第一話 潜伏するバグ
「相沢部長、お疲れ様です。今日の定例、いつも以上に冴えてましたね」
背後からかけられた軽薄な声に、私は視線をモニターから外して振り返った。そこに立っていたのは、同期であり、私の直属の部下でもある桐島達也だ。仕立ての良いグレーのスーツを着こなし、相変わらずの人当たりの良い笑みを浮かべている。
「おだてても何も出ないぞ、桐島。それより、A社への提案資料はできているのか?」
「ああ、あれならもう八割方終わってますよ。健一……いや、部長こそ、今日は珍しく定時上がりですか?」
桐島は同期の気安さからか、二人きりの時やふとした瞬間に昔の呼び方に戻ることがある。私は苦笑しながら、デスクの上の私物を片付け始めた。
「まあな。今日は結婚記念日なんだ。二十周年だから、少し特別なレストランを予約してある」
「へえ、二十年ですか。すごいもんですねえ、夫婦ってのは。俺みたいな独り身には想像もつかない継続力だ」
桐島は大げさに肩をすくめてみせた。彼は私と同じ四十五歳だが、いまだに独身を貫いている。学生時代から派手で女性にモテる男だったが、特定の誰かと家庭を築くことには興味がないらしい。
「継続こそ力なり、だよ。システム運用と同じだ。日々のメンテナンスと信頼性の確保が重要なんだ」
「出た、相沢部長のシステム例え。奥さん、その堅苦しさに愛想尽かしてなきゃいいですけどね」
「余計なお世話だ」
軽口を叩き合いながらも、私はこの男を信頼していた。入社以来、二十年以上の付き合いだ。出世競争では私が先に部長職に就いたが、桐島は腐ることなく私の右腕として働いてくれている。華のある彼が対外的なコミュニケーションをとり、実直な私が技術的な判断を下す。そのバランスは、大手IT企業である「サイバーノヴァ・システムズ」の開発部において、強固な基盤となっていたはずだった。
「じゃあ、お先に失礼するよ。明日の朝一で資料の確認を頼むな」
「はいはい、了解です。楽しんできてくださいよ、愛妻家殿」
ひらひらと手を振る桐島に見送られ、私はオフィスを後にした。窓の外には、都心の夕暮れが広がっている。空調の効いたビルから一歩外に出ると、六月の湿り気を帯びた生温かい風が肌にまとわりついた。
今日は特別な日だ。二十年前の今日、私は妻の美佐子と誓いを交わした。
美佐子は大学時代のサークルのマドンナで、高嶺の花だった。そんな彼女が私を選んでくれた時の喜びは、今でも鮮明に覚えている。それからの二十年、仕事人間で無骨な私を支え、家庭を守り続けてくれた。感謝してもしきれない。
今日はサプライズで、彼女が以前雑誌を見て「素敵」と言っていたブランドのネックレスを用意してある。レストランは、夜景の見えるフレンチだ。喜ぶ顔が目に浮かぶようで、自然と足取りが軽くなる。
私は予約していたネックレスを受け取るため、繁華街の大通りを歩いていた。週末の夕方ということもあり、通りはカップルや学生たちで溢れかえっている。喧騒とネオンの明滅。平和で、幸福な日常の風景。
その中に、見覚えのある後ろ姿を見つけたのは、本当に偶然だった。
(あれは……美佐子か?)
人混みの向こう、信号待ちをしている女性。上品なベージュのワンピースは、私が去年の誕生日に贈ったものだ。華奢な背中、少し茶色がかったセミロングの髪。間違いない、妻だ。
待ち合わせの時間にはまだ早い。美容院にでも行っていたのだろうか。声をかけようと一歩踏み出した瞬間、私の足はコンクリートに縫い付けられたように止まった。
美佐子の隣に、男が並んだからだ。
それだけなら、道を聞かれただけかもしれない。あるいは、偶然の知人かもしれない。だが、その男が美佐子の腰に慣れた手つきで腕を回し、美佐子がその肩に甘えるように頭を預けた瞬間、私の思考は真っ白になった。
男の顔が見えた。
整えられた髪、自信に満ちた横顔、そして見覚えのあるグレーのスーツ。
「……桐島?」
喉から絞り出された声は、雑踏のノイズにかき消された。
間違いだ。見間違いに決まっている。さっきオフィスで別れたばかりの部下が、なぜ私の妻とここにいる? しかも、あんなに親密そうに。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。
ドクン、ドクン、と嫌な音が鼓膜を打ち続ける。私は無意識のうちに、彼らの後を追っていた。探偵のような尾行ではない。ただ、目の前の現実を否定したい一心で、彼らの背中を追いかけたのだ。
二人は楽しそうに談笑しながら、路地裏へと入っていく。そこは、飲食店が並ぶ通りを抜けた先にある、ホテル街だ。
「嘘だろ……」
私の願いも虚しく、二人は一軒の派手な装飾が施されたホテルの前で立ち止まった。
桐島が美佐子の耳元で何かを囁く。美佐子が少女のように恥じらい、そして艶然と微笑む。その表情は、私が二十年間見たことのない、蕩けるような雌の顔だった。
二人は一度も躊躇することなく、その自動ドアの向こうへと吸い込まれていった。
現実感がなかった。
映画のワンシーンを見ているようだった。
あるいは、これはたちの悪いバグ(不具合)なのかもしれない。視覚情報処理のエラー。脳内データベースの破損。
だが、目に焼き付いた光景は消えない。
妻が、最も信頼していた同期の男と、ホテルに入った。今日は、私たちの結婚二十周年の記念日だというのに。
私はその場に立ち尽くしていた。
吐き気がした。胃の底から熱いものがせり上がってくる。
なぜだ? いつからだ?
