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二十年目のデバッグ ― 信頼していた部下と愛する妻が、私の人生に仕込んだ致命的なエラーについて  作者: ledled


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第二話 悪意ある仕様書

翌朝、目が覚めると、世界は何も変わっていないかのように平穏な表情をしていた。

カーテンの隙間から差し込む朝日が、寝室のフローリングに白い直線を引いている。隣には、妻の美佐子が規則正しい寝息を立てて眠っている。その横顔は、二十年間見慣れた、穏やかで美しい妻のものだった。


しかし、私の内側にある世界は、昨夜の衝撃で修復不可能なほど破壊されていた。

頭の奥で鈍い痛みが脈打っている。睡眠は浅く、悪夢と現実の境目を彷徨い続けていたせいだ。夢の中でも、私は美佐子と桐島が嘲笑う声を聞いていた。


「……おはよう、あなた」


身じろぎした気配で目を覚ましたのか、美佐子がゆっくりと瞼を開けた。ふわりと微笑むその仕草は、完璧な「良妻」のそれだった。


「昨日はごめんなさいね。急なシステムトラブルなんて、大変だったでしょう? お疲れ様」


その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。

彼女は知っている。私が昨日、システムトラブルで会社に戻ったわけではないことを。彼女自身が、桐島という男のベッドで喘いでいたのだから、私の嘘など見透かしているはずはないのだが、彼女の演技があまりにも自然すぎたからだ。

微塵の罪悪感も、後ろめたさもない。ただ、日常のルーチンワークとして「夫を労う妻」を演じている。その高度に最適化された演技力に、私は戦慄した。


「ああ……まだ、完全には解決していないんだ。今日も忙しくなると思う」


喉が張り付くような感覚を覚えながら、私はなんとか声を絞り出した。

私の演技は拙かったかもしれない。だが、美佐子は気にする風でもなく、「じゃあ、朝ごはん作るわね」と軽やかにベッドを降りていった。


リビングに行くと、トーストの焼ける香ばしい匂いと、コーヒーのアロマが漂っていた。

食卓には、いつものように私の好きな目玉焼きとサラダが並べられている。平和な家族の朝食。昨日までは幸福の象徴だったこの光景が、今は吐き気を催すだけのグロテスクな舞台セットに見えた。


