感想を言漏らします。というかただの叫喚でした。


 痛いです。髪を引っ張られ、無理やり立たされます。痛いです。彼女は僕と目線が合うように腰をかがみます。痛いです。額と額がぶつかる程の近い位置で、敵意にぎらつく目で睨まれます。怖いです。


「この坊ちゃんガキ野郎を、どうもてなそうかなあ……」


 まるで、『今日は何の料理を作ろうかなあ』と錯覚してしまうくらい軽いニュアンスで言われます。むしろ料理されるのでしょうね。何を? 僕を。


 お父さんが暗い部屋の中、お酒を煽りながら『社会に出ると、謝っても許してくれねえことがいっぱいあるんでえ……』とかぼやいていましたが、その気持ちが分かった気がします。この度は誠に《いかん》であります。


「どうしたのかね」


「アァン!?」


 謎の第三者の登場に、ハリネズミ顔負けな、角が立ちまくりの挨拶をします。勿論僕ではなく、今にも僕の頭でハンドボールをしそうな彼女の反応です。むしろ、僕は苦しげに呻くことしかできない状態にあります。声など出せるわけありません。足が地に浮いていますし。


「何だ、」


 あれ、少し声の調子が軽くなった?


「教授ですか」


 どうやら声の主は女性の知人のようです。彼女もそれを悟り、態度を軟化させたようです。頭を締め付ける力が弱まったので分かります。………嫌な認識の仕方でした。


 むしろ、他人だった場合、どのように返したのでしょう。考えるだけで末恐ろしいので、《ぼうきゃく》の《かなた》へと放り投げます、とりゃ。


 そう、今、思案のテーブルに挙げなければならないのは、この新たな登場人物が僕を助けてくれるかどうかです。


「荒々しく掴んでいる、その等身大人形は何ですか」


 しわがれた声です。ろくに目を開けられない状態なので、声だけで判断することになりますが、どうやら老人のようです。


「ああ、これですか。急に泥団子を投げてきたんですよ。いやー、最近のロボット技術って凄いですねえ。無差別に人を襲うのだから。まあロボットだから壊してもいいですよね」


 老人と思われる人の皮肉に則って、女性はあまり歓迎したくはない提案を挙げました。ここで「優しくしてね」とかユーモア溢れる冗談を交え、場を和ませるべきだったでしょうか。「学級文庫」と言おうとして、残念な結果になるくらいの末路を辿っていたでしょうから割愛して正解でしょう。


「とりあえずその子を離しましょうか。話はそれからです」


「え? 教授、今のダジャレですか?」


「違います。良いから」


 老人に促され小言を漏らしつつも、彼女は解放してくれました。ただ、宙に浮いたまま手を離されたので、自由落下の元、尻もちをつく形になってしまいました。「いててっ」と無意識に声が出ます。何と言うか、やっと口を開ける状態に復帰です。


 そして、理不尽な苦痛から解放された安心感で、それを思い出します。


「大丈夫ですか」


 教授と呼ばれていた、柔和そうな紳士がこちらに手を差し伸べてくれます。遠慮することなくその手を取り、立ち上がります。


「え、っと。ありがとうございます」


 そう、この老人を彼女は教授と呼んでいた。この人こそ僕達、じゃなくて僕が求めていた人なのでしょう。


「それで、何があったのですか。泥メイクをして、ここは別に泥の名産ではありませんよ」


 その老人は、不機嫌そうに腕組みをしている女性の方を振り返ります。


「わーってますよ」


 一見、彼女も不遜な態度ですが、一応返答をします。そのやり取りからある程度の親交が感じられました


「やはり顔に泥を塗るのが得意なのですね」


「馬鹿にしてんすか……」


 ………やり取りからある程度の親交しか感じられませんでした。仲が悪いのでしょうか。 


 軽口もそこまでで、女性は自分が泥をぶつけられた顛末を語りました。と、言っても彼女からしてみれば、読書に浸っていたところに何の《みゃくらく》もなく突然、泥団子が飛来してきたのですから、詳しい事情もなにもありません。となれば自然、解説役のお鉢がこちらに回ってくるのは必然でした。


 気持ち的に話しにくい宿題の部分を除いて、旅人さんを訪ねる事になった経緯と、ゴロウ君の性格や悪評に加え、住所氏名や恥ずかしい失敗談など、彼に報復できるだけの情報を添付して、説明しました。泥団子事件の責任逃れを果たすために、ゴロウ君の情報に多大な誇張があったことは、僕と神のみぞ知る何たらというやつです。


