第九章:アレシアの死闘
その日、空は低く垂れこめ、まるでガリア全土の悲しみを吸い込んだかのように、重い鉛色をしていた。
アレシアの城壁から、そして地平線を埋め尽くす救援軍から、同時に鬨の声が上がった。
それは、一つの巨大な絶叫となって谷間を揺るがし、我々が築き上げた包囲網に、内外から同時に襲いかかってきた。
ガリアの、最後の戦いが始まったのだ。
俺、レビルスは、中央に設営された司令部の天幕で、この地獄を盤上として見下ろしていた。
伝令たちが、血と泥にまみれながら、次々と絶望的な報告を運び込んでくる。
「外壁、第七区画! 敵の猛攻により、土塁が崩壊寸前!」
「内壁、南門! ウェルキンゲトリクスの部隊が、決死の突撃を仕掛けてきます!」
「ラビエヌス様より伝令! 敵の主力は、北側の丘にある、我が軍の弱点に集中している模様! もはや、持ちこたえられません!」
俺は、地図の上に駒を置き、予備兵力を動かす。
「第十大隊の、第三、第四百人隊を第七区画へ!」
「キケロ様の軍団から、二個大隊を南門の増援に回せ!」
俺の頭脳は、この混沌を、冷徹な数字として処理し続けていた。
だが、その計算が弾き出す未来は、ただ一つ。緩やかな、しかし確実な「破滅」だった。
外壁の北側丘陵。そこは、この戦いにおける最大の激戦区となっていた。
副司令官ラビエヌス様は、その美しいエルフの顔を土と血に汚しながら、自ら最前線に立ち、崩壊寸前の戦線を支えていた。
二十五万の暴力の奔流が、彼が守る一点に、容赦なく叩きつけられる。
「持ちこたえろ! ここを抜かれれば、我々は終わりだ!」
彼の隣で、俺のかつての仲間たちが、鬼神となって戦っていた。
「うおおおおおっ!」
百人隊長ボルグは、その巨大な戦斧で、敵兵を盾ごと叩き潰す。彼の足は大地に根を張り、決して退かない。彼こそが、この戦線の、揺ぎない鉄の楔だった。
「へっ、死に場所がここたぁ、悪くはねえ!」
古参兵のセクンドゥスは、老獪な剣技で敵をいなし、恐怖に震える新兵の背中を叩いては、前線へと押し出していく。
獣人のガレウスは、もはや兵士ではなかった。
彼は、群れを守るために戦う一匹の狼となり、敵の陣形に食らいついてはその喉笛を食いちぎっていた。
そして、後方の監視塔からは、エルフの斥候シルウァヌスの放つ矢が、的確に敵の指揮官たちを射抜いていく。
彼らは、俺が司令部で動かす、ただの駒ではない。
魂を持った、かけえのない仲間たちだ。
その彼らが今、俺の計算が導き出した、最も危険な場所で、命を散らそうとしていた。
内壁でも、死闘は続いていた。
カエサル自らが指揮を執り、アレシア城内から決死の覚悟で出撃してくるウェルキンゲトリクスの突撃を、鉄壁の陣形で受け止めている。
そして、内外の最激戦区に、火消し役として投入されていたのが、若き猛将アントニウス様が率いる遊撃部隊だった。
彼は、まるで戦を楽しむかのように、最も危険な場所へとその身を投じ、その武勇で、崩壊しかけた戦線を何度も立て直していた。
だが、多勢に無勢だった。
日が傾き始める頃には、包囲網の各所で、限界を示す悲鳴が上がり始めていた。
「もう駄目だ!」
「敵が多すぎる!」
兵士たちの士気が、急速に失われていく。その報告は、俺の司令部天幕にも届いていた。
特に、ラビエヌス様が守る北側丘陵の戦線は、もはや崩壊寸前だった。
その、絶望的な報告を受けたカエサルが、動いた。
彼は、内壁の指揮を他の将軍に任せると、僅かな予備兵力を率いて、自ら最も危険な北側丘陵へと駆けつけたのだ。
「兵士諸君! 俺の顔を覚えているな!」
カエサルは、自ら盾を手に取り、恐怖に後ずさりする兵士の肩を掴んだ。
「俺は、お前たちの戦いを、この目で見ているぞ! 共和国の兵士だろうが! 立て!」
サビス川の死闘の再現。総司令官自らが最前線に立つその姿が、兵士たちの心に、最後の、そして最も熱い火を灯した。
カエサルは、崩壊寸前の戦線の中心で、鬼神のごとく戦うラビエヌスの元へと駆け寄った。
