赤い椿、白い椿
Ⅰ
向かいの家の八重子ときたら、とんだ跳ねっ返りだったものだ。
その黒髪は針金みたいに硬くって、そのうえ太い三つ編みにしているものだから、まるで牛の尾っぽじゃないか。いつも坂の石垣に腰かけながら自慢の太い眉毛を吊り上げて、鼻穴広げておれを見下ろすのだ。どれだけ馬鹿にしてやったって、おれには自分をぶん殴れやしないと八重子はよくよく分かっていた。
八重子のおやじは土地持ちだった。それで、おれのお父は小作だった。おれのうえには兄や姉やが四人もいて、下にも双子がいたものだから、お父が八重子の家の土間に膝ついて、金を貸してもらう姿を何度も見たことがある。お父の擦り切れたのら着の穴の向こうには、いつも固く黒ずんだ膝があった。
八重子はしょっちゅう、つまらないことで勝負を持ちかけてきた。
一つ年長で身体の立派だった八重子は、相撲や駆け比べでおれを負かすのが好きだった。おれを軽軽投げ飛ばしたり、あっという間に駆け追い抜いたり、そのたび大きな口で楽しそうに笑っていた。けれどもおれが大きくなってなかなか勝てなくなってくると、今度は知恵を巡らせ始めた。
たとえば、ある朝、互いの家の鶏が生んだ卵の数を比べて多かったほうが勝ちだとか、川の流れに顔を埋めて長く息を我慢できたほうが勝ちだとかだ。それが段々と、どっちが長生きするかだの、どっちの末ずえが偉くなるかだの、変な話になってくる。
これは本当にずるい話だ。
八重子の家の鶏なんか、おれよりいいもの食っていた。砂突いてばかりのおれの鶏が勝てる訳のあるものか。持てるか知らないおれの子なんか、もっと勝てない。
「付き合ってられるかあ」
おれがそう怒鳴って踵を返すと、八重子は唇をきっと結んで追いかけてきては、家に着くまで「弱虫、弱虫」と繰り返すのだった。
それがまた事情が変わったのは、十一のとき、年の暮れのことだった。
ある日、おれが薪割りしていると、川上の小母さんが太い短い両足をちょこちょこ急かし、まるで独楽みたいにやってきた。彼女がおれを掴まえて言うことには、仔牛が一頭逃げたから急いで男衆を呼んでくれという話じゃないか。
仔牛といっても乳も離れた、自転車くらいはあるやつで、それが追われて四方八方走り回る。子どもが踏まれちゃ、大事だ。それで近所の子どもたちは揃ってみんな集められて、八重子の家の丈夫な玄関に隠れていなきゃいけなくなった。おれが弟たちを連れて入っていくと、隅のほうで八重子が座ってじっとしていた。
仔牛はなかなか捕まらなくて、外はそろそろ日が落ちてきていた。いつまで隠れているべきだろうか。誰ぞ大怪我してないだろうか。不安になってきた子どもたちは、ひよこみたいに寄り合って口々に話し合っていた。
随分長く閉じこめられて、おれも退屈になってきたところのことだ。
いつも偉そうに踏ん反り返っている八重子が、今日ばかりは膝を抱えてぶるぶる震えているのが可笑しくって、おれは彼女の耳に手と顔とを寄せて、からかうつもりで囁いた。そうだ、確かにそうしたはずだ。だけれども、何と言ったか、今でもはっきりとは思い出せない。それくらい、ほんとうにくだらないことを言った。ほんの少し鼻を明かしてやれたら、それで十分だったのだ。
ともかく、おれが言ったことは八重子の癇にすこぶる障ったらしい。
途端に八重子は立ち上がった。ぱっちりした吊り目をもっと見開いて、薄い唇を引きつらせて、鬼神さまのような面でおれを見た。そんなことは初めてだったから、おれは吃驚して腰が抜けた。彼女は二、三度、何か言おうと息を吸って、しかし、結局何も言わず、そのまま硝子戸を開け払って出ていった。みんなぽかんとしていた。上がり框に西陽が差して、おれの指先ばかりを照らしていた。