「とりあえず。宿に戻って、顔を洗うなり、いっそ入浴するなり、出直したらどうですか?」


 説明もひと段落つき、区切りが良いところで、教授さんは女性にそう提案し、


「そうですね。このまま外を歩くのも恥ずかしいですし。というか………、既に、辺りを歩く小学生から後ろ指を指されている気がします……」


 彼女も顔の泥を腕で拭っても埒が明かないと理解し、それに乗っかりました。


 時間が経って頭が冷えたのでしょう。先程とは別人のように、どこか人が良さそうな困り顔を浮かべます。泥で冷えたわけではないでしょうけれど。


 ここで掘り返すのもどうかと思いますが、敢えて自ら、またその話題に触れることで良い子ちゃんを気取ります。僕、反省してるんだぜえ、というところを見せつけてやるのです。


「あ、あの………」妙に余所余所しく声を掛け、後ろ髪を引っ張ってやります。


「何?」という声と共に女性は振り返ります。態度からはあまり棘が感じられず、どうやら本当に、落ち着いたようです。これで少し安心です。もしかしたら「後ろ髪を引っ張るなんて! 髪は女の命なんだよ!」とか憤慨される覚悟もしていましたので。


「ほ、本当にごめんなさいでした………」


 さも反省しているかのような態度で謝罪します。テレビの記者会見で、偉そうな禿頭の人たちが、一斉に頭を下げていた様子が想い出から喚起されます。恐らく彼らよりは、何か心に来るものがあったでしょう。というかそれを狙っていますので。そして、お父さんがテレビで見た、あそこの輪の仲間入りをしないことをいつもびくびく震えている。という話は、今は関係ないので、ここで切ります。


 女性は何か思うところがあったのか、値踏みをするような視線で、僕の態度をなでますが、


「君が謝ることはないよ、だって君が悪い訳ではないでしょう?」


 と、言ってくれました。いえーい、大勝利。


「まあ。どこか『さも反省していますよー』という態度を取っておけばいいだろう。みたいな卑しい考え方は見え見えだけれど」


 えっ。


「実際、君が悪いわけではないから良いけれどね。ただ、君は『謝り倒しておけばいい』、と思っている節がありそうだから言うけれど。謝られる側としたら、処世術として、とりあえず何が悪いのか自覚しないまま、謝罪される。というのは腹が立つものだから気をつけてね」


「はい………」いつの間にか、僕は説教されています。顔が泥だらけの女性に説教されています。


「あ、それと」恐らく宿へと帰ろうとしていた彼女は、余計な一言を披露して、しょんぼりと項垂れていた僕に振り返り、言います。


「何か頼みごとがあるのなら、きちんと自分の口で言うんだよ。どうせあたし達は暇だし。宿題くらい手伝ってあげてもいいよ」


 と、言い残し、僕に何も言わせないまま、去っていきました。うーん……。年上の人が本格的に苦手になりそうかも。色々見透かされて。


「はあ……」


 嵐のような女性がいなくなり、気が抜けたのか、思わずため息が漏れました。それにしても、優雅だったり鬼だったり、最初の印象と大分かけ離れてしまいました。


「それで、何か頼みごとでもあるのですか?」


「へ?」


 胸に手を添え、ほっと安心したいたところに、唐突に声をかけられたので、素っ頓狂な声が出てしまいました。《しゅうち》に少し顔が歪みます。


 ですが、それも一瞬のことです。珍しい体験で、良くも悪くも気分が高揚していたので意識していませんでしたが、学校での事が思い出されます。


 小学生にとっては、学校でのことが世界のすべてであり、絶対なのです。学校に行き辛くなるということは、イコールで生き辛くなるということなのです。明日、先生に怒られる、なんて。過ぎてしまえば些細な事でしょうが、今の僕にとって、それは絶対なのです。これ以上の《ぜつぼう》はありません。ポケモンのアニメが習い事で見られなくなる程の大問題なのです。


 だから、どんなに目上の人に頼むのが、恥ずかしくても、苦しくても、縋るしかないのです。職員室に行き、再度、先生に教えてもらうという方法に今頃気づきました。しかし、目の前の紳士さんは如何にも《じょりょく》してくれそうな雰囲気なので、このまま前進します。


