第六章(裏):王の誤算
ゲルゴヴィアでの勝利の報せは、疾風となってガリア全土を駆け巡った。
不敗神話に包まれた怪物カエサルが、初めて大地に膝をついた。
その事実は、ガリア諸部族の心に残っていた共和国への最後の恐怖を完全に拭い去り、ウェルキンゲトリクスの名の下に、かつてないほどの強固な結束をもたらした。
勝利から数日後、ガリアの中心地、**月光のエルフ氏族(ハエドゥイ族)**の都ビブラクテに、ガリア全土の部族長たちが集結した。
かつてはローマの最大の同盟者であったこの街が、今や反乱の中心地となっていた。
会議場は、勝利の熱狂に包まれていた。
ウェルキンゲトリクスが姿を現すと、地鳴りのような歓声が沸き起こる。
彼は、もはやアルウェルニ族の若き指導者ではない。ガリア全土が認めた、唯一の王だった。
彼は、集まった族長たちを前に、静かに、しかし力強く語り始めた。
「同胞たちよ! 我々は、ゲルゴヴィアで不可能を可能にした! ローマの不敗神話は、我らの手によって打ち砕かれたのだ!」
彼は、ガリアの民の誇りを最大限に煽り、その心を一つに束ねていく。
「だが、手負いの獣は、今なお我らの土地を彷徨っている。カエサルは北へ逃れ、軍を立て直そうとしている。奴に息を継ぐ暇を与えてはならん! この機を逃せば、二度と好機は訪れまい!」
ウェルキンゲトリクスは、地図の上に剣を突き立てた。
「これより、我々はガリア全土の力を結集し、カエサル本隊への総攻撃を開始する! 奴らの退路を断ち、完全に包囲し、殲滅するのだ! この戦いで、八年にわたる屈辱の歴史に、終止符を打つ!」
その宣言に、反対する者は誰もいなかった。
ゲルゴヴィアの勝利は、彼の言葉に絶対的な説得力をもたらしていた。族長たちは、剣を抜き、盾を打ち鳴らし、ガリアの王の決定に、熱狂的な賛意を示した。
ガリア連合軍の本陣は、勝利の熱狂に包まれていた。
「王よ! カエサルは敗走を始めました!」
「今こそ追撃を! あの怪物の首を獲る、絶好の好機です!」
族長たちが、功名心に駆られて口々に進言する。だが、ウェルキンゲトリクスは、その熱狂の輪から一歩引いた場所で、冷徹に盤面を読んでいた。
(…カエサルが、このまま無策で敗走するはずがない)
彼は、ラビエヌス率いる北方軍団の圧勝の報せを、誰よりも重く受け止めていた。
カエサルは手負いの獣だ。そして、手負いの獣こそが、最も危険な牙を剥く。
彼の視線は、北へ向かうローマ軍の行軍ルートと、その先にある**街道のドワーフ(リンゴネス族)**の領地を捉えていた。
(奴の狙いは、補給路の確保と軍の再編成。あのドワーフの領地へ逃げ込まれては、厄介なことになる…)
決戦の時は、今しかない。
ウェルキンゲトリクスは、全軍の前に立ち、その揺るぎない声で宣言した。
「これより、カエサルの首を獲りに行く。全軍、出撃だ!」
地鳴りのような歓声が、ガリアの空を揺るがした。
数日後、彼の計算通り、絶好の狩場が訪れた。
森と丘に挟まれた谷間を行軍するローマ軍の隊列は、長く伸びきり、その側面は無防備に晒されている。
「…来たか」
ウェルキンゲトリクスは、丘の上からその光景を見下ろし、静かに呟いた。
彼は、自らが率いる、ガリア最強の高速機動部隊を三隊に分けた。
「第一隊は正面から、奴らの前進を食い止めよ。第二隊、第三隊は、左右の側面から、あの忌々しい輜重隊を狙え。奴らの生命線を断ち切るのだ!」
風の精霊の加護を受けたガリアの戦士たちが、鬨の声を上げ、一斉にローマ軍の隊列へと襲いかかった。
戦況は、完全に彼の計算通りに進んだ。
ローマの重装歩兵は、前進を止め、中央の輜重隊を守るために、亀のように円陣を組んで防御に徹するしかない。
彼らが誇る規律と連携は、今や、自らをその場に縛り付けるだけの枷となっていた。
「見ろ! ローマ軍は完全に足を止めたぞ!」
「勝利は目前だ!」
族長たちが歓喜の声を上げる。だが、ウェルキンゲトリクスだけが、その光景に、微かな違和感を覚えていた。
(…あまりに、完璧すぎる)
ローマ軍の抵抗は激しい。
だが、彼らは決して崩れない。まるで、何かを待っているかのように、ただひたすらに耐えている。
その、違和感の正体が姿を現したのは、彼の部隊が勝利を確信し、ローマ軍の円陣に最後の突撃をかけようとした、まさにその瞬間だった。
ローマ軍の後方。
それまで予備兵力として待機していたはずの部隊が、突如として動き出した。
だが、その動きは、ローマ軍のそれとは全く異質だった。
規律も、陣形もない。ただ、数百の巨大な影が、獣のような雄叫びを上げ、大地を揺がしながら、一直線にこちらへ向かってくる。
(…なんだ、あれは?)
