episode.3 二つに一つ
003旅路
謝辞の言葉を残し、件の学者は我らが宿を後にした。
私は階下へと見えなくなったのを確認してから玄関を閉める。窓から宿舎の入り口を数分ほど見下ろしていると、相変わらず仲の良い兄弟のように手振り身振り、体全体で言い争う二人が出てきた。
何というか、色々と思うところはあったが一番濃い感情で言うならば呆れ果てた。それから、客人が来てからずっと蓄積されていた溜め息をやっとのこと吐きだした。ほっ。
視線を部屋の中へと戻すと、鼻眼鏡をかけロッキングチェアに揺られながら、編み物をする教授がいた。
もしかすると次に向かう地方は寒気が強いのかもしれない。そういえばそろそろ冬だ。
「良かったんですか?」
「何がだい?」
視線をこちらに全く向けず応対する老人。
「本当の事を言わなくて」
「本当の事とは?」
………。
教授の意味もなくじれったい態度に即発され、思わず声に一瞬怒気が混じりかけるのを抑える。
「………教授の答えについてですよ。
『どちらが真実なのか? それは簡単な話です。それは『どちらかが』正しいのです。二分の一の確率なわけですから、こんなのコインでも決められる程至って簡単明瞭です。どうです? 偶然にもここに一枚のメダルがもありますが、これを投げましょうか?
結構ですか、それが賢明ですね。要するに、どちらか一方が正解なわけですから二人が以前のように力を結集し、糾合し、切磋琢磨すれば自ずと終着点にたどり着くはずですよ。人に示されて得るのではなく、自らその境地に這い上がらなければ意味はないのです。私の言っていること分かりますか? それが理解できたならば今日のところはお開きとしましょう。不肖ながらどうかこれからの栄えあるご健闘をお祈りします』という素敵滅法な謳い文句のことを言っているんです、あたしは」
ハンバーグを作る時のように、皮肉を込め込めて教授の口ぶりを真似ると、本人は微妙に顔をしかめていた。少し癇に障ったようだ。だとすれば少し気が晴れた。
「それで?」教授は相変わらず手を止めず背中だけで問う。「それのどこに文句があるのですか?」
「だから、何故真実を口にしなかったかったのだろうな~、と思いまして」
「先ほど自ら口にしていたじゃありませんか。『自分たちでその境地に這い上がらなければ意味はないのです』と」
教授は嫌味たらしい声色で告げる。それも普段の私の声に似せて。やはりさっきのはお気に触ったようだ。
「それはそうですが」
「何か文句でも?」
ええ、まあ。そう言いながら私は傍にあった椅子に腰掛ける。そしてわざとらしく咳払いをする。「こほんっ!」
「……はい?」
「い……いえ、今日は喉の調子が悪くて……」
咳払いのわざとらしさを強調した結果、何故か羞恥に襲われちゃった。
「そ、そうですね。文句というよりはやはり疑問が残ったままなんですよ」
「それはまた重畳ですね。で? 質問がおありのようですが」
「そうですねー」自分の語気が自然、跳ねているのに気づく。悪戯を思いついた子供のようでもある。
「何で彼らに、異論を挟む余地もない程に、両方とも間違えた謬論なのだと告げなかったのですか」
その言葉に教授は手を止める。視線こそこっちに向けなかったが確かに笑っていた。それも凄惨な色をした「ニタぁ」とした粘着質な笑みだ。裂けるチーズと表現するのもまた一興。
「どうしてだい?」彼は心底嬉しそうに私に問いかける。「何が決めてだい?」
根拠はないです。経験則みたいなものですかね、とそう前置きする。
「まず、あなたが他人の為になる事を単純にするわけがない。あなたはどれ程相手が悩むかを考えては、ほくそ笑む様なサイコ野郎です。ここぞとばかりに外道です。悪魔だって裸足で逃げるような下種野郎です。しかもあなたはそれを予期して、退路に鉄びしを哄笑しながら撒き散らすような人外です。ってかもう人害です」
「あなたが普段私をどのような目で見ているのか良く分かりました」
にっこりと紳士風な笑顔を向けられる。いつも以上に優しいその表情が、何故かとても怖い。