次の日、八重子の額、左の眉の辺りに、中くらいの真新しい痂ができていた。大人たちの噂で聞くには、八重子が突然飛び出してきて、仔牛の頚を押さえようとしたが、仔牛が頭を振った勢いで石垣にぶつかったらしい。何だってそんなことをしたものだろう、と大人たちは首を傾げ合っていた。
おれはたちまち恐ろしくなった。
八重子が飛び出ていったのは、おれがあいつをけしかけたからだ。こんなことが八重子のおやじにばれたら、一晩中はぶん殴られる。お父だってぶん殴る。今となっては、あれはもっと複雑な────大変なことをおれはしでかしたのだと分かっているが、がきの時分のおれには、それが精精の想像だった。怒られる、ぶん殴られる、そればかり気にしてびくびくしていた。
Ⅱ
ある晩、お父がおれを呼びつけた。ひとりで来い、と顔も向けずに言ってきた。おれはとうとう覚悟した。お父に着いて薄暗い内縁を歩くと、颪が朽ちた雨戸の隙間を抜けていった。建具が震えて悲鳴を上げた。
狭い部屋にお父はどっかりと腰を下ろして、おれも小さく座るのを確かめると、徐に口を開いた。おれはぎゅっと目を瞑った。
「おまえ、東京に行くか」
虚を突かれた。どういうことだろう、とおれは俯いていた顔を上げた。お父は言った。
「おれの兄に浅草で商売をやっているやつがいるが、おまえさえよければ、養子にほしいと言ってきた」
故郷を飛び出し、店を持ち、優しい奥方も貰ったが、どうも体の弱い人で無理はさせられない。それでうちからひとり後継ぎに、ということだった。
「大事な店を任せようというからには学校へもよく通わせるつもりだと言うもんで、おれは真面目なおまえがいいと思った」
いつも口数少ないお父が、こんなにはっきりものを言うのは初めて見た。おれのことを、そんなふうに思っていたとは知らなかった。
願ってもない話だと思ったけれど、すぐには答えられなかった。得体の知れない居心地悪さが喉をちくちく突いていた。
おれは少しだけ八重子のことを考えて、しかしそれから、土の染みついたお父の手のひらを思い出した。
「分かった」
腹を括ったおれがそう答えると、お父はほっとしたように膝を揉んだ。それでおれは次の春には東京に行くことになった。
もうすぐ転校してしまう学校の帰り道、おれはひとりで坂を下りながら、南のほうまでぱらぱら広がっている梅の林を眺めていた。あの幹の中には今や樹液がじゅくじゅく詰まって、早く蕾を弾けさせようと企んでいるに違いなかった。
手前じゃ放牧された牛たちが、牧柵越しに草はみながら追ってくるから、長いべろを引っ張ってやったり、ふきのとうみたいな角の跡を撫でてやったりした。
この郷の丘の上からは地の果てまでも見下ろせる。だけど、東京という場所は、もっとずっと遠いらしい。空の色は同じだろうか。二月に梅は咲くだろうか。おれは今になってようやく、自分はずっと、ちょっとばかり広いだけの箱の中にいて、次はそこから弾き出されそうになっているのかもしれないと思った。
いつもの坂の石垣のうえで八重子が待っていた。
近頃はどうにも気まずくて顔を突き合わせないようにしていたから、そのときも初めは避けて帰ろうかとも思っていた。しかし、八重子はまるで何も変わったことはなかったみたいに、石垣に手をついて話しかけてきた。
「あんた、東京行くんだってね」
おれは足を止めて、ちらりと見上げた。からっ風に吹かれて、八重子の耳も鼻も薄っすらと赤らんでいた。
「そうだよ」
「いつ帰ってくんの」
「ずっと帰んね。いま決めた」
「何それ、生意気だ」
八重子は欠けた眉毛をぴくりと動かし、石垣から飛び降りた。ほっそりした足首が、凛と地べたを踏みつけていた。
「勝負しよう」
またか、と思った。口を結ぶおれの目の前に立ち塞がって、八重子は言った。