 事情を話すと、


「良いですよ、私も暇を持て余していたところです」


 すんなり《しょうだく》してくれました。流石、教授さんのように偉い人は違います。


それにしても、時々、大人の男性、主に先生が一人称で『私』と言う度に違和感が背筋を走ります。もしかしてオネエというやつなのでしょうか。


「偉い男の人は《俺》という言葉を使うとみっともないから《私》と言うのですよ……」


 どこか呆れ混じりに教えてもらいました。流石、教授さんのように偉い人は言う事が違うなあー。


 教授の助手であるという、先程の彼女が本を読んでいた席とは別の席に座ります。未だに泥が飛び散っているのです。ついでに言うと、彼女の持っていた本は物理工学か、何か難しそうな本でした。それも泥に見舞われてしまったわけですけども。


 教授は『ぶらっくこーひー』を頼み、僕は『みっくすじゅーす』を頼みました。因みに教授さんが奢ってくれるそうです。やっぱり教授さんのように偉い人は違うなあー。


 注文を受けた店員さんは、泥が飛沫のように散っているテーブルを見つけると、一度中に入り、やがて布巾を手に戻ってきました。


「それで、宿題というのは」


「あ、これです」


 一心不乱に汚れを落とす店員さんを横目で伺いつつ、ズボンのポケットから、二枚折にしたプリントを出して渡します。教授さんは幾分か身を乗り出しながら、それを受け取ります。


「あーなるほど。どこから説明しましょうか……そうですね、この問題は――」


「あ、説明は良いです」


「え?」


「どうせ詳しく説明されても、分かんないから」


「………」


 教授さんは、僕を穿つような遠慮のない目で推し測っていたかと思うと、溜息を漏らし「そうですか」と呟きました。僕自身も、今頃になって、自分の態度がどこか、高慢で、不躾であることに気付きました。原因が自分にあると悟ると、雰囲気が急に重苦しいものへと変わり、それに耐え切れず、思わず俯いてしまいます。


 しかし、下を向いていると、実際は定かではないけれど、じっと睨まれているようで、《じゅうあつ》が伸し掛かるので、頭を上げ、辺りに目が泳がせます。すると、布巾では埒が明かないと思ったのでしょう、忌々しげに舌打ちをした店員さんは中へと戻っていきました。


「そうですねえ………」


 無駄に仕事を増やしてしまい、店員さんへの罪悪感に苛まれていた間、色々と考えていたらしく、教授さんはそう言います。


「私が答えを薄く書くので、あなたがそれを自分の筆跡で書き直す。それで良いですか?」


「え? あっ、はい!」


 きっと断られるはず。


 半ばそう諦めていたので、その提案は意外な物でした。それ故に、暗く沈んだ気分が、一気に舞い上がります。やっぱり教授さんのように偉い人は違うなあー。なんて、呑気に。


 彼が何を思って、そういう選択肢を摘み取ったのかを考えずに。


 教授さんが鉛筆を走らせている間、例の店員さんは、別の店員さんを連れて、何やら相談をしていました。すると、どうやら解決の算段が済んだようで、モップやら掃除道具を持って出てきました。


 逸らした視線を前へと戻すと、教授さんは備え付けられていた紙に数式を長々と書き綴っています。……そんなに、長い羅列を要する程の問題なのでしょうか?


 そんな疑念が、分かりやすく表情に出ていたのでしょう。教授さんが「四年生の問題はこんなものですよ、どれも」と抑揚のない口調で返事をしてくれました。それは、どこか投げやりな対応にも思えました。確かに、どこか引っかかるものがありましたが、気にしませんでした。


 邪魔をしないように待っている間、片づけられるテーブルや見慣れた地元の風景をぼんやり眺めていました。退屈です。しかし、人に仕事を押し付けている以上、文句を言える立場ではないことくらい分かっていました。


 だからおとなしく、入学式の時と同じくらいに静かにしていました。時々痺れるので、腰を浮かしたり、足を組み替えたりします。この瞬間瞬間にも、最近、家族以外の大人の前では緊張してしまうことを、またもや実感させられました。