「つまりですね。本当にどちらかが正しいのなら、教授は正解を力の限り覆い隠し、しかし答えは一応口にするはずです。
少なくとも、一方にしろ両方にしろ、正解にほぼ近いものがあるなら、あなたは今年で三歳になるどうでもいい孫の余談を混ぜたり、老衰によるボケを装い、同じ与太話を繰り返したりした挙句、結果的には関係ない生物知識を提示し、しかし話の途中で、真実を遠回しに仄めかすでしょう?」
「いや、本当に正鵠を射ていて、否定できないのが悲しいですね……」などと教授は嘯く。
「あと、それと一つあるんですが」私は人差し指を立てる。「彼らは『未解明だった塩基配列部分を明らかにした』と謳っていましたが――」
《実際のところ、その遺伝子情報は外の世界ではとっくに分析が完了されているもの》
「なのでしょう? 教授」
「………」
私の推論に彼は答えない。沈黙をずっと続ける、それが何よりの返答だったけれど。
暫く部屋に静寂が流れる。もう騒がしい学者もおらず、教授のゆらゆら揺れるロッキングチェアがぎしぎしと軋む音だけがそこにあった。
目の前の老人は場を整える為に、一度溜息を漏らす。
《自分たちでその境地に這い上がらなければ意味はないのです》
今度は自分の声色でそう言う。
「ただそれだけですよ。自分たちが正しいと信じ込み、不変なる二極、不正なる二択から離れようとせず、コインが表裏どちらになるかしか考えない。コインが立つ可能性などないと一方的に切り捨てる。別の可能性を考えられない今の彼らを是正したところで意味はないのです。徒労も良いところですよ。視野を広げ、他の数式に手を伸ばし、先を掴もうとしない彼らに、……それ以上はないのですよ」
だから教え《られませんでした》。単なる意志の否定ではなく、不可能なのだと、その口調は示唆していた。
「彼らはそれを見つけることが出来るのでしょうか」「無理でしょうね」改行する暇もなく即答。
「少なくとも彼らの諍いを思い出すなら、ね。あの学者が上に立つ間はもうないでしょう。もし仮に、彼らの下がその可能性に気づこうとも、あんな難攻不落な壁が立ちはだかれば、反骨精神の欠片すら掲げられずに終わるでしょうね。思想を自由に披瀝出来ないというのは、悲しい事です」
それに私は生返事で返す。
「はあ。完全な低迷期ってやつですか?」
「いえ、一種の過渡期というやつですよ」
紳士のような上品な笑みを教授は向ける。
「そうですね、今回私たちが学べた教訓と言えば」教授はとある学者を頭の中で俯瞰しながらそう切り出す
「必ずしも事実や結果は、正誤の二元論では片付けられないという事です」
「はあ……そうですか」
教授の言わんとしたことは上手く掴めなかったが、その言葉は嫌に心の底に沈殿するものだった。
重苦しい空気に耐えられなくなり、私は颯爽と話題を変える。教授のようにゆるりと換気が出来ないのは年齢の違いだと言い訳しておく。
「それで、次はどこへ向かうつもりですか」
「お察しの通り北国です」
「あたし、寒いのは苦手です」
「砂漠では寒さより暑さの方が耐え難いと言ってましたが?」
「生きること自体が苦手なんです」
「まるで禅問答ですね」
「いえただの屁理屈ですごめんなさい……」
「でも安心してください北国といっても温泉地ですから」
「あー、急に行く気が出てきました」
「その為にもこの編み物を済まなさいといけません」
「頑張ってくださいね」」
「手伝う気〇ですか……。だったらこういうのはどうです? 私があなたのセーターを編むのであなたは私の分をお願いします」
「拙くても良いですか?」
「下手でも自らの手で編む事に意味があるのですよ。うわっ、今良いこと言いましたよ……私! 今聞いてましたか?」
「あ、すみません何か言いました?」
「いえ………何でもないです………」
「でも手作りのセーターって貰っても困りますよね。思いが重たいって以前に洗いにくいし」
「………、えーとその手作りの方お願いできます?」
「嫌々、喜んで」
回想、終了。