第一部前半 第八章:ブルゴーニュの決戦
地獄、という言葉ですら生ぬるい。
俺の目の前では、友軍の隊列が、怒涛の勢いで押し寄せるさすらいのエルフ氏族の波に、いとも簡単に飲み込まれ、砕け散っていく。悲鳴、怒号、そして鉄と鉄がぶつかり合う絶え間ない騒音。後方で見てきたどんな訓練風景とも違う、本物の戦争がそこにあった。
その時、俺たちのすぐそばを、一騎の馬が駆け抜けた。
乗っているのは、あの高級将校クラウディウスだった。
彼は、最前線で戦うでもなく、ただ安全な距離から戦況を「観戦」しているらしかった。
彼は、混乱する俺たちを一瞥すると、まるで路傍の石でも見るかのような無関心さで言い放った。
「貴官の部隊は、そこを動くな。後続が丘に布陣するまで、その場で壁となれ。総司令官の命令だ」
壁になれ、だと? この状況で? それは、死ね、という言葉の綺麗な言い換えに過ぎない。
俺は、自分の腹の底から、乾いた笑いがこみ上げてくるのを感じた。やはり、俺たちは使い捨ての駒なのだ。 俺の隣で、ボルグが怒りに顔を真っ赤にしている。だが、俺は妙に冷静だった。
俺は、少し離れた場所に、別の部隊が陣形を組んでいるのに気づいた。
筆頭百人隊長、マルクス筆頭隊長の第十大隊だ。
彼らは、混乱の中でも微動だにせず、まるで岩のような密集方陣を組んで、静かに敵を待ち構えていた。
マルクス筆頭隊長が、こちらを一瞥し、小さく頷いたように見えた。気のせいかもしれない。だが、その姿は、俺に覚悟を決めさせるには十分だった。
「ボルグ!」
俺は、覚悟を決めて叫んだ。
「聞こえたな! 命令通り、俺たちがここで食い止める! だが、ただの壁になるつもりはない! 俺の計算では、五分。いや、三分だ。それだけ持ちこたえれば、俺たちにも勝機が生まれる。いいか、絶対に深追いするな! 隊列を崩さず、盾の壁で耐えろ! 俺が合図するまで、一歩も引くな!」
ボルグは、俺のその狂気じみた覚悟を悟ったのだろう。彼は、その黒曜石の瞳に獰猛な光を宿すと、巨大な戦斧を握りしめ、兵士たちに向かって吠えた。
「聞いたな、野郎ども! 隊長の命令だ! ここが我々の死に場所だ! 盾を構えろ! 一歩でも引いた奴は、俺が後ろから叩き斬る!」
俺の百人隊が、一つの巨大な盾の壁となった。 そして、その壁に、さすらいのエルフ氏族の津波が激突した。
凄まじい衝撃。盾が軋み、兵士たちの苦悶の声が上がる。俺は後方で、数人の護衛兵に守られながら、戦況の全てをその目に焼き付けていた。
「右翼が薄い! 予備の二列を回せ!」
「中央、盾を突き出して押し返せ! 怯むな!」
俺の声が、戦場の喧騒にかき消されそうになる。
だが、ボルグが、その獣のような咆哮で俺の命令を繰り返し、兵士たちを動かしていく。俺の「頭脳」と、ボルグの「肉体」が、今、完全に一つになっていた。