「親父、おはよ」


気だるげな声とともに、長男の海人が二階から降りてきた。

大学一年生。十八歳。

昨夜の疑惑が脳裏をよぎる。私はマグカップを持つ手を止め、息子の顔を凝視した。

寝癖のついた髪、少し目尻の吊り上がった目、不満げに歪んだ口元。

これまでは「美佐子に似たのだろう」と自分を納得させていた要素が、すべて別の形を持って迫ってくる。

桐島だ。

あの軽薄で、享楽的で、自分本位な男の顔が、海人の顔に重なる。


「なんだよ、人の顔じろじろ見て。気持ち悪いな」


海人は私の視線に気づき、不愉快そうに眉をひそめた。


「……いや、何でもない。大学はどうだ? 講義にはちゃんと出ているのか?」

「うっせーな。出てるよ。それよりさ、サークルの合宿費、来週までに振り込んどいてよ。五万」

「五万? 先月も何かの集金だと言って渡したばかりじゃないか」

「あれは飲み会代。今回は合宿。付き合いあんだよ、俺にも。部長なんだからケチんなよ」


海人は悪びれもせず、トーストを乱暴に齧った。

その食べ方、咀嚼する時の顎の動き、箸の持ち方。すべてが癇に障る。

以前なら「仕方ないな」と苦笑して財布を開いていただろう。だが今は、こいつの血管に流れている血が、私のそれではないという疑惑が、愛情を急速に冷却していく。


「健一さん、そんなに怒らないであげて。海人も大学生なんだから、付き合いがあるのよ。ね?」


美佐子がコーヒーを注ぎながら、甘やかすような声で割って入った。

海人は母親には甘えたような視線を送り、「サンキュー、母さん」とニヤリと笑う。

その一瞬のやり取りに、私は強烈な疎外感を覚えた。

この家には、二種類の人間しかいない。「搾取する者」と「搾取される者」だ。

私はこの二十年間、家族という名の檻の中で、彼らに栄養を送り続けるだけの愚かな宿主だったのだ。


「……行ってきます」


これ以上ここにいたら、叫び出してしまいそうだった。

私は逃げるように席を立ち、鞄を掴んで玄関を出た。背後で「いってらっしゃい」という明るい声が聞こえたが、振り返ることはなかった。


満員電車に揺られながら、私はスマホを取り出し、昨夜保存したデータの解析を再開した。

感情に流されてはいけない。私はエンジニアだ。バグを特定し、修正案パッチを作成し、実行する。そのプロセスだけが、今の私を正気につなぎ止めていた。


会社に着くと、いつものように開発部のフロアへ向かった。

私の席は部屋の奥、全体を見渡せる位置にある。

数分後、桐島が出社してきた。


「おはようございます、部長! いやー、昨日は災難でしたねえ」


桐島は何食わぬ顔で私のデスクに近づいてきた。

グレーのスーツからは、微かに甘い香水の匂いがした。美佐子が好んでつけているブランドのものだ。昨夜、二人はどれほど濃厚な時間を過ごしたのだろう。想像するだけで胃液が逆流しそうになる。


「ああ、とんだトラブルだったよ。お前の方はどうだ? 資料は?」

「バッチリですよ。後でメールしときます」


桐島はウィンクをして自分の席へ戻っていった。

私は深呼吸をし、自分のPCに向かった。

これから行うのは、社内規定違反だ。だが、そんなことを気にしている場合ではない。

私は管理者権限を使い、社内ネットワークのトラフィック監視ツールを立ち上げた。ターゲットは桐島のPCだ。

さらに、彼が離席した隙を狙って、物理的にキーロガーを仕込むのではなく、リモートデスクトップのバックグラウンドプロセスを利用して、彼の操作履歴とファイルシステムをミラーリングするスクリプトを実行した。


画面上に、桐島のPCの中身が次々と展開されていく。

業務用のフォルダに混じって、「Private」という隠し属性のフォルダが見つかった。パスワードがかかっているが、ブルートフォース攻撃(総当たり)を仕掛けるまでもない。彼の誕生日は知っているし、美佐子の誕生日も知っている。

