第五幕 アノー・セルピエ
標高7000m級の山々が連なる、ドラグレイス最北端ワイバーン山脈。
国内で最も飛竜の住処が多いこの場所は、高所ともなればその平均気温は夏であろうともマイナス30度を下回り、およそ人が住むのに適した場所ではなかった。
今日も、太陽は昇れど気温はマイナス43度。
いかな防寒着を着ても防ぐのが大変な寒風が、山肌をの間を激しく巡っていた。
そんな、飛竜が元気に飛び交う氷の世界に、『騙り部』ルナークは、一人立ち尽くしていた。
「いかん、道に迷った」
外に出た彼は、いつも通りの黒スーツ。結婚指輪は外して、髪を留めるリングとして使っている。防寒着らしきものは着ていない。
山間を歩くにしては、それはあまりにナメきった格好と言えた。
「あー、さて、どっちだこれ……?」
ほぼ山頂に立っているルナークだが、そこから風景を見下ろしても見事な雲海が広がっているばかりで、地平らしきものは微塵も見えなかった。
「……見当つけて飛ぶしかない、か?」
吹く風に身を震わせ、彼は呟く。
そこへ、人の匂いに気付いた飛竜が一匹、飛来してきた。
「うぉ」
ルナークが小さく声を上げる。
しかしそれは驚いた、という風ではなく、「なんか来たな」という程度のものだった。
飛竜は、数多の種族に分かれている竜の中では割と小型な種族だが、しかしそれゆえに機動性が高く、時としてその飛行速度は音すら超えることもある。
実際、数百mの上空からすでにルナークを見つけていたその飛竜は、ものの数秒で彼との距離を一気に詰めてきた。
「勘弁してくれよ。寒いんだからよー」
迫る飛竜を見上げながら、ルナークはため息をついた。出た吐息は白くなるどころか、すぐに凍結して日の光を受けてキラキラと瞬いていた。
飛竜がルナークを丸呑みにすべく、大口を開けて襲い来る。
ルナークは飛竜から目線を外すと、小さく言った。
「……“転駆”」
そしてルナークのいた場所を、飛竜の牙が上下から薙いだ。
「……! ……!?」
だが、そこに肉を食んだ手応えはなく、飛竜は目を白黒させてその場を見た。
そこには、食い破られたルナークの肉体もなければ、飛び散った血もなかった。あるのは、降り積もった雪の上に残された彼の足跡だけだ。
飛竜はしばし考えて、そして結果的に諦めてその場を飛び去っていった。
『騙り部』ルナークがドラグレイス最南端、火の島サラマンデルに到着したのは、それからおよそ3分後のことだった。
アノー・セルピエは貴族の生まれながら一週間前に家を出た。
彼の本名はアノー・ラルセルト。
ラルセルト家といえば西部でもそれなりに力を持った貴族であり、ウェストレイス市建設時にも多くの費用を寄与した家として知られていた。
アノーはそんなラルセルト家の嫡男であり、将来的には家を継ぐ立場にある少年である。
現在15才とはいえ、その自覚は彼にもきちんとあり、自分の将来が定まっていることについては特に不満を持つこともなく受け入れていた。
本来あるべき貴族としての自覚を、アノーはその若さですでに持ち得ていた。
周囲も、アノーが家督を継げばラルセルト家はさらなる隆盛を迎えることだろうと期待を寄せていた。が、そんな中で、彼は家出をしてしまう。
理由は、アノーが自身の在り方に疑問を抱いたことだった。
それは、今から二ヶ月以上も前のこと、旅行先から家に戻る途中で彼は竜に襲われた。そのとき、護衛についていた竜狩人のおかげで竜を撃退することはできたものの、この竜災によってアノーに長年使えていた使用人が犠牲になった。
その使用人は多忙なアノーの両親に変わって彼を育ててくれた、いわば育ての親のような存在であり、アノーにとっては大事な存在でもあったのだ。
――ああ、私はなんと弱いのだろう。彼を失ってもなお、守られる立場とは。
そのときに感じた無力感は、彼の中にあった貴族としての自負に深く突き刺さり、そして、今の自分には自分で得た強さなど一つもないことを、アノーに実感させた。
「強く、ならねばなりません」
それが、竜災を経てからの彼の口癖となった。
そして強くなるために彼は家を出て――今は、ウェストレイス市の城壁前にいた。