「終わりましたよ」


 テーブルの下での指遊びを中断し、頭を上げます。その時の僕の表情は、自分で見ると羞恥に襲われるくらい能天気な笑顔だったでしょうが、構わず言葉を繋ぎます。

「本当ですか! ありがとうございます!」


 教授さんはどこか照れ笑いながら、僕の謝辞に手をひらひら振って答えます。


「プリントに直接書くよりも、別の紙に下書きした方がいいと思って、こういう形にしておきましたよ」


 彼からその紙を受け取ります。何と言う気遣いでしょうか。やっぱり教授さんのように偉い人は違いますね。


 見ます。成程、よく分からない数式のオンパレードです。ちょっと酔いそうです。特に最後の問題なんか、ご丁寧に裏面までびっしりと黒色が満載です。


「分かりました。これで明日は切り抜けられそうです!」


「まあ、あんまり。こういうのは良くないのでしょうけどねえ………」


「へ?」


 教授さんは暗い科白を吐きます。


 深く考えずに聞いても、分かるくらいどこか意味ありげに感じられます。


 表面だけをなぞっても、分かるくらいどこか思わせぶりに感じられます。


「えっと、」


「いや、やっぱり、こういうのは自分の力でやらないと、また同じような事が起きるのだろうな、と」


 真っ直ぐに諭すような口調でした。


 教授さんが言いたい事は分かりました。そしてそう言われることは想定済みでした。ええ、分かっていますとも。


「で、でも、僕ってどうせ頭悪いし」


そんなことしたって。


「そんなことをしている暇があったら――家の手伝いをしている方がマシですから」


 自分ではそんな風に言うつもりはなかったのだけれど、陰鬱になってしまった声が、嫌に耳に漂います。


「何か事情でも?」


 カップを傾けながら教授さんは問います。


「まあ、ちょっと」


 苦笑いでそれに頷きます。


 ここで、口を滑らせた事にやっと気づきました。良く知りもしない人に、悩みを匂わせてしまうなんて……。


 頭を冷やす、というか。間を置くために、僕もドリンクに手を伸ばします。心の中で乾杯します。つまり乾杯せず、ただ一人で平凡に飲んだということです。


 改めて。


 ここまで助けてくださったこの紳士に、僕は聞いて欲しかったのだと思います。僕は続きを話しました。


「僕の家って、その、貧乏なんですよね」


 テーブルの下で、再びもじもじと指弄りが開始されます。時々親指に別の指の爪が刺さって痛いですが、構いませんでした。


「それで、高校生の兄がいるんですけど。うちの家計上、兄を大学に行かせるのが、その難しいみたいで。今も、大分切り詰めて貯金しているんです。」


 指を強く握ります。爪が皮膚に食い込み、痛いですが構わず続けます。


「それで、僕。親をどうにかして手伝いたいな、って思って。それで………宿題とか、そっちのけで手伝っていたら、ただでさえ要領の悪い僕は、いつの間にか授業に置いて行かれて。実は新しい鉛筆とか、ノートとかも欲しいんですけどね、」


 なかなか言い出し辛くって。


 そこで、初めて教授さんの顔を見ました。何とも言えない表情をしていました。やはりどこか『弱ったな』と、いう風に見えます。


 旅人さんにお聞かせする話ではありませんでした。


「ま、まあ、別にどうってことはないんですけどね!」


 明るい声音と共に席からぴょんと道化のように飛び跳ね、快活な雰囲気づくりに努めます。それが功を奏したかどうかは、苦笑する教授さんの様子から考えてみても、そういうことなのでしょう。


 その後は特に内容のない与太話を幾らか交わし、改めてお礼を述べて別れました。助手さんによろしく伝える旨を付け加える事も忘れませんでした。


 そんなに時間は経っていませんが、改めて遊びなおすには、キリが悪い時間でした。ケンジ君達を探すのも、大変そうですし、無駄でしょう。だからこのまま家へと帰ります。


 今度の帰路は希望に溢れたものでした。


 とりあえず、当初の目的も果たし、一件落着です。今日は枕を高くして眠れるでしょう。まあ、僕は元々、寝る時に枕を使わないのですけどね。


本当は今回の章、全体で8000文字程度の短編を書くつもりだったのですが、何故か思った以上にここの話が長くなり、ここだけで9000文字に………。


遅筆な自分としては、結構な労働です。これだけでも。本当はこのままオチまでぱっぱと片づけたいところですが、少し休憩したいです(甘え。


何で余計な、蛇足みたいな地の文を書いてしまうんだろう……。

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