第三話 アルゴリズムの構築
弁護士事務所の応接室は、静寂に包まれていた。
重厚な革張りのソファに深く腰掛けた私は、テーブルの上に置かれたアイスコーヒーの氷が溶けていく音を、ぼんやりと聞いていた。
窓の外には、曇天の空が広がっている。私の心模様を映し出したような、重苦しい灰色だ。
「……なるほど。状況は理解しました。しかし、これは……」
向かいに座る弁護士の御子柴は、眉間に深い皺を刻みながら、私が提出した資料――DNA鑑定書、興信所の報告書、そして復元したMINEのログ――をめくっていた。彼は企業法務に強いベテランだが、個人の離婚案件も扱っている。大学時代の先輩であり、私が最も信頼できる法律の専門家だ。
「率直に言って、言葉もありませんな。二十年間の欺瞞。それも、結婚当初からの計画的な裏切りとは」
御子柴の声には、同情と、そして隠しきれない嫌悪感が滲んでいた。
「単なる不貞行為ではありません。彼らは私の人生を、金銭的リソースとして搾取し続けました。長男の海人についても、私の実子であると偽り、養育費や学費を負担させてきた。これは詐欺に近い行為だと思っています」
私は努めて冷静に、事実だけを並べた。感情を露わにすれば、そこで思考が止まってしまう。今の私に必要なのは、激情ではなく、冷徹な論理だ。
「ええ、その通りです。民法上の不法行為に該当するのは間違いありません。特に『托卵』の事実は、慰謝料の増額事由として極めて強力です。通常、不貞の慰謝料は三百万円程度が相場ですが、今回は桁が変わるでしょう。二十年という期間、悪質性、そして精神的苦痛。すべてを考慮すれば、相手方の破産を視野に入れた請求が可能です」
「破産……」
その言葉の響きに、私の口元が微かに歪んだ。
「彼らには、社会的にも経済的にも、再起不能になってもらいたい。特に桐島には、会社での横領疑惑もあります。これについては、社内のコンプライアンス委員会ではなく、まずは警察に被害届を出す準備を進めたい」
私は持参したUSBメモリをテーブルに置いた。中には、桐島のPCから抽出した裏帳簿と、私的流用の証拠データが入っている。
「ほう、横領ですか。それなら話は早い。懲戒解雇は免れませんし、退職金も不支給になるでしょう。さらに損害賠償請求と、あなたからの慰謝料請求が重なれば、彼は間違いなく借金地獄に落ちます」
御子柴は眼鏡の位置を直し、鋭い眼光を私に向けた。
「ただし、相沢さん。一つだけ確認しておきたいことがあります。奥様……いや、美佐子氏との離婚は確定として、お子さんたちのことです。長男くんとは親子関係がないことが証明されましたが、長女の結奈ちゃんについては?」
「……結奈は、私の娘です。鑑定結果も出ています」
私は声を詰まらせながら答えた。その事実だけが、今の私を支える唯一の杭だった。
「そうですか。では、親権争いになりますね。結奈ちゃんは十五歳。家庭裁判所は本人の意思を尊重します。彼女が母親についていくと言えば、親権を取るのは難しくなりますが」
「あの子は賢い子です。それに、母親の奔放さには以前から嫌悪感を抱いている節がありました。……私が、真実を話せば、理解してくれると信じています」
「真実を、ですか。十五歳の少女には、あまりにも残酷な現実かもしれませんが」
「ええ。ですが、嘘の上に築かれた関係はもうたくさんです。彼女に選択させます。地獄へ落ちる母親か、あるいは……私か」
打ち合わせを終え、事務所を出た頃には、空から小雨が降り始めていた。
アスファルトを濡らす雨の匂いが、鼻腔をくすぐる。
私は傘も差さずに歩き出した。冷たい雨が、火照った頭を冷やしてくれるような気がした。
これで、法的な準備は整った。
次は、社内政治と、家庭内での兵糧攻めだ。
私の復讐計画は、フェーズ2へと移行する。
翌日、出社した私は、すぐに桐島を部長室に呼び出した。
彼は相変わらず、高い整髪料の匂いを漂わせながら、飄々とした態度で入ってきた。
「失礼します。お呼びでしょうか、部長?」
「ああ、座ってくれ。実は、折り入って頼みたいことがあるんだ」
私は手元のタブレットを操作し、今期立ち上げる予定の大型プロジェクトの概要を表示させた。
『次世代クラウド基盤刷新プロジェクト』。
社運を賭けた、予算規模数十億の案件だ。当然、責任は重く、失敗すれば担当者の首が飛ぶレベルのものだ。
「このプロジェクトのリーダー(PL)を、お前に任せたいと思っている」
「えっ? 俺にですか?」
桐島が目を丸くした。予想外の展開に、素の表情が出ている。