桐島はさっき「夫婦ってすごい」と言っていた。あれは皮肉だったのか? 笑っていたのか? 腹の中で、何も知らない私を嘲笑っていたのか?
怒りよりも先に、足元が崩れ落ちるような恐怖が襲ってきた。
私の二十年は何だったんだ。
築き上げてきた家庭は、信頼は、愛情は。すべてが幻影だったのか。
気づけば、私は近くの公園のベンチに座り込んでいた。手には、美佐子へのプレゼントが入った紙袋が握りしめられている。綺麗にラッピングされた箱が、今の私には滑稽な遺物にしか見えなかった。
「……落ち着け」
私は深く息を吸い込んだ。震える手でネクタイを緩める。
私はエンジニアだ。感情で動いてはならない。エラーが発生したなら、まずは原因の特定と、ログ(証拠)の収集が必要だ。
今すぐホテルに乗り込んで二人を怒鳴りつけるか?
いや、それは愚策だ。「ただ相談に乗ってもらっていただけ」「休憩していただけ」と言い逃れされる可能性がある。それに、今の精神状態でまともな会話ができる自信がない。殺してしまいそうだ。
私はスマホを取り出し、震える指でスケジューラーを確認した。
レストランの予約はキャンセルだ。美佐子には「急なシステムトラブルで会社に戻らなければならなくなった」とMINEを入れる。
既読はつかない。当然だ。彼女は今、他の男とベッドの中にいるのだから。
その夜、私は深夜十二時を過ぎてから帰宅した。
リビングの明かりは消えている。寝室を覗くと、美佐子は先に眠っていた。規則正しい寝息を立てている。その顔は、いつも通りの良妻賢母の仮面を被っていた。
枕元には、私がプレゼントするはずだったネックレスに似合うような、別の安っぽいピアスが置かれている。おそらく、桐島からのプレゼントだろう。
吐き気を堪えながら、私はリビングに戻り、自分のPCを開いた。
美佐子は機械に疎い。家のWi-Fi設定も、スマホの初期設定も、すべて私がやっている。彼女のスマホのバックアップは、私の管理下にあるクラウドストレージに自動保存される設定になっている。彼女はそれを知らない。
本来ならプライバシーの侵害だ。だが、今は緊急事態だ。セキュリティ・クリアランスは私にある。
「デバッグの時間だ」
暗いリビングで、モニターの青白い光だけが私の顔を照らす。
私は管理者権限でクラウドにアクセスし、同期されたデータの中から、MINEのトーク履歴データベースを抽出した。通常、アプリ上で削除されたメッセージも、バックアップのタイミング次第ではログに残っている場合がある。あるいは、専用の解析ツールを使えば、削除フラグが立っただけのデータを復元することも可能だ。私はその手のデータ解析を専門の一つとしている。
美佐子のスマホのパスコードは、二人の結婚記念日だ。皮肉な話だ。
クラウド上のバックアップデータを展開し、解析ツールにかける。
数分後、画面に文字列の羅列が表示された。
私はフィルタリングをかける。対象は「桐島達也」。登録名はカモフラージュされているかもしれないが、頻繁にやり取りしている相手を抽出すればすぐに分かる。
「T」という登録名の相手。アイコンは風景写真だが、IDは桐島のものと一致した。
クリックする指が重い。
パンドラの箱を開けるような恐怖。だが、見なければならない。バグの根源を。
表示されたトーク履歴は、私の想像を遥かに超える汚泥だった。
『今日の健一、記念日だからって張り切ってて笑えるw』
『あいつ、サプライズとか本気で喜ぶと思ってるのかな。センスないのに』
『達也くんの方がいい。早く会いたい』
『俺もだよ、美佐子。二十年もあんな堅物とよくやるよな、お前も』
『だって、ATMとしては優秀だもの。でも、心も体も達也くんだけのものよ』
文字の暴力が、私の網膜を焼き、脳を直接殴りつけてくる。
日付を遡る。
一年前、三年前、五年前……。
履歴はどこまでも続いていた。スクロールしても、スクロールしても、二人の不貞の証拠が溢れ出してくる。
「おはよう」から「おやすみ」まで。私が仕事をしている間も、家族旅行に行っている間も、彼らは常に繋がっていた。私が隣で眠っている時でさえ、彼らは画面の中で愛を囁き合っていたのだ。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