一分が、永遠のように長い。 もう限界か。そう思った瞬間だった。 背後の丘の上から、軍団の角笛が鳴り響いた。態勢が整ったのだ。
「ボルグ! 聞こえたな! 全隊、後退! 丘の上まで、俺の合図に合わせて交互に後退しろ! 急げ!」
俺たちは、後退を始めた。それは、ただの敗走ではなかった。 一列が敵を食い止め、その間にもう一列が下がる。その統率された動きは、敵の追撃を許さなかった。
ようやく丘の頂上にたどり着き、主力の軍団の隊列に合流した時、俺の部隊の兵士は、三割近くが傷つき、あるいは命を落としていた。
だが、誰一人として、逃げ出した者はいなかった。 丘の上の陣形は、巨大な多頭の獣だった。 俺たちの百人隊は、その獣の鱗の一枚として、主力の戦列に組み込まれた。息を整える暇もなく、眼下からは地鳴りのような雄叫びと共に、さすらいのエルフ氏族の第二波が押し寄せてくる。
だが、その時、俺は気づいた。 なぜ、カエサルはこの丘を選んだのか。 ここは、木々の一本も生えていない、見晴らしの良すぎる、ただの禿げ山だ。
そうだ。だからこそ、この丘なのだ。 エルフたちの恐ろしさは、森や複雑な地形での、予測不能なゲリラ戦術にある。
だが、この開けた丘の上では、彼らの長所は完全に殺される。隠れる場所も、回り込む場所もない。彼らは、その気高いプライドをかなぐり捨て、自分たちが最も不得手とする、単純な正面からの力押しを仕掛けるしかないのだ。 カエサルは、敵を、自らが最も有利な土俵に、引きずり出したのだ。
「第一列、投槍構え!」
隣の区画から、マルクス筆頭隊長の雷鳴のような声が響き渡る。
「放て!」
カエサルの本陣から放たれた角笛の音を合図に、数千本の投槍が空を覆った。
それは、死の雨だった。丘の上から放たれる投槍は、重力という無慈悲な力を味方につけ、平地で放つのとは比較にならない破壊力で、エルフたちの繊細な陣形を粉砕していく。
投槍の雨が止み、一瞬の静寂が訪れた。
だが、俺は、眼下のエルフたちの陣形に、奇妙な変化が起きているのを見逃さなかった。彼らの前衛部隊が、一斉に地面に片膝をつき、その手を大地に触れている。そして、彼らの足元から、淡い緑色の光が、まるで呼吸するかのように明滅し始めていた。
「精霊術だ。大地そのものを武器に変える、奴らの大魔法だ」
俺は叫んだ。
「ボルグ! 全隊に伝えろ! 盾を地面に突き立て、身体を密着させろ! 足でしっかりと地面を踏みしめ、絶対に動くな! 光が最大になった瞬間、衝撃が来るぞ!」
兵士たちは、半信半疑のまま、巨大な盾の下端を地面に突き立て、来るべき何かに備えて身構えた。
そして、その瞬間は訪れた。 眼下のエルフたちの足元で、緑色の光が一度、ひときわ強く輝いた。
直後、俺たちの足元の大地が、まるで生き物のように隆起した。地面から、無数の巨大な茨の槍が、共和国軍の陣形を内側から引き裂かんと突き上げてきたのだ!
