第五章(裏):王の計算
ゲルゴヴィアの城壁の上から、ウェルキンゲトリクスは眼下に広がるローマ軍の陣営を、冷徹な瞳で見つめていた。
風が、彼の掲げたガリア連合軍の軍旗を誇らしげにはためかせている。彼の周りに立つ諸部族の長たちの顔には、カエサルという怪物への恐怖と、この天然の要害に籠る安心感が混じり合っていた。
だが、ウェルキンゲトリクスの心にあったのは、恐怖でもなければ、安心でもない。ただ、巨大な獣を狩る前の、狩人のような静かな興奮だけだった。
(…来たか、カエサル)
彼は、ローマ軍の動きを、まるで盤上の駒のように読んでいた。
ブールジュでの虐殺は、確かに痛手だった。
だが、それさえも、今や彼の計算の内にある。あの非道な行いは、ガリアの民の心を完全に一つにした。
そして、カエサルを、この、彼が選んだ戦場へと誘い込むための、完璧な餌となったのだ。
斥候からもたらされる報告は、彼の予測通りだった。
「王よ! ローマ軍の一部隊が、城壁の東側へ向かっています! 大規模な陽動のようです!」
「うむ」
ウェルキンゲトリクスは、表情一つ変えずに頷いた。
「主力をそちらへ回せ。だが、深追いはするな。奴らの本当の狙いは、そこではない」
彼の視線は、城壁の南、一見すると何の変哲もない、小高い丘に向けられていた。
(奴らの計算屋は、必ずここを突いてくる)
あの丘は、このゲルゴヴィアにおいて、唯一にして最大の弱点に見える。
だが、それはウェルキンゲトリクスが、あえて残しておいた「隙」だった。
彼は、ローマ軍の指揮官たちが、その傲慢さゆえに、必ずこの分かりやすい好機に飛びついてくると計算していた。
彼らが信奉する合理性と効率こそが、彼らを破滅へと導くのだと。
やて、ローマ軍の精鋭が、陽動の裏で、その丘へと殺到した。
ガリアの兵士たちは、計画通り、わずかな抵抗を見せただけで、あっさりとその丘を明け渡す。
ローマ軍の陣営から、熱狂的な歓声が上がるのが、城壁の上からでも聞こえてきた。
あまりに容易い勝利。あまりに完璧な奇襲の成功。
ガリアの族長たちの顔に、焦りの色が浮かぶ。
「王よ! このままでは…!」
「静かにしていろ」
ウェルキンゲトリクスの声は、絶対的な自信に満ちていた。
「獣は、罠にかかった。あとは、その喉笛に刃を突き立てるだけだ」
そして、彼の計算通り、ローマ軍は、自滅への道を突き進んだ。
丘を占拠したローマの兵士たちは、退却命令を無視し、功名心に駆られて、がら空きに見えるゲルゴヴィアの城壁へと殺到してくる。
その姿は、もはや精強な軍団ではなく、ただの欲望に駆られた烏合の衆だった。
(…愚かな)
ウェルキンゲトリクスは、心の中で呟いた。
(カエサル、貴様の兵士たちは、勝利に飢えすぎている。それこそが、貴様の最大の弱点だ)
彼は、天に掲げていた右手を、静かに、振り下ろした。
それが、反撃の合図だった。
それまで固く閉ざされていた城門が、一斉に開け放たれる。
中から姿を現したのは、この時のために温存されていた、**『王家のエルフ氏族(アルウェルニ族)』**の精鋭たち。
そして、城壁の物陰に隠れていた伏兵が、一斉に矢と投石の雨を降らせる。
ローマ軍の熱狂は、一瞬で、阿鼻叫喚の地獄へと変わった。
突出した部隊は、完全に包囲され、その隊列は無残に切り裂かれていく。
歴戦を誇る百人隊長たちが、次々とエルフの優雅で、しかし無慈悲な刃に倒れ、共和国の象徴である鷲の旗が、ガリアの土の上に叩きつけられる。
ウェルキンゲトリクスは、その光景を、一切の感情を見せずに、ただ見つめていた。