数回の試行で、フォルダは開いた。


中に入っていたのは、数々の領収書の画像データと、エクセルファイルだった。

ファイル名は「経費精算管理表_裏」。

中身を見た瞬間、私は呆れて声が出そうになった。

日付、店名、金額、そして「名目」。

名目の欄には「A社接待」「B社打ち合わせ」と書かれているが、実際の店名は、高級レストランやホテル、そしてブランドショップのものだった。

日付を照合する。昨夜の日付もある。

美佐子とのデート代、ホテル代、プレゼント代。そのすべてを、彼は会社の経費として処理していたのだ。

私的流用。横領。

これは懲戒解雇に十分な理由になる。


「馬鹿な奴だ……」


脇が甘いにも程がある。彼は私を、そして会社を舐めきっているのだ。「どうせバレない」「俺はうまくやっている」という根拠のない自信が、この杜撰な管理表に表れている。

私はすべてのデータを証拠として保全した。

これで、彼を社会的に抹殺する武器の一つが手に入った。


だが、これだけでは足りない。

私が欲しいのは、もっと致命的な、彼らの魂を抉るような真実だ。

私は再び、昨夜コピーした美佐子のMINEのログに意識を向けた。

膨大なメッセージの履歴。その深層に潜む、始まりの場所へ。


昼休み、私は誰もいない会議室に籠もり、ログを年代順に遡っていった。

二十年前。私たちが大学を卒業し、就職した頃。

『健一からプロポーズされたわ。どうしよう』

『受けとけよ。あいつ、大手に入ったし、将来安泰だろ』

『でも、私が好きなのは達也くんなのに』

『俺もだよ。でもさ、俺たちは自由でいたいじゃん? 金はあいつに稼がせて、俺たちは楽しめばいいんだよ』

『……ひどい人。でも、そういうところが好き』


画面の前で、握りしめた拳が震えた。

結婚は、彼らにとって「資金調達」の手段でしかなかった。

私は愛されていなかった。最初から、ただの一度も。

美佐子の笑顔も、涙も、誓いの言葉も、すべてはこの男と快楽を貪るための演出だったのだ。


さらにログを進める。十九年前。美佐子が妊娠した時期だ。

私の手が止まった。

そこには、私の人生を根底から覆す、悪魔のようなやり取りが残されていた。


『達也くん、生理が来ないの。もしかしたら、できたかも』

『マジかよ。タイミング的に、俺との時のやつか?』

『たぶん……。健一とは、そういうことほとんどしてないし』

『どうする? おろすか?』

『ううん、産みたい。達也くんの子だもの。私の宝物だもの』

『でも、バレたらまずいだろ』

『大丈夫よ。時期をごまかせば、健一の子ってことにできるわ。あいつ、そういう計算には疎いし、自分の子だって言えば疑わないわよ』

『ハハッ、すげえな美佐子。あいつに俺の子を育てさせるってことか? 托卵ってやつか?』

『そうよ。あいつの金で、立派に育ててあげるの。最高の復讐だと思わない? エリート気取りのあいつへの』

『いいな、それ。ゾクゾクするわ。俺たちの「秘密の種」か。大事に育てさせろよ、あいつに』


呼吸ができなくなった。

目の前が真っ赤に染まり、次いで真っ暗になった。

「最高の復讐」。

彼らはそう言った。

私が何をしたというのだ? 真面目に働き、彼らを愛し、守ろうとしたことが、彼らにとって復讐されるべき罪だったのか?