「家の庭に、椿があんの。赤い花と白い花が咲くよ。どっちが早く咲くと思う」
おれはもう、勝負にはうんざりしていたのだが、ここで八重子の機嫌を損ねてこの前のことを言いつけられたら堪ったものじゃない。それに、八重子の我儘聞くのもこれで最後になる訳だから、付き合ってやるのも悪くないかと思った。
八重子の家の椿は二本あって、北が赤で南が白だ。だったら、陽のよく当たる白い椿のほうが、早く咲くに決まっている。
おれはそんな算段をつけて、肩をすくめて答えてやった。
「白い椿」
「じゃあ、赤い椿が先に咲いたらあたしの勝ち。白い椿が先に咲いたらあんたの勝ち」
八重子はそう言って走り去った。
結局、八重子の怪我は痕が残った。痂が取れても次の毛が生えてこなくて、あの狗尾草みたいな立派な眉は、ずっと少し欠けたままになってしまった。だけれども、八重子の怪我とおれとの関係についてはとうとう誰も気づかなかった。おれと八重子は奇妙な共犯者になった。
Ⅲ
春になって、東京の家にも慣れた頃、一枚の葉書が届いた。八重子の家からだった。
『赤いつばき』
おれは、そうかよ、と呟いて葉書を引き出しにしまった。八重子の揚揚とした顔が思い浮かぶようだった。返事は出さなかった。
それから毎年、春ごろになると、ただ一文だけ書きつけた不躾な葉書が届くようになった。
赤いつばき、赤いつばき、赤いつばき……
…………
……
────そんな訳あるか!
昨日、おれは十枚目の葉書を破り捨てた。
隣の部屋で寝ていた叔父に暇を貰いに行って(おれがそんなことを言い出すのは今まで一度もなかったから叔父は大層戸惑っていた)角帽掴んで鞄も持って下り列車に飛び乗った。終点に着いたのは真夜中だ。
駅から郷の道なんて東京行の一回きりしか通ったことはなかったけれど、迷いもせずに進んでいった。蛾が灯りに惹かれるように、磁針が北を差すように、喉に刺さった小骨のような感覚が、ずっとおれをあの丘の上へと駆り立てていた。
寝静まった町中を抜けていって、徒広い畑と桑の並木を過ぎて、梅の枝が明星を指差す頃────おれは、八重子の家の前に立っていた。
頻りに蛙が鳴いている。
昔はあんなに高く立派にそびえて見えた八重子の家の生垣は、こうして見れば随分低くて、中がすっかり覗けてしまう。おれは辺りを見回してからそっと首を伸ばすと、眉をひそめて溜息をついた。
「やっぱり、おれの勝ちじゃないか」
簪みたいにぽんと咲いた白い椿の枝を背に、おれはふらふら立ち去った。
これでまた同じ道を引き返そうなんて、ほんとうに馬鹿馬鹿しかった。おれは太平洋に漂流する船乗りの気分だった。つまり途方にくれていた。
生家に入れてもらおうとかも思ったが、こんな時間に叩き起こすのも申し訳ない。せめて少し待って出直そう。しかし、随分な強行軍のせいでおれはすっかりくたびれていて、あの坂の石垣まで戻った辺りでずるずると座りこんでしまった。
どうも、苔石を枕に眠ってしまっていたらしい。気づけば疾うに朝日も昇って、おれは誰かに肩をきつく揺さぶられていた。
「あんた、どこのだ。どうしたのさ。何してんのさ」
酔っぱらいか、行き倒れかにも見えたのだろう。そういう訳じゃない、と頭では分かっていたが、おれはぼんやりしたまま、ただただ思い出したことを呟いた。
「嘘を、吐かれた」
そう言って顔を上げると、若い女が杏眼をさらに丸くしてこっちを見下ろしていた。誰だろう。兄貴か誰か、美人の嫁さん貰ったのかと薄っすら思った。
「そんなの、知らないよ」
顔を背けたその人の、眉の辺りの古疵を血色がぽっと差して奇麗に染めた。赤い椿の、花びらみたいに。
それで初めて、負けた、と思った。
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