「ああ。お前もそろそろ課長止まりじゃ物足りないだろう? このプロジェクトを成功させれば、次期部長の席は約束されたようなものだ。俺も、同期のお前が昇進してくれるのは嬉しいしな」
私は心にもない言葉を、滑らかに紡ぎ出した。
桐島の顔に、じわじわと野心が滲み出てくるのが分かった。
彼は実務能力は低いが、自己評価だけは異常に高い。自分が評価されないのは、周りが無能だからだと思い込んでいるタイプだ。
そんな人間に、甘い餌をぶら下げればどうなるか。結果は火を見るよりも明らかだ。
「やります! いや、やらせてください! 健一……いや、部長の期待に応えてみせますよ!」
「頼もしいな。ただし、予算管理も含めて全権を委譲する。経理との折衝も、お前の裁量でやってくれ。期待しているぞ」
「任せてください! いやあ、ついに俺の時代が来たって感じですね!」
桐島は興奮した様子で退室していった。
扉が閉まった瞬間、私の表情から笑みが消え失せた。
このプロジェクトは、罠だ。
技術的難易度が極めて高く、今の桐島のスキルでは到底管理しきれない。
さらに、「予算管理の全権委譲」という言葉に、彼は飛びついたはずだ。
彼はすでに経費を横領している。そんな人間に、数十億の予算を握らせればどうなるか。
彼は必ず、プロジェクト予算にも手を付ける。
美佐子との豪遊のために。見栄を張るために。
その証拠を掴めば、横領の金額は跳ね上がり、彼を刑務所に送る期間も長くなる。
そしてプロジェクトが破綻した時、その全責任は彼に降りかかる。
私は管理者として、「信頼していた部下の裏切りにより、予期せぬ損害を被った被害者」を演じるだけだ。
「……泳げ、桐島。もっと深く、戻れないところまで」
私はモニター越しに、自席でガッツポーズをしている桐島を冷ややかに見つめた。
その週末、私は娘の結奈を誘ってドライブに出かけた。
行き先は、彼女が以前から行きたがっていた、海沿いの静かなカフェだ。
助手席に座る結奈は、少し緊張した面持ちで外の景色を眺めていた。
十五歳。中学三年生。
受験を控えた大事な時期に、こんな話をする父親を、彼女は許してくれるだろうか。
「パパ、どうしたの? 急にドライブなんて」
カフェでパンケーキを注文した後、結奈が不安そうに尋ねてきた。
彼女は勘が鋭い。家庭内の不穏な空気、特に美佐子と私の間の、表面上は取り繕っているものの決定的に冷え切った空気を、敏感に感じ取っているのだろう。
「……結奈。今日は、大切なお話があって来たんだ」
私はアイスコーヒーを一口飲み、喉を湿らせた。
心臓が早鐘を打つ。会社のプレゼンなど比ではない緊張感だ。
「パパとママのこと?」
結奈の問いかけに、私は小さく頷いた。
「そうだ。……パパとママは、離婚することになると思う」
結奈の瞳が大きく揺れた。
しかし、彼女は泣き叫んだり、否定したりはしなかった。ただ、静かに伏し目がちになり、フォークを握りしめた。
「……やっぱり、そうなんだ」
「気づいていたか?」
「うん。ママ、最近変だもん。ずっとスマホ見てニヤニヤしてるし、夜も出かけてばかりだし。パパのご飯も作らなくなったし」
結奈の声は震えていた。
彼女は見ていたのだ。美佐子の変化を。いや、美佐子の本性を。
私は胸が締め付けられる思いだった。
子供は親を選べない。こんな母親を持たせてしまったのは、私の責任でもある。
「結奈。驚かないで聞いてほしい。……ママには、他に好きな人がいるんだ」
「……浮気、してるってこと?」
「ああ。それも、とても長い間だ。パパは、それを許すことができない。だから、別れることに決めた」
結奈は唇を噛み締め、涙を堪えていた。
私は彼女の手の上に、自分の手を重ねた。
「ここからが、一番大事な話だ。パパたちが別れたら、結奈はパパかママ、どっちと一緒に暮らすかを選ばなきゃいけない」
「……」
「パパは、結奈と一緒に暮らしたいと思っている。でも、無理強いはできない。もしママがいいなら、パパは全力でサポートするつもりだ。だけど……」
言葉を続けるのが怖かった。
もし、彼女が母親を選んだら。
母親の不貞を知ってもなお、母親への愛情が勝ったら。
私は孤独になる。完全なる孤独だ。
結奈は顔を上げ、私の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、私の知らない強さが宿っていた。
「お兄ちゃんは?」
「え?」
「お兄ちゃんは、どうするの?」
「……海人は、ママの方に行くだろう」
「そう。……じゃあ、私はパパと行く」
迷いのない言葉だった。
私は一瞬、耳を疑った。
「い、いいのか? ママと離れても」