「持ちこたえろ、ラビエヌス。友よ」
カエサルの声に、ラビエヌスは血に濡れた顔を上げた。その美しいエルフの顔には、疲労と、しかしそれ以上の、揺ぎない闘志が宿っていた。
「…貴方が来ると、信じていた」
二人の間に、多くの言葉は必要なかった。ガリアでの八年間、そしてそれ以前から、数多の戦場を共に駆け抜けてきた二人の王だけが交わせる、絶対的な信頼の視線が、そこにはあった。
その頃、俺は司令部の天幕で、最後の予備兵力が記された駒を、震える手で握りしめていた。
(…このままでは、じり貧だ)
俺の計算は、それを無慈悲に告げていた。
カエサル閣下の奮戦も、いずれは巨大な波に飲み込まれる。
(どこかで、賭けなければならない。計算を超えた、決断を)
俺は、血走った目で、地図を睨みつけた。
敵の攻撃が集中する、外壁の北側丘陵。その、さらに側面。一見すると、何の変哲もない森。だが、斥候の報告では、そこはぬかるみがひどく、大軍の移動には適さないとされていた。だからこそ、ガリア軍も、そこを完全に無視していた。
(…ここだ)
俺の頭脳が、一つの、狂気じみた可能性を弾き出した。
俺は、天幕を飛び出すと、カエサルが向かった北側丘陵の本陣へと、狂ったように駆けた。
「閣下! 進言があります!」
俺は、血と汗にまみれたカエサルの前に、一枚の地図を突きつけた。
「このままでは、我々は敗北します。ですが、一点だけ、勝機が残されています」
俺は、あの森を指し示した。
「ここに、残る全ての予備兵力を投入します。ラビエヌス様と閣下自身が敵の主力を引きつけている、まさにその瞬間に、この森を抜けた部隊が、敵の背後を突くのです」
「正気か!」
と、隣にいた百人隊長が叫んだ。
「あの森は、大軍が通れる道ではない!」
「だからこそ、敵は油断している!」
俺は叫び返した。
「これは、賭けです。ですが、この一点に、この戦争の全てを懸けるしかありません!」
カエサルは、俺の目を、そして俺が指し示した地図の一点を、静かに見つめていた。
やがて、彼は、静かに、しかし力強く、頷いた。
「…面白い。その賭け、乗った」
彼は、俺の肩を掴んだ。
「レビルス。お前が、行け」
「え…?」
「最後の予備兵力、そしてあのゲルマンの魔族傭兵を含む全部隊を率いて、その森を抜けろ。そして、お前の計算で、最も効果的な一撃を、敵の心臓に叩き込むのだ。これは、命令だ」
俺は、言葉を失った。
計算屋である俺に、この、最後の突撃の指揮を、託すというのか。
だが、俺の心にあったのは、恐怖ではなかった。
そうだ。これこそが、カエサルが俺に求めていた、計算を超えた「決断」なのだ。
俺は、カエサルの前から下がると、最後の予備兵力が待機する場所へと駆けた。
俺が率いるべき部隊の前に立った時、その最前列に、見慣れた顔ぶれがいることに気づいた。
ボルグ、セクンドゥス、ガレウス、そしてシルウァヌス。
俺のかつての「家族」たちが、まるで俺が来るのを分かっていたかのように、その装備を整え、静かに俺を待っていた。
「…隊長」
ボルグが、その岩のような顔に、かすかな笑みを浮かべて言った。
「あんたが行く場所に、俺たちがいないわけがないだろう」
「へっ、面倒事に巻き込まれるのは、もう慣れっこでね」と、セクンドゥスが悪態をつく。
ガレウスは、ただ獰猛な光を瞳に宿して頷き、シルウァヌスは、静かに弓を握りしめていた。
彼らは、命令されたから来たのではない。自らの意志で、この最後の死地へ、俺と共に立つことを選んだのだ。
俺は、彼らの顔を一人一人見渡し、そして、力強く頷いた。
俺は、剣を抜き、天に突き上げた。
「全軍に伝えよ! 副将レビルスは、これより、最後の反撃を開始する! 我に続け!」
その声は、もはや計算屋のものではなかった。
共和国の、そして、このガリアの運命を決める、一人の指揮官の、魂の叫びだった。
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