春の巡りに
春がきたよ。
寒いさむい冬を越えて、温かな春が。
花の咲く、季節がきたよ。
「この木って何の木。葉っぱばかりでさ」
花梨だよ、と祖母が言った。祖母の家にあった大きな花梨から接ぎ木されたのがこれだった。すぐに枯れそうな弱々しい木で、最初の寒い冬を乗り越えられるか、ふと心配になった。
「でもばーちゃん。こいつ元気ないよ」
葉の数が少なく、根も十分に伸びていない。まだ、土地に馴染んでないのだ。
祖父が他界し、一人きりになった祖母が引っ越してきたのは、その年の春だった。ろくな荷物も持たずにやってきた祖母が、唯一宝物のように連れてきたのが、この若木だ。
何でも、昔むかし祖父と冗談半分で種を庭に植えたらしい。それが予想外ににょきにょき育って、毎年手のひらより大きな実を、これでもかとつけるようになったのだ。その木には覚えがあった。冬枯れした庭の中で、一際目立つ黄色の実を馬鹿みたいにくっつけていたから。
そうだねぇ、肥料はあげてるんだけどねぇ、と祖母は苦笑していた。
「この子はねぇ、綺麗な綺麗な可愛らしい花を咲かせるんだよ。それに、花梨の実は薬にもなるし、お酒にもなるの。花梨酒はおじいさんがおいしいおいしいって飲んでいたんだよ。この子が実を付けたら、またつけてみようねぇ」
一年が過ぎて、二年目、小さな花がぽつんと咲いていた。ピンクの小さな花だ。貧相な木相応に小さくて弱々しいが、一つ、二つ、三つ。
嬉しくて、祖母のところへ飛んでいった。花! 花咲いたよ、ばーちゃん! ねぇ来て、ねぇ、とはしゃいだものだ。祖母は目を細くして窓際に駆け寄った。まるで小さな女の子のような花が、一生懸命咲いていたのだった。「えらいねぇ」と、我がことのように祖母は喜んだ。
「かわいいでしょう。おばあちゃんの言ったとおりだったでしょう」
それから毎年春になると、花梨は華奢な花を咲かせた。しかし、実をつけることは五年が過ぎてもなかった。
ここは、都会ではないけど田舎とも呼べない半端な住宅地だ。木を育てるほどのスペースがない。花梨は、育ちたい育ちたいと空に向かって枝葉を伸ばすけど、お隣さんにかかっては迷惑だからと、冬に剪定されてしまう。
五年が経ってもその木は、うちへ運ばれてきたころと何ら変わらず、小さなまま。細いままだ。
それでも祖母は、木の世話をせっせと行った。虫がつかないよう病気にならないよう……まるで、孫でも可愛がるように話しかけては微笑んだ。
「元気かい? 青々と葉を茂らせて、綺麗だねぇ」
「ごめんねぇ。ちょっと切らせて貰うからねぇ」
「今年も可愛い花が咲いたねぇ」
「お水をあげようねぇ。調子はどう?」
いつしか家族からは小さな木への興味が失せ、存在さえ忘れていたように思う。
そして七年目、花梨はようやく小さな実を一つだけ実らせた。発見したときは驚いた。葉の間に偶然それを見つけ、妙に浮かれて祖母を引っ張ったものだった。祖母は嬉しそうに微笑んで、「がんばったね」と実を撫でた。
そしてその年の冬、祖母は静かに息を引き取った。花梨の実が熟したら酒やジャムにできる、化粧水や手荒れにも使えると教えてくれたのに、何一つできないまま、永遠に瞼を閉じてしまったのだ。
夜、わんわんと泣く声が聞こえた。
家族のすすり泣く声かと思った。通夜も葬式も決して泣かなかった家族の、誰が泣いているのかと。だが、違った。
「おばあちゃん、おばあちゃん。どうして逝ってしまったの。もう少し待っててねって言ったのに。絶対実をつけるからねって言ったのに。おばあちゃん。おばあちゃん……。やだよう、逝かないでよう」
祖母の遺影の前で泣いてたのは、ワンピース姿の小さな少女だった。手足のほっそりしたその子に見覚えは全くなかった。甘い香りを漂わせながら、何度もおばあちゃんと呼んでいた。ふんわりした長い髪に、見覚えのある小さな花の飾りをつけていた。ピンクの華奢な花の。
ああ……、あれは、うちの花梨だ。
何の根拠もなかったが、祖母の宝物だった花梨だって悲しむに違いなかった。ぼきんと折れてしまいそうな華奢な花梨を、甲斐甲斐しく世話していたのは祖母だったのだから。
「頑張ったねって撫でてくれたよね。私、頑張ったでしょう。肝心のおばあちゃんがいてくれなきゃ、実なんてつけても意味ないのに。おばあちゃんが世話してくれたから、頑張れたのに」
誰も祖母の死を悼んで泣かなかったのに、花梨だけは辺りはばからず大泣きしていた。冴え冴えとした夜にその声はよく響いた。しかし誰も気づかない。これほどの大声なのに、家族の誰も座敷へ降りてこない。だからだろう。座敷の戸口で、耐えきれずうずくまってしまった。泣けなかった涙が、後から後から溢れた。
――ばあちゃん。
呼びかけても、もう応じてくれる人はいないのだ。
その声を拾ったのか、きょとんとして振り返り、花梨が飛び上がった。声にならない悲鳴を上げた。
「み! み、みみみみみみ見つかって……」
真っ青になって、こけつまろびつ逃げ出したその背に呼びかけた。
「実をつけろよ。意味ないなんてことはないよ。そのほうが、ばーちゃんも喜ぶから」
祖母のように上手く活用してやれないかもしれない。だけど、一生懸命つけてくれた実を大切にしたかった。あわわわわわ、と窓枠に足をかけた少女は、びくりと身体を震わせた。恐る恐る振り返ったその顔は、何を見いだしたのか。月明かりの下で、一度だけ、こくんと頷いた。
夢うつつの出来事に確信が持てないまま、朝が訪れた。
思えば祖母は花梨にしょっちゅう話しかけていたけども、それはあの子に向かって話していたのだろうか。手足の細い、可愛い女の子だった。
「なぁ、花梨。お前は来年も花を咲かせて、実をつけるだろ」
リビングから見える細い木に話しかけても、あの子は見えないし返事もない。それでもいいか、と思う。祖母もこうして話しかけていたのだ。
窓を閉めようとしたときだ。ぴゅうと木枯らしが吹いた。ぽとん、と黄色の実が落ちる。偶然だったのかもしれない。だけど、くすりと笑って手に取った。
「ありがたく受け取っておくよ。どうしたらいいか調べるからさ」
独特の匂いを放つ花梨の実は、祖母の家にあった木の半分の大きさしかなかった。
だが、精一杯作ってくれたものなのだ。
「じきに春が来るよ」
まずは祖母が自慢した可憐で小さな花を咲かせて。祖母が愛した実をつけて欲しかった。その場所は窮屈で、空にはまったく届かないけども、枯れることなく来年も再来年も、どうかそこに。そのままに。
祖母の思いとともに、思い出とともに。
調べて知った花梨の花言葉は、『唯一の恋』と『努力』だった。
ああ、なるほどと思った。
SS習作です。ちょっとボリュームが出てしまい反省。
読んで下さってありがとうございました。