「いいよ。だって、ママは私のことなんて見てないもん」
結奈は寂しげに笑った。
「昔からそうだった。ママが可愛がるのは、お兄ちゃんだけ。私のテストの点数が良くても『ふーん』で終わりだけど、お兄ちゃんが何かすると大騒ぎして喜んで。……私、ずっと寂しかった。でも、パパだけは私を見てくれてた」
彼女の言葉が、私の胸に深く突き刺さった。
美佐子の海人への偏愛。それは、海人が「愛する男(桐島)の子供」だったからだ。
そして結奈への無関心。それは、彼女が「金づる(私)の子供」だったからだ。
残酷すぎる真実。
しかし、その歪んだ愛情の差が、皮肉にも娘を私の方へ押しやってくれた。
「パパ、私ね、知ってるよ。パパが私の誕生日に、仕事休んでケーキ買いに行ってくれてたこと。ママは忘れてても、パパだけは覚えててくれたこと」
結奈の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「私は、パパの子だもん。パパと一緒にいたい」
「……結奈ッ」
私は席を立ち、娘を強く抱きしめた。
こみ上げる涙を抑えることができなかった。
救われた。
私は、救われたのだ。
二十年間の結婚生活がすべて嘘だったとしても、この子が育った十五年間だけは、本物だった。
私の愛情は、無駄ではなかった。
「ありがとう。……ありがとう、結奈」
しばらくして落ち着きを取り戻した私たちは、海沿いを少し散歩した。
結奈には、まだ海人の出生の秘密(托卵)までは話していない。それは、すべてが終わった時に話すべきだろう。今はまだ、彼女の心を守らなければならない。
「パパ、これからどうするの?」
「悪い人たちを、懲らしめる準備をするんだ。少し、怖い思いをさせるかもしれない。でも、必ず結奈を守るから」
「うん。私、協力するよ。ママの家にいる時の様子とか、教えてあげる」
「心強いな。……頼むよ、相棒」
私たちは拳を突き合わせ、小さな同盟を結んだ。
これで、私の足元は固まった。
守るべきものが明確になり、迷いは消えた。
あとは、彼らを断罪の舞台へ引きずり出すだけだ。
翌週、私は自宅で「昇進祝い」と称したホームパーティーを開くことを提案した。
美佐子は最初、面倒くさそうな顔をしたが、「今回のプロジェクトは桐島も一緒なんだ。彼も招待しようと思う」と言った途端、瞳を輝かせた。
「まあ! 桐島さんも? それなら、ちゃんとおもてなししなきゃね!」
声のトーンが露骨に上がった。
夫の前で、間男が来ることを喜ぶ妻。
滑稽だ。あまりにも滑稽で、憐れみすら覚える。
「ああ、彼も喜ぶだろう。海人も呼んで、家族ぐるみで祝おうじゃないか」
「ええ、そうね! 海人も達也くん……あ、桐島さんには懐いてるし!」
美佐子は浮き足立ち、すぐにスマホを取り出して(おそらく桐島へ)連絡を始めた。
私はその背中を見ながら、冷たい計画の最終仕上げに取り掛かった。
パーティーの日取りは、二週間後の日曜日。
場所は、我が家のリビング。
参加者は、私、美佐子、海人、結奈。そして、主賓の桐島達也。
役者はすべて揃う。
私は書斎に入り、鍵のかかった引き出しから一冊のファイルを取り出した。
中には、DNA鑑定書、興信所の写真、MINEのログ、そして桐島の横領の証拠。
これらを、当日のプレゼンテーション資料に組み込む必要がある。
家族の思い出のスライドショーに見せかけて、彼らの罪状を白日の下に晒すのだ。
「……楽しみだな」
私はPCを立ち上げ、PowerPointを開いた。
タイトルは『Our Precious Memories(私たちの大切な思い出)』。
最初のスライドには、二十年前の結婚式の写真を貼り付けた。幸せそうな二人の笑顔。
その次のスライドには、同じ日付のMINEのログ。
『あいつの金で、一生遊んで暮らそうね』というメッセージを、大きなフォントで配置する。
編集作業を進める私の指は、ピアノを弾くように軽やかだった。
怒りはもうない。あるのは、完璧なプログラムを書き上げるエンジニアとしての達成感と、バグを排除する執行者としての使命感だけだ。
ふと、階下から美佐子の鼻歌が聞こえてきた。
彼女は今、何を着ていこうか、どんな料理を作ろうか、心を躍らせているのだろう。
それが「最後の晩餐」になるとも知らずに。
「精一杯、着飾るといい」
私は独りごちた。
その華やかな衣装が、お前たちの喪服になるのだから。
準備は完了した。
アルゴリズムにエラーはない。
変数はすべて制御下にある。
あとは、実行キー(Enter)を押すだけだ。
私の人生最大の、そして最後のプロジェクトが、まもなく幕を開ける。