二十年。
本当に、二十年だった。
ログは、私たちが結婚する前から存在していた。
『結婚式、面倒くさいな。でも、これで怪しまれずに会えるね』
『新婚旅行の時も連絡してね。寂しいから』
そんなメッセージが、結婚当時の日付に残されている。
私はモニターの前で頭を抱えた。
涙は出なかった。あまりの衝撃に、感情の回路がショートしてしまったようだった。
信頼していた部下。愛していた妻。
私の人生の半分は、彼らにとって都合の良い舞台装置でしかなかった。
彼らは私の金で生活し、私の背後で舌を出し、私の人生を食い物にしていたのだ。
ふと、一つの画像データに目が止まった。
一年前、息子の海人が大学に合格した時の写真だ。
美佐子が桐島に送ったものらしい。
『海人、合格したよ。やっぱり達也くんに似て賢いね』
『俺の子だからな。当然だろ』
『健一は自分のおかげだと思ってるみたい。滑稽ね』
思考が停止した。
呼吸が止まる。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
もう一度、画面の文字を目で追う。
『俺の子だからな』
『俺の子』
「……あ……ああ……」
声にならない呻きが漏れた。
海人は、十八歳になる長男だ。少し生意気だが、健康に育ってくれた自慢の息子だ。
私にはあまり似ていないが、美佐子に似たのだと思っていた。
だが、言われてみればどうだ。
あの少し釣り上がった目。口の端を歪めて笑う癖。そして、享楽的で地道な努力を嫌う性格。
あれは、誰に似ている?
脳裏に、桐島の顔が浮かぶ。
オフィスのデスクで、軽薄に笑う桐島の顔が。
海人の顔と、桐島の顔が重なる。
パズルのピースが、最悪の形で嵌まっていく。
「……う、おぇ……ッ」
私は洗面所に駆け込み、胃の中のものをすべて吐き出した。
夕食を食べていないから、出るのは胃液だけだ。酸っぱい味が口いっぱいに広がり、涙が滲む。
鏡に映った自分の顔は、土気色で、幽霊のように酷い有様だった。
十八年間。
私は、十八年間、妻を寝取った男の子供を、自分の息子だと信じて育ててきたのか?
学費を出し、塾に通わせ、反抗期に悩み、合格を共に喜んだ。
そのすべてが、偽りだったというのか?
「許さない……」
鏡の中の自分に向かって、私は呟いた。
その声は、驚くほど低く、冷え切っていた。
熱い怒りは消え失せ、代わりに氷のような冷徹な意思が心を満たしていく。
これはエラーだ。
私の人生に紛れ込んだ、致命的なバグだ。
システムを正常に戻すことは、もうできない。
ならば、バグを排除するしかない。徹底的に。完膚なきまでに。
私は口をすすぎ、再びPCの前へと戻った。
指はもう震えていない。
エンジニアとしての私の本能が、最適なアルゴリズムを構築し始めていた。
ただ離婚するだけでは足りない。
ただ慰謝料を貰うだけでは割に合わない。
彼らが私に与えた二十年分の欺瞞と屈辱に見合うだけの、相応のペナルティを与えなければならない。
私はMINEのログをすべて保存し、外部ストレージにコピーを作成した。
さらに、桐島の社内メール、勤怠データ、経費精算のログにもアクセスするためのスクリプトを組み始める。
会社のセキュリティを突破するのはリスクがあるが、管理者権限を持つ私には抜け道が見えている。桐島が私を「堅物」と笑っている間に、私は彼の首に縄をかける準備を進める。
画面の向こうで、美佐子と桐島が笑っている気がした。
笑わせておけばいい。
今はまだ、泳がせておく。
お前たちが積み上げた嘘の塔が、一番高く、一番残酷な形で崩れ落ちるその瞬間まで。
「デバッグ完了予定は……」
私はカレンダーを見つめた。
娘の結奈のことだけが気がかりだ。彼女だけは、私の実子であると信じたい。だが、それすらも確かめなければならない地獄が待っている。
それでも、やるしかない。
「……必ず、排除する」
深夜の静寂の中、私のエンターキーを叩く乾いた音が、宣戦布告のように響き渡った。
それが、私の復讐劇の幕開けだった。