十九年前のあの日、美佐子は泣きながら妊娠を告げてくれた。「あなたとの赤ちゃんができたの」と。私は飛び上がって喜び、彼女を抱きしめた。

その腕の中で、彼女は舌を出していたのだ。

そして桐島は、友人面をして「おめでとう」と言いながら、腹の中で嘲笑っていたのだ。


「……殺してやる」


口から漏れた言葉は、本気だった。

今すぐオフィスに戻り、桐島の首を絞め上げ、家に帰って美佐子を刺し殺す。そんな衝動が全身を駆け巡った。

だが、私は歯を食いしばって耐えた。口の中に鉄の味が広がる。

だめだ。それでは私が犯罪者になって終わる。

彼らを殺すだけでは生ぬるい。

彼らが積み上げてきた「甘い汁」をすべて吸い出し、骨の髄まで絶望に染めてからでなければ、私の気が済まない。


「DNA鑑定だ……」


決定的な証拠が必要だ。

私は会議室を出て、午後からの業務に戻った。表情筋を死ぬ気で制御し、部下たちに指示を出し、桐島とも笑顔で言葉を交わした。

私の心は、完全に氷結していた。もう、痛みは感じない。あるのは、冷徹な処理手順アルゴリズムだけだ。


その日の夜、私はわざと遅く帰宅した。

家族が寝静まった深夜二時。

私は音もなく寝室に入り、まずは自分の髪の毛を数本抜き、チャック付きのポリ袋に入れた。

次に、洗面所へ向かう。

海人の歯ブラシ。青い柄の、使い古されたブラシ。

これを袋に入れる手が、微かに震えた。

もし、万が一、これが私の思い過ごしだったら。ログの内容が彼らの悪い冗談だったら。

そんな微かな希望が、まだ私の心のどこかに残っていたのかもしれない。

だが、やらなければならない。

私は海人の歯ブラシを袋に入れ、密封した。


そして、結奈の部屋へ向かう。

十五歳の娘。思春期真っ只中で、最近は口数も減ったが、私にとっては目に入れても痛くない愛娘だ。

彼女の部屋に忍び込むのは罪悪感があったが、真実を知るためには避けて通れない。

机の上に置かれたヘアブラシ。そこから、長い髪の毛を数本採取する。

「ごめんな」と心の中で謝りながら、私はそれを別の袋に入れた。


翌日、私は有給を取り、民間のDNA鑑定機関へ直接持ち込んだ。

郵送でも可能だが、一刻も早く、そして誰にも知られずに結果が欲しかった。

「親子関係の確認ですね。結果が出るまで一週間ほどかかります」

受付の女性は事務的に対応した。彼女にとっては日常業務なのだろうが、私にとっては人生の審判だ。

特急料金を払い、結果はメールではなく、指定した私書箱への郵送を依頼した。美佐子に見られるリスクをゼロにするためだ。


それからの一週間は、地獄のような日々だった。

家庭では、何も知らない美佐子が「良妻」を演じ、海人が「ドラ息子」として振る舞う。

会社では、桐島が「優秀な部下」の仮面を被って近づいてくる。

私は彼らを見るたびに、心の中で「死刑宣告」のカウントダウンをしていた。

お前たちが笑っていられるのも、今のうちだ。


そして、運命の日が訪れた。

私書箱に届いた一通の封筒。

私はそれを掴み、会社の地下駐車場に停めた自分の車の中に逃げ込んだ。

手汗で封筒が湿っている。

鼓動がうるさい。

深呼吸を繰り返し、私はペーパーナイフで封筒を開封した。


中には二枚の報告書が入っていた。

一枚目。

『検体A(甲:相沢健一)と検体B(乙:相沢海人)のDNA鑑定結果』

震える視線が、結論の欄へと吸い寄せられる。


【父権肯定確率:0.0000%】

【判定:生物学的な親子関係は認められません】


「……っ」


予想はしていた。覚悟もしていた。

だが、文字として突きつけられた事実は、鋭利な刃物となって私の心臓を貫いた。

ゼロ。

ゼロパーセント。

十八年間の記憶が走馬灯のように駆け巡る。

初めて抱いた時の重さ。運動会で走る姿。反抗期の怒鳴り合い。

そのすべてが、色を失い、崩れ落ちていく。

海人は、私の息子ではなかった。

あいつは、私の人生を食い荒らす寄生虫ウイルスだったのだ。


涙は出なかった。

代わりに、どす黒い感情が腹の底から湧き上がり、全身を支配した。

それは、かつて感じたことのない、絶対零度の憎悪だった。


私は震える手で、二枚目の報告書を取り出した。

もし、結奈までもが。

もし、彼女までが桐島の子だったら。

私は、この世のすべてを呪い、自ら命を絶っていたかもしれない。


『検体A(甲:相沢健一)と検体C(丙:相沢結奈)のDNA鑑定結果』


【父権肯定確率:99.9999%】

【判定:生物学的な親子関係が極めて強く示唆されます】


「……ああ……」


詰めていた息が、嗚咽となって漏れ出した。

よかった。

本当によかった。

結奈は、私の娘だ。私と血の繋がった、唯一の家族だ。

シートに背中を預け、私は天井を仰いだ。

目尻から一筋、涙が伝い落ちる。それは絶望の涙ではなく、安堵の涙であり、そして決別の涙だった。


この瞬間、私の中で何かが完全に切り替わった。

スイッチが押された音が聞こえた気がした。

感情を司る回路を遮断し、目的遂行のための論理回路だけをフル稼働させる。

敵は明確だ。

相沢美佐子。桐島達也。そして、相沢海人。

彼らは私の家族でも友人でもない。私のシステム(人生)に侵入し、破壊工作を行う悪意ある排除対象だ。

守るべき対象は、相沢結奈ただ一人。


私は報告書を丁寧に鞄にしまい、涙を拭った。

バックミラーに映る自分の顔を見る。

そこにはもう、人の良さそうな「相沢部長」はいなかった。

冷たく、鋭く、獲物を狩るために研ぎ澄まされた、捕食者の目がそこにあった。


「システムの再構築リビルドを始める」


私は静かに呟き、エンジンをかけた。

重低音が地下駐車場に響く。

仕様書は書き換わった。

ここから先は、情け容赦のないデバッグ作業の時間だ。

彼らが私に与えた苦しみの何倍もの苦痛を与え、すべてを奪い尽くしてやる。

車を走らせながら、私はこれからの計画を脳内でシミュレーションし始めた。そのあまりに残酷で、完璧なシナリオに、私の口元は自然と三日月のような形に歪んでいた。

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