その全身から放たれる、剥き出しの暴力のオーラ。それは、彼が知るどの部族とも違う、混沌とした、原始的な力の奔流だった。
ゲルマンの魔族。
その計算外の駒の出現に、ウェルキンゲトリクスが一瞬思考を停止した、その隙。
数百の魔族の群れは、一つの巨大な鉄塊となって、彼の高速機動部隊の、無防備な側面へと激突した。
凄まじい衝撃音と、悲鳴。
風のように優雅だったはずのガリアの戦士たちが、その常識外れの重突撃の前に、まるで木の葉のように吹き飛ばされ、踏み潰されていく。
彼らが誇る精霊術も、個々の剣技も、この死さえ恐れぬ暴力の津波の前では、何の意味もなさなかった。
「退け! 退却だ!」
ウェルキンゲトリクスの絶叫が、戦場に響き渡った。
だが、時すでに遅かった。
彼の最強の切り札は、天敵の出現によって、一瞬にして無価値なカードへと成り下がっていた。
その日の夕暮れ、ウェルキンゲトリクスは、壊滅した自軍の残存兵力をかき集め、野営地へと撤退した。
彼の顔に、もはやガリアの王としての威厳はなかった。
ただ、自らの計算を上回る、カエサルという男の、底知れぬ恐ろしさへの戦慄だけがあった。
平原での野戦では、もはや勝ち目はない。ならば、戦いのルールそのものを、変えるしかない。
翌日、ウェルキンゲトリクスは、敗戦に打ちひしがれるガリア諸部族の長たちを、再び軍議の場に召集した。
天幕の中は、絶望的な沈黙に支配されていた。
「…王よ。我々は、これからどうすれば…」
一人の老いた族長が、絞り出すように尋ねた。
ウェルキンゲトリクスは、その問いに、静かに、しかし力強く答えた。
「戦い方を変える」
彼は、地図の上に、一つの地点を指し示した。天然の要害、アレシア。
「昨日、我々は敗れた。我らが誇る機動力は、ローマ人が金で雇った、あの野蛮な暴力の前に砕け散った。もはや、平原で奴らと戦うのは愚策だ」
彼は、族長たち一人一人の顔を見渡し、その声に、新たな戦略の光を宿した。
「だが、奴らの弱点は変わらない。兵站だ。我々は、このアレシアに籠城する。そして、ガリア全土に檄を飛ばし、数十万の救援軍を招集するのだ。我らがアレシアでカエサルを釘付けにしている間に、救援軍がその後方を断つ。城壁と、救援軍とで、あの怪物を挟み撃ちにするのだ!」
それは、あまりに壮大で、そしてあまりにも危険な賭けだった。だが、敗北の淵に立たされた族長たちにとって、それは唯一残された、希望の光でもあった。
「ガリアの命運は、この一戦に懸かっている! 異論のある者はいるか!」
ウェルキンゲトリクスの問いに、反対する者は、もはや誰もいなかった。
それは、敗走ではなく、次なる勝利のための、ガリア全土の総意に基づいた、最後の、そして最も危険な賭けの始まりだった。
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