「この辺りでしょうか……?」
腰に家から持ち出した二本の剣を帯びて、アノーはその場で立ち止まる。
この辺りは草木もまばらなサバンナ地帯が広がっており、特に山などもなく見晴らしがよかった。ここならば、きっと魔物もすぐに現れてくれるだろう。
「さぁ、現れなさい。私はここにいますよ」
アノーは油断無く周囲に視線を走らせ、辺りを警戒する。
この辺りは人里近くながら魔物が出没することでも知られている。なのに彼がそこに立っているのには、理由があった。
それは、今から二時間ほど前のこと。
ウェストレイス市狩人特区内、酒場『ドラゴンファング』。
「あぁん? 竜狩人になる方法、だぁ?」
「はい、ご教授いただければありがたいのですが」
マスターのゲルマルクは、いきなりやってきた少年に尋ねられて面食らった。
この酒場には色々な人間が来るが、ここまで真っ直ぐな聞き方をしてくる相手は初めてだった。それに、どうにもこの少年からは竜狩人っぽい雰囲気は感じられない。
「……坊や、おまえさん、本気で竜狩人なんかになりたいのかい?」
「はい。なると決めた以上は、口だけで終わるわけには参りませんので」
――なんか、話しにくいガキだな、コイツは。
思いつつ、客をぞんざいに扱うわけにもいかず、ゲルマルクは答えた。
「狩人特区内に、竜狩人のギルドがある。まずはそこで申請してきな」
「それでいいのですね。ありがとうございます!」
「おっと、ちょっと待った」
すぐに店を出て行こうとするアノーを、ゲルマルクが呼び止めた。
「その前に、獲物を一匹狩ってきな」
「……獲物、ですか?」
アノーは不思議そうに眉をひそめる。
「そうだ。申請を通りやすくしてぇなら、自分の強さを示すのが一番だぜ」
「……つまり、自分の手で何かを狩って実力を示せ、と?」
「ああ」
ゲルマルクは頷くが、アノーはそれにやや沈んだ表情を返した。
「しかし、いきなり竜を狩ることなどは……」
「竜じゃなくても別にいいんだぜ。この街の周りにゃ魔物どもも出やがるからな。その辺りを狩ってくりゃあ、この街の連中の助けにもならぁ」
「なるほど!」
アノーの表情が一転して輝く。
「分かりました! では早速行って参ります! ご助言、感謝致します!」
そして店から飛び出していくアノーを見送って、ゲルマルクは呟く。
「真っ直ぐ過ぎるガキだな、ありゃあ……」
本当にあんな少年に竜狩人が務まるのか、ちょっと心配ではあった。
けたたましい声が聞こえたのは、少し離れた場所からだった。
「あちらか!」
そこに魔物の気配を感じて、アノーは駆ける。
「……これはっ!」
駆けつけてみると、そこでは今まさに一人の少女が魔物に襲われようとしているところだった。
体長3mはあろうかという巨大蠍の群れが、長い尾の先端から毒液を垂らして少女に迫っている。少女は剣を帯びてはいるが、どう見てもそれは見せかけだろう。
少女が危ない。
「アノー・セルピエ、いざ、参る!」
双剣を抜き放って、アノーが蠍へと突っ込んでいった。
「あー……、え?」
蠍に行く手を阻まれ、恐怖に身を竦ませていたのであろう少女が彼に気付いた。
薄い金の髪にブラウンのリボンをつけた、可愛らしい少女だ。
そんな力も持たない存在が魔物に蹂躙されることなど、決してあってはならない。
民草を守る貴族として、そして人を守る竜狩人を目指して、アノーは剣を振るう。
ギッ、と何かが軋むような音は蠍の声だろうか。
蠍も、どうやら彼に気付いたらしく、足を動かして身体の向きを少女からアノーへと向け直してきた。
「そこの君、さぁ、今のうちに逃げなさい!」
自らを囮として、アノーは少女を逃がそうとする。
蠍が向かってきた。その両腕の鋏は、先端部分からして充分な凶器だ。一突きで、牛すらも串刺しに出来るだろう。
「その様な動きで、私を仕留められると思わないことだ!」
両手の剣で鋏の切っ先を逸らし、そのまま流れるような動きで蠍の脇に入り込んで、アノーは右の剣を一閃。蠍の足を一本斬り飛ばす。
「おー」
少女が何やら言ったようだった。
まだ逃げていないのか、と、アノーは思う。それとも、恐怖に足が竦んでいるのか?