これは、ただの勝利ではない。
これは、ガリアの民が、共和国の不敗神話を打ち破った、歴史的な瞬間だった。
やがて、カエサルが最後の予備兵力である第十大隊を投入し、敗残兵をかき集めて撤退していくのが見えた。
「追撃を!」
一人の族長が、興奮して叫んだ。
「ならん」
ウェルキンゲトリクスは、その声を、冷徹に制した。
「カエサルという獣は、手負いの時こそ、最も危険だ。深追いはするな。我々の目的は、この一部隊を殲滅することではない」
彼の視線は、目の前の戦場ではなく、ガリア全土の未来を見据えていた。
「この勝利の報せが、ガリア全土を駆け巡る。月光のエルフ氏族も、もはや迷うことはあるまい。全てのガリアが、我らの旗の下に一つになる。それこそが、この戦いの、真の勝利なのだ」
その日の夕暮れ、ウェルキンゲトリクスは、勝利に沸く城壁の上から、遠ざかっていくローマ軍の隊列を、静かに見送っていた。
彼の計算は、完璧だった。
彼は、敵の心理さえも変数に組み込み、この戦いを、完璧に支配したのだ。
だが、その勝利の祝宴に水を差す報せが、北から駆け込んできたのは、その数日後のことだった。
泥と血にまみれた伝令が、彼の前に崩れ落ち、絶望的な報告を告げた。
「申し上げます…! 北方、パリシイ族の地にて、我らの同盟軍が…ローマの副司令官、ラビエヌスに、大敗を喫しました…!」
勝利に沸いていた軍議の場が、水を打ったように静まり返る。
「…ラビエヌスだと?」
ウェルキンゲトリクスは、その名を、まるで忌まわしいものでも口にするかのように呟いた。カエサルの影に隠れがちだが、あのエルフの将軍こそが、ローマ軍最強の戦術家であると彼は評価していた。
伝令は、震えながら続けた。
「ラビエヌスは、撤退を装い、我らを有利な地形からおびき出すと、完璧な反転攻勢で…我らの軍は、為す術もなく…壊滅いたしました…」
「偽りの撤退」
…あまりに古典的で、しかしそれゆえに完璧な罠。
ウェルキンゲトリクスは、しばし目を閉じ、思考を巡らせた。
(…あのエルフめ。カエサルが南で敗れたこの機を、むしろ最大の危機と捉え、一気呵成に北を片付けに来たか)
彼の脳裏に、ガリア全土の地図が広がる。南ではカエサルを退けた。
だが、北ではラビエヌスが圧勝し、今や無傷の四個軍団が、こちらへ向かって南下を始めているだろう。
彼は、二つの戦いを頭の中で反芻した。
ゲルゴヴィアと、北方の平原。
どちらも、罠によって勝敗が決した。ローマ軍は、俺の罠にかかり敗走した。北の同盟軍は、ラビエヌスの罠にかかり壊滅した。
構図は、同じだ。だが、その結末は、決定的に違っていた。
(…なぜだ?)
ウェルキンゲトリクスは、その違いの根源に気づき、戦慄した。
(ローマ軍は、罠にかかり、敗れはした。だが、崩壊はしなかった。カエサルは、損害を抑え、軍団の統制を保ったまま撤退してみせた。一方、我らの同盟軍は、一度罠にかかっただけで、完全に壊滅した…)
そうだ。それこそが、ローマとガリアの、絶対的な差。
個々の戦士の武勇や、指揮官の才覚ではない。
一つの敗北を、組織全体で受け止め、次なる戦いへと繋げる力。
敗れてもなお、決して折れることのない、軍団という巨大な生命体の強靭さ。
それこそが、ローマの真の強さなのだ。
彼の顔に、勝利の熱狂はなかった。
ただ、次なる、そして最後の戦いを計算する、ガリアの王の、冷徹な覚悟だけが、そこにあった。
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