あちこちで、悲鳴が上がる。
だが、俺の部隊だけは違った。 俺の命令通り、盾を地面に固定し、衝撃に備えていた兵士たちは、突き上げてくる茨の穂先を、その盾の壁で受け止め、弾き返していた。俺たちは、この世界の大魔法を、俺の「予測」と、兵士たちの「規律」で、防ぎきったのだ。
魔法の衝撃が収まった後、生き残ったエルフたちが、最後の突撃を仕掛けてきた。
だが、彼らの切り札は、もうない。
「盾、構え! 衝撃に備えろ!」
俺は叫んだ。そして、その直後。 今度こそ、本物の鉄と鉄がぶつかり合う、凄まじい衝撃が俺たちの盾の壁を襲った。
「中央、押されている! 二列目、前に出ろ!」
「左翼、敵の隊長を狙え! 頭を潰せ!」
俺の指示に、ボルグが獣のような咆哮で応える。
彼は、まるで岩塊が転がるかのように敵陣に突っ込み、その巨大な戦斧で敵兵を薙ぎ払っていく。彼の存在が、俺の部隊の士気を、かろうじて繋ぎ止めていた。
どれほどの時間が経っただろうか。 敵の第一波を押し返し、わずかな静寂が訪れた、その時だった。
「隊長! 側面だ!」
兵士の一人が、絶叫した。 見ると、丘の右翼から、今までいなかった別の部隊が、砂煙を上げてこちらへ向かってくるのが見えた。敵の別働隊だ。我々は、挟撃される。 軍団全体に、動揺が走った。
「全軍、隊列を転換! 右翼に新たな戦線を構築せよ!」
司令部から、矢継ぎ早に命令が飛ぶ。だが、混乱の極みにある戦場で、数万の兵士が一斉に動くことなど、不可能に近い。 俺は、その混乱を、妙に冷めた頭で見ていた。 そうだ。こういう時こそ、俺の仕事だ。
「ボルグ! 聞こえたな! 隊列転換だ! だが、ただ動くな! 俺の言う通りにやれ!」
俺は、後方勤務で叩き込まれた、陣形転換の図面を頭の中に描いた。
「第一小隊と第二小隊は、今の位置で盾を構え続けろ! 正面の敵を食い止めろ!」
「第三小隊と第四小隊! 俺の合図で、軸足のように九十度回転! 右翼の敵に向けて、新しい盾の壁を作れ!」
俺の部隊は、混乱の中でも、まるで精密機械のように動き始めた。
俺たちの小さな成功が、軍団全体の崩壊を防ぐ、一つの楔となったのだ。 そして、その時、戦いの潮目が完全に変わったのを、俺は肌で感じた。
森を失ったエルフは、ただの軽装歩兵だった。 彼らの誇る個々の剣技や、しなやかな動きは、俺たちの盾が密集した壁の前では意味をなさない。
彼らの繊細な剣は、俺たちの分厚い盾に弾かれ、彼らの薄い鎧は、俺たちの短い剣が突き出す、無慈悲な刺突を防ぐことはできなかった。
一方で、丘を得た俺たちは、鉄の機械だった。 「押せ!」「突け!」「下がれ!」。
百人隊長たちの単純で、しかし統率された命令だけが、戦場に響き渡る。俺たちは、個人として戦っているのではない。巨大な一つの生き物として、ただ前進し、目の前の敵を押し潰すだけの、戦争機械となっていた。
これこそが、共和国の戦い方。これこそが、カエサルが作り出した、勝利の方程式。
あの「音のない津波」は、俺たちが築いた「鉄の防波堤」の前で、ついに力尽きようとしていた。
やがて、二方向からの猛攻を凌ぎきった俺たちの軍団が、反撃に転じた。 その日の夕暮れ、さすらいのエルフ氏族は、おびただしい数の死体を残して、敗走していった。
俺は、血と泥にまみれた戦場で、ただ立ち尽くしていた。
俺の部隊も、また多くの仲間を失った。だが、俺たちは、生き残った。 ボルグが、隣に立った。彼は何も言わず、ただ、その血まみれの戦斧を、静かに地面に突き立てた。 俺は、自分の腰の剣に手をやった。 結局、一度も抜くことはなかった。
「…帰るぞ」
俺は、生き残った部下たちに、そう言った。
すると、隣に立つボルグが、その低い声で、初めて俺に問いかけてきた。
「隊長。あんたの計算によれば、次の配給はいつだ?」
その言葉には、以前のような侮蔑の色は微塵もなかった。
ただ、事実を確認するための、部下から指揮官への、純粋な問いだった。彼は、俺の戦い方を、完全に認めたのだ。 俺は、その無骨な信頼が少しだけくすぐったくて、そして腹の底から力が抜けていくのを感じながら、答えた。
「さあな。だが、今はとにかく…腹が、減った」
ボルグは、その言葉に、初めて歯を見せて笑ったように見えた。 それが、俺の、初めての大会戦の終わりだった。
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