意識を一瞬そちらに向けていた隙に、蠍が今度は尾を伸ばしてきた。
「……いけない!」
間一髪、彼は迫る尾の毒針を剣の腹で捌いた。
敵から意識を逸らした不明を内心で恥じて、アノーは今度は自分から攻勢に出る。
「せぇい!」
左右の剣を器用に使い分け、敵を攻め立てるその剣術は、アノーの家に伝わる貴族の剣術であった。
長い歴史の中で洗練されてきたその剣術を、彼は15才という若さでほぼ十全に扱うことが出来ていた。才能と環境に恵まれていたがゆえの、その腕前である。
「はぁっ! せりゃあ!」
鋏を弾き、尾をかわし、最短のルートで蠍の攻撃をかいくぐったアノーが、左の剣を蠍に向かって投げつける。
蠍が反射的に鋏で剣を弾いた。
その瞬間、蠍の頭部がガラ空きになる。
「――見えた! 隙有り!」
右の剣を両手に持ち直し、アノーは強い踏み込みから渾身の振り下ろしを叩き込む。
白昼に、銀の軌跡が走った。
そしてアノーが剣を振り抜いた直後、巨大蠍の額部分がパックリと割れる。
「手応え、あり!」
傷口から大量の体液をしぶかせ、巨大蠍がのたうち回る。手に残った確かな寒色は、アノーに勝利を確信させるに充分だった。
しかし――まだ勝負は終わっていなかった。
ギッ、ギギッ!
軋むような音。
一閃の余韻に浸っていたアノーがハッとして視線を上げる。
そこには、すでに目前まで迫っていた巨大蠍の毒針があった。
――まだ、生きて……! 避け…、いや、間に合わない!
刹那に巡る思考。
しかしどう考えても避けられるタイミングではない。
アノーは己の詰めの甘さを呪った。しかしそれ以上に、少女を守れなかった自分の不甲斐なさを強く恥じた。
「まぁ、頑張ったよ」
そんな彼の思考に割り込んでくる、少女の声。
「……え?」
閉じかけた目を再び開けてみれば、少女がアノーの前に立っていた。
そしてあろうことか、巨大蠍の毒針をその手で掴んでいるではないか。
「んー、突然来たときは何かと思ったけど、まぁ、手伝ってくれてありがとう」
「え、あ……」
何も言えないでいるアノーに、少女は笑いかける。
「こいつらさ、本当にどっから湧いてくるんだか、ね」
少女の口調はあくまで軽い。毒針を掴む手にもさして力が入っているようには見えなかった。だが、次の瞬間、少女の手は毒針を握り潰した。
グゴッ、と、硬いものが砕ける音がした。
「こいつ……、ら……?」
そこに引っかかりを覚えて、アノーは周りを見てみた。
そしてようやく気付いた。周りにいた他の巨大蠍は、その全てがすでに死体だ。
「…………ッ!」
その事実に愕然となって、アノーは少女を見る。
まさか、これはこの少女が一人で……?
毒針を潰された巨大蠍は、身を翻して逃げに走る。しかし少女は「逃がさないよー」とこれまた軽く言ってその場から跳躍。
高さ5mほどまで上がった少女が、空中で器用に剣を抜いてそれを逆手に持った。
「これで、おーわり!」
という声と共に、剣は巨大蠍を串刺しにして、蠍の動きがそこで停止する。
「……なんと、いう」
目の前の光景に、アノーは身体が震えるのを感じた。
これはなんだ?
恐怖か?
畏怖か?
それとも――
「やぁ、どうもありがとう。竜狩人の新人さんかな? ちょっとはやるみたいだけど詰めが甘いよ。次から注意してね」
それだけ言って、全身を蠍の体液にまみれさせた少女はウェストレイス市の方へと歩いていく。
「ま、待ってください! どうか、貴方のお名前をお聞かせ願いたい!」
「わたし? わたしはベルティ・ザーンだよ。じゃあね、新人さん」
名乗って、『竜喰らい』のベルティ・ザーンは街へと戻っていった。
それをずっと見送りながら、アノー・セルピエはしばらくその場から動くことが出来ずにいた。
「ベルティ・ザーン……」
聞いた名前を繰り返すと、アノーは心の中に何かが高ぶるのを感じた。
彼は自覚する。
ベルティの戦いぶりを見て感じた、その感情は――感動。
ベルティ・ザーンとアノー・セルピエの出会いは、大体そんな感じだった。